幽霊が行く

 一八六四年七月八日、あるいは元治元年六月五日の夜は、日本の夏らしい、じめじめと湿気が体をまとわりつくような暑い夜だった。
 ピリピリと刺すような殺気があたりに満ちている。ふふっ、と乱が小さく笑った。
「気は引き締めろよ、乱」
「わかってるってば」
 一応嗜めはするものの、口調とは裏腹に薬研の口元には好戦的な笑みが浮かんでいる。
「しょうがないじゃない、久しぶりの前線だもん」
「ああ、俺っちだって血が騒いでるよ」
 これから始まる戦いへの期待を隠そうともしない薬研と乱の後ろを歩きながら、青江は頼もしいなと思った。短刀たちはキャリアは最も長いが、戦場によってはやはり狙い撃ちされることが多く、ここのところ揃って出陣することはほとんどなくなっていた。
「懐かしいですね、こうしてみなで出陣するのは。まだ太刀が誰もいなかったころを思い出します」
 戦場に不似合いなほどに穏やかに微笑んでいるのは前田藤四郎。最初の鍛刀で顕現した、このなかで一番の古株である。前田の声に振り向いた薬研と乱がにっこりと笑う。
「まえだとあおえ、おそろいですね」
「おや、言われてみれば。本当だねえ」
 音もなく軽やかに赤い天狗下駄を操りながら、五人の間を縫うように行ったり来たりしていた今剣が言った。幼い外見と溢れる自信と余裕は、まさに天狗といったところか。
 前田の肩にかけられた白いマントを見てから、自分の白装束をちらりと見て、青江はゆったりと口を開いた。
「君のそれはお兄さんの真似だろう? 僕と一緒はいやじゃないかい?」
「そんなことはありません! 青江さんが隊長で、とても頼もしいです」
「本当かい? それはがんばらないとねえ」
 というか、兄の真似だとばれていたんですね、と少し恥ずかしそうに前田がはにかんだ。その様子を微笑ましく思っていると、乱がくるりと振り返る。
「ほんとに! 青江さん頼もしいし、それに夜の町並みにぴったり。似合いすぎだよ~」
「柳の下に立ったらまるで幽霊画だな」
「おや、僕も幽霊にされてしまうのは困るなあ」
 青江、乱、薬研の三人で軽口を叩き、時おり前田がくすりと笑う。まるで夜の遠足かと錯覚しそうになるが、しかし肌を刺す緊張感は紛れもない実感で、それが倒錯した興奮をもたらしていた。戦いたい、戦いたい、戦いたい。早く来い。早く来い。一瞬で、息の根を、止めてやるから。
 はたと今剣が立ち止まり、背後に向かって声を投げた。
「いしきりまる、いくらなんでもおそいです!」
「君たちみたいに細い路地を縫うようには進んでいけないんだ、勘弁しておくれ」
「君は本当に鈍足だなあ」
 にんまりと笑う青江に、数歩後をついてきている石切丸がしょうがないじゃないかと言い訳する。いつもは馬に乗ってなんとか行軍についていっている石切丸だが、馬に乗るわけにいかない市中では、完全に一人遅れをとっていた。
「なぜ私にも命が下ったのだろう……」
「念のためだってさ。なにかあったときは頼りにしてるよ」
「おや、なにかあるのかい? 青江がいるのに?」
「まあ、万が一にもないとは思うけれどね」
「青江さんかっこいー!」
 大胆不敵に言ってみせると、石切丸は頼もしいなとあの穏和な笑みを浮かべた。戦場においてみなを安心させる石切丸の笑みだが、今夜に限ってはなんというか今一つ締まらない。
「あはは、いつもみたいに決まってないよ~、石切丸さーん」
「乱は手厳しいなあ」
「いしきりまる! くちじゃなくてあしをうごかす! はやくしてください!」
「ちょっと待っておくれ」
 今剣は完全に焦れてしまって、しきりに石切丸を急かす。薬研と前田は落ち着かない様子でそわそわと辺りを見回し、乱の頬は嬉しげに緩んでいた。
 刹那、殺気。
「おや、敵は待ってくれないみたいだね」
 青江が言うやいなや、同じく殺気を感知した四人の雰囲気もがらりと変わる。どんなに外見が幼くとも、本丸で平和な暮らしをしていても、我々は刀。命を奪う道具。守ってきた。殺してきた。戦ってきた。人の体を得てしまった。戦いの興奮を、熱狂を、知ってしまった。平和のなかで眠っていたあの頃には戻れない。飾られるだけなんてまっぴらだ。生きている実感をくれ。戦場でしか生きられない。我々は刀だから。
「ああ、やっとだ……!」
「どんなコが相手かなあ」
「気を引き締めて行きましょう」
「こんやはたのしいよるになりそうですね」
 刀を抜く、涼しい音が闇に響く。
 刃が煌めく。
「さあ、斬ったり斬られたりしよう」

 次々と降ってくる投石や矢をひらりとかわしては背後から音もなく敵を屠る五人とは対照的に、石切丸は苦戦を強いられていた。
 長い得物が市中の戦いに不向きであることはわかっていたものの、ここまでとは。おまけに馬の機動力も視界も奪われ、膝をついて顧みた我が身はいつの間にかあちらこちらに傷を負っている。
 息が荒い。
「……まったく、私がここまでとはね」
「本当にね」
 石切丸の脇を颯爽と走り抜けた青江を目で追って振り返ったときにはもう、彼の背後に音もなく迫っていた槍を青江が斬り捨てたあとだった。
「青江」
 振り向いた青江の瞳に湛えられた光は冷たく、思わず見とれる。しかしすぐに氷のような眼光は影を潜め、石切丸に向かっていつものように笑いかけた。
「どうしたんだい? 君らしくないじゃないか」
「ありがとう、助かったよ」
 すっと差し出された青江の右手をつかみ、立ち上がる。傷だらけの石切丸を見つめる青江はとても楽しげで、新たにできた石切丸の腕の傷へと視線を落とし、いとおしげに見つめた。
「傷だらけの君なんて、いつぶりに見るかな」
 うっとりと呟いて、握っていた手を離す。戦いが始まってからはみな散り散りになり、思い思いの場所で戦っていた。心配はしていない。青江が気にかけているのは石切丸だけだった。鈍足で夜目が効かなくて、見事な大太刀を満足に振るうこともできず、明らかにいつもの力の十分の一も発揮できていない石切丸。自分は傷ひとつ負っていないのに、ぼろぼろの石切丸。胸の中の愛しさがせり上がってくる。
「さっきの青江、まるで風のようだったよ」
「幽霊よりはいいかな」
「おや、さっきのを気にしているのか」
「まさか。気に入っているくらいだよ」
 このあたりの敵はあらかた片付けたようだった。遠くではまだ戦いが続いているようだから、念のためそちらへ向かおうと青江は考える。到着する頃にはもう終わっているかもしれないが。
「行くのか」
「一応ね。石切丸はここにいてくれ」
「そうさせてもらうよ」
 弾かれたように、乱暴に石切丸の胸ぐらを掴んで引き寄せて唇をぶつける。熱い。血が脈打っている。
「……痛いじゃないか」
「戦場には似合うだろう?」
「違いないな」
 至近距離で視線が絡み合う。体にまとわりつく湿気と暑さと、辺りに漂う血のにおいと、そこにまじる目の前の男のかおりで、おかしくなってしまいそうだった。いや、既に狂っているといってもよかった。
「戦いが終わっても満足できなかったら来るといい」
「はなからそのつもりだよ」
 お返しとばかりに、今度は石切丸の方から青江の唇を奪う。長く感じる一瞬の間に喰らい合い、なにごともなかったかのように体を離す。
「じゃあね。大人しく守られておきなよ」
 すぐに終わらせてくるからと言い置いて、青江が身を翻した。白装束がぼんやりと闇夜に浮かんで消えていく。

 格子のように入り組んだ路地を駆けているうちに、どうやらいま前田が戦っている相手以外にも潜んでいるらしいことがわかった。その身に宿したもののおかげか、青江は敵の情念といった類いのものに対する感覚も鋭い。どうやら次の角に潜んでいる者は敵部隊とは違う、なにか違う目的を持っているようだった。方向転換し、そちらの気配に向かって走っていく。
「ああ――そんな気はしていたよ」
 暗い路地から姿を現したのは一人だった。
「打刀、だね」
 言い終わるより早く、敵が斬りかかってくる。キン、キン、と金属と金属がぶつかり合う音がしきりに響く。
「――!!」
「ああ、いいねえ」
 言葉にならない叫び声が空気を震わせ、びりびりと肌に刺さる。鼻先をかすめる切っ先や、手に伝わる肉を斬る感触、一瞬一瞬の攻防を楽しみながらも、青江は妙に冷めた頭の奥で別のことを考えていた。
 なんのために戦うのか。
 つまるところ、この戦争は自分たちには直接の関係はないのだ。ならばなんのために? それはきっと誰しもが一度は突き当たる根源的な疑問で、答えを出さなければならない問いだった。
 青江は答えを出した。突き詰めたところで答えは出ないのだから、それならひとまず今を謳歌することにしたのだ。初めて食べた白米はおいしかった。初めて入った風呂は気持ちよかった。初めて飲んだ酒はまずかったが、今ではおいしく感じる。初めてのことだらけの日常は、何百年も永らえてきた青江にとっては新鮮だった。他の者にも同じだろう。
 我々は刀だ。人間の真似事をしたところで、付喪神で、道具だ。
 けれど戦えば熱狂するし、体を合わせれば興奮するし、そのくせ、隣にいるだけで泣きたくもなる。人間の真似事に過ぎないのに、感情というものを持て余し、振り回されていることが、真似事で終わらない証拠だ。
 結局のところ、矛盾している。そういう、矛盾だらけの存在。
「そこだよね」
 青江の刃が敵の身を貫く。数秒ののち、一気に引き抜くと、ばたりと俯せに崩れ落ちた。
 静かになった二人だけの路地裏に、青江の逸った息と、打刀の苦しげな呼吸音がこだまする。
「――、」
「ん?」
「――、……――、」
 苦しげになにかを言った。途切れ途切れの言葉を拾って頭のなかで繋げていく。敵だが、彼が哀れだった。
「君の気持ち、わからなくもないよ」
 自分ももう、執着を知ってしまったから。
 僕はなんで神剣になれないんだろう、だなんて。何百年かすれば、またかわるかもしれないよ、だなんて。わずかに緩んだ心の隙間に、あっという間に入り込まれてしまった。それを許してしまった。それ以上すらも、望んでしまった。
「僕も、あるひとが死んだら、君のようになってしまうかもしれないな」
 打刀が、笑った、ような気がした。
 何百年、これまで生きてきた時間と同じくらい、もしくはそれより長い時間をこれから生きていく。途方もない長さのような、大した長さではないような、そんな時間を生きていく。
 きっと、自分は彼女とあの子を斬ったことを後悔することはないだろう。彼は、彼の過去を後悔して、変えたいと願ってしまった。たった、たったそれだけの違いだ。
 矛盾している。どんなに人に近付けど、人のように違う未来を願えば鬼となる。我々は刀だ。刀のはずなのに、もはやただの刀ではなく、人にもなれず、鬼になることは許されず。ただ、記憶を抱いて生きていくほかない。
「僕たちみんな、過去から逃れられない幽霊だよ」
 君もね。
 刀を振って、地面に血痕が飛ぶ。石切丸に会いたかった。

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