口先三寸
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
まるで視線が引力に引っ張られたかのようだった。吸い寄せられるように動かした視線の先に、彼はいた。
ほとんど時を同じくして、降谷も赤井に気づいたようだった。一瞬ののち、その目をわずかに見開いて、それから懐かしむように微笑み、「久しぶり」と唇を動かしたのがわかった。
赤井が道の脇のショーウィンドウへと足を向けると、示し合わせたように降谷もそちらへとつま先の向きを変える。人ごみを縫って彼のもとに近づいていく。ブランドのマネキンを背に立つ降谷はモデルのようだった。やわらかいまなざしで赤井を見つめている。
「元気だった?」
「まあ、それなりに」
「そっか。よかった」
降谷くんは、と聞くとそれなりに、と言っていたずらっぽく笑う。この笑い方が好きだった。
「いまなにしてるんですか」
「日本でふらふらしてる」
「なにそれ」
「真澄にいい加減にしろって怒られてな」
あはは、と降谷が声を上げて笑う。
「いい加減にしろって怒られて日本でふらふらしてるんだ」
「日本にいるだけましなんだとさ」
「ハードル低!」
なんだ、元気でやってるんだ、と降谷は安心したように小さく呟いた。最後に会ったのは何年前だったろうな、と頭の奥でぼんやりと思った。何年、もう三年? あっという間だな、と思う。降谷と会うのは関係を解消したとき以来だというのに、そんな昔のことのような気がしない。
大人らしく、きっかけの言葉もなくずるずると始まった関係だった。勢い気まぐれアルコール、そういうものが原因のなにかの間違いだったと言われたら反論のしようがない。そのとおりだ。一分の隙もなく。
降谷を口説くのはおもしろかった。それは本気のものではなかったし、降谷もそれをわかっていたと思う。相手にされていないのはわかっていたし、じゃれあいとか、口先三寸の遊びとか、そういう軽いものだった。直接そんなようなことを言われたこともある。「よくもまあそんな適当なことばかりぽんぽん言えますね」と、それはもう呆れ混じりに。あのときの降谷はそれでも笑っていたから、たぶんそれでもよかったのだろうけど。
赤井は面倒じゃないから楽でいい、という言葉を降谷はよく繰り返した。几帳面かと思っていた彼は思っていたよりもずっとずぼらで適当で雑だった。庁舎で食べる昼食はたいていコンビニ弁当か支給のもの、たまにお持ち帰りの弁当で、自販機のコーヒーに小銭を貢ぎ、手数料のかからない時間に銀行に行けないことに愚痴を言う。そんなどこにでもいるような普通で、とても人間らしい男だった。
降谷曰く、今はたいして忙しくない、ということだった。そうはいっても会うのはほとんどが夜で、それがなおさら、お互いがお互いを都合のいい相手と考えているように思えた。降谷の言う「たいして忙しくない」がどの程度のものなのか赤井にはわからなかったが、それこそたいした問題ではなかった。降谷がそう言うのだから、そういうことなのだろう。
最初の口説き文句は、降谷くんと飲むのは気兼ねがなくて楽だ、などという色気もくそもないものだったように思う。降谷からしたら口説き文句でもなんでもなかったかもしれないが、それでも明確に降谷のことをもっと知りたいという自覚を持って言った最初のときはそのときだったはずだ。最初はただの興味とか、好奇心だった。完璧に見える彼の、完璧でないところを知りたいと思った。
言えば言うほど言葉が軽くなっていくような気はしていたけれど、はじめて見るようなやわらかい表情で笑う降谷をもっと見ていたいと思う気持ちのほうが優先度は高かった。降谷は笑ったり、呆れた顔をしたり、適当に流したり、そのときによって反応は色々だったが、わずらわしく思っているような態度を見せたことはなかったように思う。
だから、調子に乗ったのかもしれない。知りたいと思うくせに踏み込まず、踏み込ませない関係はとても楽で、楽なぶんだけ楽しく、そして表面的だった。
いま、彼女とかいるんですか。
雑踏の中から降谷の声を拾い上げて、赤井はほんのわずかばかり動揺しながら、いや、と否定を返した。
「なんだ」
「なんだって、なんだと思ってるんだ」
「いや、ほら。思ったより軽かったから」
「それはないんじゃないか」
「ええ? 意外と簡単に人のこと口説くんだなあって思ってたけど」
あはは、と降谷が笑いながら言う。適当なことを言っているときの笑い方。どこにでもいるばかな男の、たいして中身のない話をするときみたいな表情。
「いないんだ。へええ」
「自分は?」
「仕事が恋人みたいな?」
「またそんな生活してるのか」
「別によくないですか? 楽しいし刺激的だし、やりがいもある」
まあ、本当のところは。もう面倒になっちゃって。一から開拓するほど、時間も元気もないっていうか、まあ、なるようにしかならないからいいんだけど。
降谷は淡々と言って、腕時計を見る。どこに出しても困らないような、完璧な立ち姿をして。
いいことを考えたんだ、と言い出した降谷はそれなりに酔っているようだった。北斗七星が北の空によく目立つ、晴れた夜のことだった。
「いいことを考えた」なんて言うときにそれが本当にいいことであるときなんていつだって限られていて、それが酔っ払いの戯言であるときなんてなおさらだ。内心は面倒だなと思う気持ちがまったくないわけではなかったが、それでも降谷が楽しそうにからからと笑うので、赤井は律儀にどんなことと聞き返したのだった。
「もうさあ、付き合ってるのとたいして変わんなくない? だったら付き合っても別によくないですか、ぼくたち」
ふむ、と赤井は降谷の言葉を咀嚼する。思ったより悪くないし、もっと言えばそれはかなり「いいこと」であるような気がした。
「付き合ってどうする?」
「うーん」
「考えてないのか」
「や、言われてみたら、付き合ってなにすんのかなと思って。一緒にお酒飲むくらいしかやることないですね」
そんなことはないさ、と言うと、降谷は一瞬だけきょとんとして、それからよかった、と言って笑ったのだった。
二人の交際は、概ね順調であったといえた。
ただ、いざ付き合ったからといって付き合う前からなにか変わったのかといえばたいしてなにも変わっていなかったため、順調以外の波風もそもそもないのだった。そのことに対して、降谷はなにも言わず、赤井もなにも言わなかった。割り切った関係といえば聞こえはいいが、実際のところ、きっと、都合のいい相手だっただけなのだろう。
「赤井って俺のこと好きなの」
酒気を帯びて、わずかに赤くなった降谷が帰りの時間を尋ねるような気軽さで問う。
「そうだと言ったら」
「いや、別に。どうなんだろうって思っただけ」
ふうん、そうなんだ。
そう言って、降谷は何事もなかったかのようにグラスの奥に視線を戻してしまった。
あのとき、答えを間違えたのだろうか。
「おまえはどうだったか知らないけど」
腕時計から顔を上げた降谷が、赤井の目をまっすぐ見つめる。穏やかなのに凛としていて、責められているようなのにどこかやわらかい、そういう表情だった。
「俺はけっこう、ちゃんと好きだった」
ばかなやつ。そうつぶやいて、降谷は笑う。
「どうせ、付き合ったって付き合わなくたってたいしてなにも変わらないじゃないかとか、こんなの都合のいい相手なだけなんじゃとか、ぬるま湯に浸かってどこにも向かえないのにとか、そんなこと考えてたんだろうけどさ」
赤井は押し黙り、観念したようにすごいな、と言ってこらえきれずに笑みをこぼした。
「だいたいその通りだよ」
そう言うと、降谷は一瞬だけぐっと泣き出しそうな顔をして、そして何事もなかったかのようにいつものように自信たっぷりの顔をする。
「逃した魚は大きかったですね」
「まったくだ」
降谷はもう一度だけ腕時計に視線を落とし、そろそろ行かないと、と小さい声で言った。引き止めて悪かったな、と赤井が言うと降谷はいや、と頭を振る。
「次、好きな人を口説くときは口先だけでぺらぺら口説くのはやめたほうがいいと思う」
「別に口先三寸ってわけでもなかったんだがな」
「ふうん? あ、そういえば口先三寸って誤用らしいですよ。本当は舌先三寸」
「へえ、知らなかった」
「僕もこの間知ったばっかりですよ。本当にばかなやつ、せっかくだからキスくらいしておけばよかったのに」
そんな爆弾発言に思わず目をむくと、降谷はいたずらに成功した悪ガキのように笑った。
「久しぶりに会えてよかった。では、お元気で」
降谷零。大人らしく、きっかけの言葉もなくずるずると始まった関係だった相手。いつの間にか本気になっていて、そのくせ踏み込むこともできず、自分が好きになった彼がそこなわれるのが怖くて、うわべだけの関係を装ったまま離れようと決めた相手。
「降谷くんも、元気で」
ぺこりと会釈をして、降谷は大きな歩幅ですっと赤井の隣をすり抜けて行った。未練なんてものは一切感じさせない横顔をして彼は、まっすぐ前を見据えたまま歩き、雑踏のなかに消えていく。
人の気も知らないで。
でも、きっと、降谷はいま自分がこう思っているところまでお見通しだったのだろう。そんなことを考えながら、赤井もその場を後にした。
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