独白・口先三寸 - 1/2

独白
今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな

 諦めることにしたんです。
 その声が耳に届いたとき、タイミングがいいのか悪いのか、後ろで雷が鳴った。どこか遠くでごろごろと鳴り響くその音はいま目の前の男の口から発せられた言葉と同じくらい現実味がなく、その「現実味がない」という感覚だけが妙にリアルだった。
「なにを」
「今申し上げたとおりですよ。彼のことを探すことを、もうやめようと決めたんです」
「どうしてそれを、私に?」
 自分のものでない声が言う。奇妙な感覚だ。
「さあ、なんででしょう。ただ、けじめというか。ご迷惑もおかけしましたし」
 安室は自棄になったようにうすく微笑みながら、手元のカップの縁をゆっくりとなぞる。
「腐れ縁だから、どうしても信じたくなかった。でも」
 もう潮時かもしれない。
 微笑みながら言う安室は悲しみをその瞳にたっぷりと湛えていて、あまりにその表情が本物の感情に根ざすもののようなので、かえって作り物めいているように思えた。
「僕の話、聞いてもらえませんか?」
 ええ、と頷くと、安室は悲しげに微笑み、ゆっくりと口を開く。窓の外で、雷が光る。

 僕と彼はお世辞にも仲がいいといえるような関係ではありませんでした。そんな僕たちの緩衝材になって、いつも僕たちを取り成してくれていたのは僕の親友でした。
 親友は気さくで適度に適当で、親友に口論を中座させられるとなんだかもうすっかり毒気を抜かれてしまうのです。ばかばかしくなって、なんだかもうどうでもよくなってしまうんですよね。それで僕たちはそれまでしていた口論に飽きてしまって、何事も起きなかったかのように明日の天気の話をしたり、その日の夕食の買出しに行くのは誰にするかというような、至極平和な話題に戻っていきました。
 彼と親友……ですか? ええ、まあ、僕と親友ほどではなかったものの、僕と彼よりはずっと仲はよかったと思います。親友は誰とでもすぐに打ち解けられる類の人間でした。彼も僕も、言ってしまえばかなりアクが強いほうですから、親友がいてくれてよかったと思います。
 でも、親友はその……大きな病気をして。仕事をやめることになりました。彼だけがそれを先に知っていて、僕がそれを知ったのはもっとずっと後になってからのことでした。ひどいと思いませんか。二人して、僕に何も言わなかったんですよ。
 親友がいなくなってから、僕たちは前よりもいっそうぎくしゃくするようになりました。でも、その一方で、僕はよくない感情が僕の中にあることにも気づいていました。彼には恋人がいました。女性らしくて、明るくて、さっぱりとした女性です。僕はその人のことをよくは知りません。ただ、彼がその人と会う前の日は少しだけやさしくなることには、気づいていました。彼自身は気づいてなどいなかったでしょうね。
 彼は、僕のことをどう思っていたのでしょうか。一度だけ、僕は彼と寝たことがあります。すみませんね、こんな話。でもまあ、ただそれだけですよ。ただ、それだけ。彼は僕と不貞を働き、一度だけ彼女を裏切った。僕が感じたのは優越感でした。そしてそのとき、彼に対するよくない感情は、別のよくない感情へと変容したのだと思います。そのことを彼もわかっていたはずです。ですが、彼は彼女と僕という二人に対して、彼のよくない感情を抱かなければならなくなりましたから、それはそれで大変だったのでしょう。僕になにか言うことはなく、僕たちの間には口論さえ起こらなくなりました。
 よくない感情、とはなにか、ですか。
 さて、何だと思いますか?
 そして僕が、彼が死んだということを聞いたとき、どれだけ嘆き悲しんだことか! ええ、ええ、ひどい男でしょう。彼は死んでしまった。あまりにも完璧に死んでしまったので、僕はそれを信じることができなかったのです。

 安室は淡々と話しながら、終始変わることなく、悲しげに微笑んでいた。その微笑みは時折諦観を帯びたり、自嘲気味になることもあった。彼の話している内容とその表情の変化は、あまりにも完璧に合致しすぎていた。
 あまりにも完璧に死んでしまったので、僕はそれを信じることができなかったのです。
 そう言って目を伏せた安室は、目の前で一口だけカップに口をつけ、ゆっくりとテーブルに置き、そしてそれきりカップを手に取ることも飲み口を指でぬぐうこともしなかった。
「安室さんは」
 声にして、口の中が乾いていることに気づいた。それを誤魔化すように僅かばかりの唾を無理やりに飲み込み、それに合わせて喉仏が上下する感覚が、自身の緊張を更に増幅させているように錯覚した。
「その方の死を受け入れたんですか」
 安室はゆっくりと瞬きをした。それから、いいえ、とゆっくりと頭を振る。
「追いかけることに疲れてしまったんです」
「疲れた?」
「ええ。彼はあまりにも完璧に死んでしまった。ならばその墓を暴くのは無粋ではないですか?」
 窓を雨が叩いている。唇が美しい弧を描く、彼の微笑だって完璧である。
「と、いうのもありますけど。彼が自分が死んだと偽るために完璧に死んでみせたとしたのなら、僕はそれを暴いて滅茶苦茶にしてやりたい。一方で、彼が本当は、彼の死が偽りであると暴かれることを望んでいるのならば、ならばそれをせず、僕は完璧に彼の死を悼んでやりたいのです」
 屈折しているでしょう?
 ぴしゃり、と閃光が雨の中を走った。屈折なんて生易しい、という思いが頭を過ぎる。狂気じみている。勿論彼と寝たことなんて一度もなく、彼の親友は自ら引鉄を引いてしまった。わかっているのに、事実と嘘が奇妙に織り交ぜられ、だんだんと本当は彼の話すことが事実であるような気がしてくる。緻密に精巧につくられた薄氷のような硝子の小箱を抱えているようなものだ。
「ねえ、沖矢さん。あなたは僕の話を、真実であると思いますか」
 尋ねておきながら答えにはさして興味はないという態度で、安室が言った。
「さあ、どうでしょう。私は安室さんの語る事実しか知るものはありませんし」
「それもそうですね」
 では、そろそろお暇します。
「聞いてくださってありがとうございました」
「いえ、このくらいのことなら」
「これで、やっと彼のことを悼むことができます」
 安室が立ち上がる。訪問時には濡れていたシャツはおおかた乾いている。先程よりも強くなった雨足が窓を叩き、そのなかにぼんやりと浮かび上がるように、彼は赤井秀一という一人の男の死を悼み、微笑んでいた。
「では、さようなら沖矢さん。もうここにくることはないでしょうけど」
 瞬間。稲妻が走るように、突沸するように、腹の奥底から湧き上がってきたのはまぎれなく「よくない感情」だった。
 嫉妬。優越感。羨望。独占欲。慈愛。彼の抱いたよくない感情は、一体どれだったのか、或いはそれらの複雑に混ざり合ったものなのか。
「安室さん」
 呼び止めると、安室はゆっくりと振り返る。振り向いてくれとも、振り返ってくれるなとも思う。踏み込んではいけない、ここで呼び止めてはいけない、彼の瞳を見てはいけない。彼が赤井秀一の死を悼んでくれるのなら、それで良いではないか。でも、と衝動が叫ぶ。諦めてくれるな、追いかけてこい、お前には知るべきことがあるのだろう、降谷零。振り返る彼は、いったい誰なのだろう。その瞳を見てはいけない、これだってきっと彼の戦略なのだ。それでも、なお。彼の瞳にまだ光が失われていないことを、確かめずにはいられない。

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