周囲の予想を大幅に裏切り、交際開始から約二年、新開と荒北は清いお付き合いを続けている。この件について、一人暮らしどうし、中遠距離恋愛とはいえあっさり一線を越えてとっくに大人になってしまったのだという意見が大半、それどころかほぼ総数を占めていただけに、ひょんなことから発覚した現状はとんでもない衝撃を伴って東京と静岡を駆け巡った。
長らく友達以上恋人未満というか、おまえらもう付き合っちゃえよというような距離の近い関係でいた二人がようやく付き合い始めたのは大学二年の年末だった。そこから二年付き合っていて、お互いの家を行ったりきたりしていて、それなのにまだなにもないのかという、その衝撃をより理解してもらうためにもまずは二人がこれまで辿ってきた曲がりくねった道順をおさらいしていこうと思う。
最初はゆるやかに、冬から春になりいつの間にか蕾が綻び花開くように、二人の間に流れる空気や距離感が柔らかくなっていった。最初に限って言えば、誰彼構わず威嚇する猫のようだった荒北にいつだって同じトーンで話しかけていた新開の功績であったと断言できるだろう。しかしこれはあくまでとっかかりに過ぎずもしここで終わっていたら二人の関係は荒北と東堂、荒北と福富の関係とたいして変わらないものであったのかもしれない。荒北にとって、新開も東堂も福富も大切な仲間でありその点において三者間に差はないのだ。
ではどこから関係にまじる色に変化が見えてきたかといえば、強いて挙げるとすればそれは新開が走れなくなり、荒北が寄り添い始めたころが起点だといえるのだろう。荒北は絶対に「大丈夫?」とは聞かなかった。最初はただなにも言わずそばにいて、彼の告白後はひたすらに練習に付き合った。少しずつ走れるようになってからもやはり不安は消えず、そのときに荒北は慰めることや心配することを一切しなかった。
「新開、お前はまだ走れる。まだやめちゃいけない。絶対大丈夫だから、信じろ。自分を信じろ。これまでやってきたことを信じろ、そんで、ただ前だけを向け」
その手を握り、まっすぐ目を見て言い切った荒北の言葉が、声が、まなざしが、どれだけ新開の心を支えたことだろう。
繰り返すが、荒北は新開を心配したり、慰めたり、優しい言葉をかけることは一切しなかった。それを「荒北ってけっこう冷たいよな」とか「新開君のことちゃんと考えてるなんて思えない」とか、まあそういったことを言われることは多々あったのだが、当人たちはどこ吹く風といったかんじだった。新開はそれが荒北からの最上級そして最大級の信頼と激励だということを理解していたし、他人にどう言われようと荒北の背筋はいつだってピンと伸びていた。そして新開だけでなく、うわべの言葉よりもなによりも、確かに荒北は新開に寄り添って支えていたことを、新開だけでなくわかる人はちゃんとわかっていたのである。
そして最後の夏。帰りのバスのなか、窓側に座った荒北は外の夕焼けを見つめていて、新開はただ前の座席の背中を見つめていた。
「靖子」
「……」
「なあ」
「……なに」
「こっち見てくれよ」
「ごめん、いま、ちょっと」
荒北はずっと窓の外を見ていた。夕焼けが反射した頬がオレンジになっていて、一人こっそりと泣き腫らした目に染みた。
「どうしよう、靖子がこっち見てくれない」
困ったように笑うと、バッと荒北は新開のほうを振り返り、おまえほんとさ、と口を開いて。いつもみたいに笑おうとしたその声が、唇が震えて、それからぼろっと涙がこぼれてオレンジの頬を伝って。ハッとしたように顔を正面に向け、両手で顔をおさえ声を殺して泣く彼女。なにも言わず、前を向けない荒北のかわりに、新開は背筋を伸ばして前の席の背中をまっすぐ見つめ続けていた。
それから秋がきて、冬がきて、春がきて、また夏がきて。大学生の特権たる長い夏休みを利用して久しぶりに顔をあわせたのをきっかけに、またそれなりに連絡を取るようになった。もともとお互いにマメなほうではないから返信できるときにするというペースで大丈夫だという安心感、そしてなにより勝手知ったる仲という気楽さから、いつしか一番話す相手になっていた。
――この時点で。この時点で、東堂と福富、伝え聞いた黒田泉田葦木場は「ああしかるべきときがついにきたな、もう時間の問題だな」と、そう思ったのだ。荒北の様子を近くで見ていた金城と待宮も然り、これはいい飲み会のネタができそうだと楽しみにしていた。それなのに!
「彼氏? ああウン、できたよ。同じ学科のやつ」
数年単位で新開と荒北を見守ってきた人間たちが、事も無げにこの言葉を荒北から告げられたときの衝撃を、どうか想像してみてほしい。
「オレ、友達のつてで知り合った子と付き合うことになったんだ」
そして同じような言葉を新開からも聞いたときの衝撃たるや!
長年にわたる二人のつかず離れずの関係にやきもきしていた人間が多かっただけに、このときには緊急集会が開かれた。構成員は東堂、福富(意外と思われるかもしれないが一番うろたえていたのは福富だった)、金城、待宮である。緊急集会といっても実態は阿鼻叫喚の会で、会話の内容も身のあるようなものではなく、ひたすらなんでだ! とどうしてなんだ! に終始した。
結局は二人、というよりも荒北のことは荒北の、新開のことは新開の問題なので、どんなに外野が騒いだところでどうにもならず。なにより、うまくいっているらしい二組のカップルを壊したいというわけでもまったくないから、内心ええ~……と思いつつもみんな、複雑な表情をどうにか心のうちに押し込めてそれはよかったなと笑うしかなかったのだ。
そして、それだけ周囲を振り回しておきながらいつの間にか二人はそれぞれ別れてまたフリーになり、そしてまたもとのつかず離れずの微妙なじれったい距離感に戻るのかと思いきや、なぜか今回はとんとん拍子に話が進んでめでたく恋人に収まった。
その話を聞いたときの
「今かよ!!!」
という東堂の叫びがこれ以上ないほど関係者各位の心の中を代弁していたというのは福富談である。
さて、ではどうやって恋人になったのかというと、その舞台となったのはなんてことはない駅の近くのドトールだった。春休み、帰省の時期をどちらからともなく合わせていて、一度ゆっくり会おうかということになった日の話だ。新開が予約していた店でしっかりと夕食を食べて満足だと笑いあいながら、帰りの時間を調べようと荒北が鞄の中からスマートフォンを取り出そうとしたときに新開がその手を押しとどめた。
「もうちょっと話していきたい。ダメか?」
「いや、あたしはいいけど、電車大丈夫なの。帰り遅くなるよ」
もともとその店の場所から荒北の実家まではかなり帰りやすく、どちらかといえば新開のほうが一時間近くかかる。だからやはり申し訳なさがあって荒北はそう言ったのだが、本人が笑って全然大丈夫だと言い切るものだから、じゃあコーヒー一杯、ということになり入ったのがそのドトールだった。
「靖子、なんで彼氏と別れちゃったの」
「アー、なんていうか価値観の相違みたいなヤツ? あと、しきりに部屋きたがったからもう我慢できなくて、あたしの部屋はあたしの家であってアンタのホテルじゃねえ! ってキレたんだけど、なんかそれが決定打だったかなァ」
さらりとそう答えると新開は靖子らしいなあと笑って、コーヒーに口をつけようとしたが熱かったらしく断念し、テーブルにカップを戻した。そんな昔と変わらない仕種に荒北がくすりと笑う。
「そういう新開は? かわいい子だったんでしょ?」
「うーん、うん。かわいかったよ。でもやっぱりなんていうか、そう、靖子と同じようなかんじかな。価値観の相違ってやつ」
「なるほど」
性格の不一致、と荒北が呟くと、新開はそうそれ、と笑いながらうなずいた。
「なんかさ。靖子と話してるほうが楽しいし、ちゃんといろんな話をしてると思うしさ。オレのこと一番わかってくれてる女の子ってたぶん靖子だと思う」
「そりゃどうも。てかなに、どうしちゃったワケ。飲みすぎたァ?」
「飲みすぎてないよ」
ねえ、靖子は? と問いかけた新開の後ろの通路を、カップルが通り過ぎて奥の座席へと進んでいく。
「靖子よく言ってたよね、感覚が違ってめんどくさいって。愚痴ばっかりで嫌になるって。オレと話してるときはそういうのないのにって」
そして、オレたち、付き合うっていうのはどうかな、と今日行く店を提案したときみたいな気軽さで言った。
「え……え、えっ?」
「あ、えっと、別に今までとなにかが変わらなくてもいいと思うんだ。オレはこれまでみたいに、これまでと同じかんじで靖子と一緒にいたいし。ただ、次付き合うなら一番オレがその子のことをわかって、その子はオレのことわかってくれるみたいな、そういう女の子と付き合いたいなって思ってさ、そしたら、靖子しかいないから」
荒北はひどく驚いていて、手に持ったカップに口をつけることもテーブルに戻すこともせず固まるくらい驚いていて、そのはずなのに新開の言葉はすとんと彼女の胸の中に落ちてきた。新開の言葉は反芻すればするほどとても名案で、それが最適解だと思った。
「急になに言ってんだって思うかもだからさ、まあ、そういう選択肢もあるかなあってかんじで思ってくれるだけでいいから。ほんとに、なにが変わるわけでもないから、そこはわかっててほしいんだ」
新開はあわあわと言葉を重ねているが、そんな姿が荒北の目にはどこかかわいく映り、新開がかわいく思えるのはこれが初めてではなかった。だから荒北は、うん、そうしようか、とこれまた今日行く店を了解したときみたいな気軽さで答えた。
「へっ」
「だから、付き合おうか、しんかい」
「う、うん」
「なんで新開が動揺してンの」
「ちょ、っと、びっくりしたから」
はは、と荒北が笑う。新開もつられて笑い、なんとなくシンクロしたタイミングと動きで口にしたコーヒーは飲みやすい温度だった。
そうして二人は晴れて恋人になったわけだが、告白時の新開の言葉通りだからといってなにが変わるわけでもなく、強いていえば「今度ここ行こうよ」「いいよ、次いつ暇」とか「これ食べに行きたい」「わかった! リサーチしとくぜ」とか、そういった会話が若干増えた程度だった。そしてロードにまたがったときのスピード狂的な一面からはまったく想像できないようなスローペースでお付き合いを続け、いつの間にか早二年。その事実が発覚したのは、箱根学園自転車競技部の同窓会が開かれた日のことであった。
アルコールが入ればその手の話題になるのなんて誰もがわかっていて、誰かが最初に「新開と荒北は二人とも一人暮らしだから羨ましいなあ!」とジョッキ片手に騒ぎ始めたのが事の発端である。
「なんで?」
「いやいや新開お前も男ならわかるだろ!?」
「オレ彼女実家暮らしだからつれえわー」
「あーわかるわかる。帰りの時間とかもあるしなあ、まあしょうがねえけど」
「クソッリア充どもはみんなまとめて爆発しろ!」
周囲のやいのやいのした声を聞きながら、二人はきょとんと顔を見合わせていた。一人暮らしだからなにがなんだって?
「なにが?」
「いや荒北なに言ってんの」
さすがに女子に直接的なことを言うのははばかられたのか、いや、いやいや、いやいやいや荒北さん、と意味のない囃しを続ける同級生に荒北は眉をしかめる。そんな荒北の袖を引っ張ったのは東堂だった。言いにくそうにしながらも、自分が言わなければという使命感を漂わせた東堂と荒北がこそこそと額を突き合わせる。
「あのな荒北、こういうことを大っぴらに話す必要はないからな。おまえと隼人がいくら三歩進んで二歩以上下がるような恋愛をしてきたといってもさすがにもうそういったこともしているだろう」
「そういうことってなに? ああ、セックス?」
「荒北あああああああ!」
お前は! どうして! そういう! と騒ぎだす東堂に大方の会話の流れを察したらしい新開がぶふっと噴き出す。
「隼人!」
「ああ、すまねえ。いや変わらねえなあと思ってさ」
「でどうなんだよ新開! 羨ましいな一人暮らし!」
「そうだよどうなんだよ!」
すかさずまたみんなが騒ぎ出す。どうしよう、と言いたげな瞳を荒北が新開に向けるとちょうどそのとき遠くの席から荒北を呼ぶ声がした。どうやら福富周辺が呼んでいるらしい。これ幸いに荒北が立ち上がる。
「新開、あたしちょっとあっち行ってくるから」
「寿一にオレもあとで行くって言っといて」
「わかった」
おい荒北! 新開とはどうなんだよ! と聞くいくつもの声をハイハイあとは新開から聞いてネェと適当にいなしながら座席を移動した。必然的に質問の矛先は新開に向くこととなるが、新開ものらりくらりと笑って確証的なことはなにも言わない。適当に会話しているうちにその話題は流れた、というよりも東堂ががんばって流した。再び話に上がったのは四人だけになった二次会の席である。
「福チャンさっきはありがとね。話聞こえてた?」
「構わない。よくわからなかったが、荒北と新開が戸惑ってるようだったからな」
「さすが寿一! 助かったぜ」
二次会は、後輩の苗字と同じ店名にテンションが上がった東堂が勢いで予約した居酒屋だった。ちなみに黒田という。
「ああいった話題は困りものだがな、感慨深かったぞオレは。本当に二人はちゃんと付き合っているのだなあ」
東堂がほうと息をつき日本酒をおちょこにつぐ。しかし、上機嫌な東堂にぼんやり視線を向けながら荒北が、それなんだけどさあ、と口を開いた瞬間ぎょっと福富と東堂が荒北の顔を見つめた。二人の脳内をよぎっていたのは以前の別々の恋人とと付き合い始めた事件だったのだから、嘘だろうまたなんかあるのか!? と目を剥くのも理解できるだろう。
そんな二人の動揺など気にもとめず、荒北と新開は福チャンと東堂だし言っても別にいいよね? 靖子がいいならいいよ、とのんきな会話をしている。じゃあまあ聞いてみるかぁ、と荒北はのんびりと言い、ジンバックに口をつけた。
「一人暮らしどうしでなにもないのって、変?」
「は?」
「なにもないっていうか、しないのって変なワケ? 一般論として」
「待って靖子、寿一が固まってる」
「福チャン戻ってきて!」
「いや、いやいや待て、おまえたち付き合っているんだよな!?」
「ウン」
「うん」
「二年経ってて!?」
「うん」
「泊まりも何度もしてなかったか!?」
「してるヨ」
「それなのに!?」
「だからそれってやっぱ変なの?」
「無理してすることじゃないしって言ってたら二年経っちゃったんだよなあ」
「そうそう」
なんかさ、いろんなところに行ってうまいもの食べて、それを靖子としてると思うとそれだけで満足なんだよなあ。そんなことを至極幸せそうに言う新開にノロケか! と突っ込む余裕などいまの東堂にはない。言葉にならない叫びを上げる東堂の隣で、目を泳がせながら福富が口を開いた。
「し、新開」
「なんだい」
「あ、荒北とは、うまくいっていないのか……?」
「まったくそんなことないぜ!」
「あ、荒北……」
「ウン、まあ、順調だよォ」
昔のツッパリ度はどこへいってしまったのだというような素直さで荒北も答え、新開はふわふわと揺れながらにこにこと笑っている。東堂は絶句し、福富は動揺して狂ったように焼酎をあおった。
自分たちの感覚がおかしいのか!? 心が汚れてるのか!? とキャパシティオーバーになった東堂の
「なんでだよ!!!」
という叫びが、福富の心をその夜もよく代弁していたという。
さて、こうして二人がいまだに、二年目をもうすぐ越えようかという時期においてなお超清いお付き合いをしているという衝撃の事実が発覚し、それは動揺した東堂によって巻島へ、巻島から金城へ、金城から待宮へと伝わった。ほとんど一瞬のことだった。人の口に戸はたてられないとはよく言ったものだ。
そして今回は巻島も巻き込んで第二回緊急会議が開かれたのだが、誰もが早急に話さないとやってられないというかんじだったために今回はオンライン会議だった。ラインのグループ通話とはなんて便利なのだろう。技術の進歩に感謝せずにはいられない。二人がようやっとくっついたとき、これでもうなにが起きても驚かないぞと構えていた面々もさすがに動揺し、動揺が振り切れた結果一周回って妙に冷静になってしまい、二人の仲は本当に良好なのかということの検証をひたすら行うというそれはまさに会議だった。荒北が東京へ行った日と新開が妙に嬉しそうだった日の照合、荒北が早く帰った日や部の集いを断った日と新開が静岡に行った日の照合だけにとどまらず、新開と荒北それぞれの交遊関係に影はないか、それぞれのバイトが忙しかった時期と双方の誕生日の確認に至るまで。ひたすら真剣に冷静に検証し、会議は三時間に及んだ。端から見ればなにをやっているんだというかんじだが当人たちは至って真剣である。結果得られたのはどうやら二人は本当にちゃんと交際しており、そのうえで性交渉がここに至るまでまったくないらしいという推定事実。不仲でなくてよかったと心底安堵する一方で、通話後の各人の表情は、それはそれで複雑だったという。
同日同時間帯、当事者たる二人はといえば、駅近くの東横インに部屋をとっていた。もちろん別の部屋である。隣ではあるものの。
ここまでこうして進んできてしまった理由として、付き合っているとはいっても常に二人のパーソナルスペースというか、自分の領域を互いに守り続けたから、というのもあげられるかもしれない。付き合うことになっても人前でべたべたしたりしない、干渉しすぎない、相手を個人としてちゃんと尊重する。新開といえば距離が近い、というのは彼を知る面々にとっては公然の事実だからそれだけに想像がつかないのだろう。とはいえ、高校時代からのそれが二人の一番ちょうどいい距離感だったからこそずっとそのままで続いているのだが、まあ世間一般の「カップル」というくくりからずれていることは確かである。
荒北がシャワーから上がるとスマートフォンが光っていた。いつもは相当な早風呂だが、今日はいろいろと考えているうちに長くなってしまった。そのせいか頭がぼんやりするような気がして、グラスに注いだ水を一気に飲み干す。冷たい水が体内をかけおりていく。ロックを解除するとそっち行ってもいい、と新開からメッセージがきていた。それにいいよと一言返すと、ほどなくしてコンコン、と二回ノックが聞こえた。
「靖子、オレ」
がちゃりとドアを開けると同じく風呂上がりらしい新開が立っていた。髪がまだわずかに湿っている。生乾きになった時点でドライヤーをやめてしまうというのはずっと前から新開の癖だ。
「あれ、靖子もいま風呂出たとこ?」
「うん」
「髪、オレが乾かしてもいい?」
「え? いや別にいいけど……」
短いしそのまんまでもすぐ乾くよ、と言いつつドアを閉める。ううん、やりたいからやらせてくれよ、と笑う新開に物好きだネとドライヤーを手渡した。椅子に座って正面を向くと首筋に温風があたり、指先が頭に、髪に触れる。新開の手つきはいやに優しく、目を閉じると眠ってしまいそうだった。
「眠い?」
「ううん、ダイジョーブ」
ふるふると頭を振りつつ答えると新開が笑ったのが気配でわかった。
荒北の短い髪は五分もせずに完全に乾いてしまう。はいおしまい、と満足げな声が聞こえ、荒北は目を開ける。振り向くと新開はドライヤーのコードをくるくると巻きつけていて、しかしすぐに荒北を見てどうした? と首をかしげた。
立ち上がって背伸びをして、キスをする。一瞬かすめる程度の。さっきまでドライヤーをかけていたあの手が、指が、そういう意味合いを持って自分に触れるという、それがどうしたって荒北には想像できない。
「めずらしいね」
「……ヤだったァ?」
「やなわけないだろ。嬉しい」
そうして本当に幸せそうににこにこと笑いながら、新開はテーブルの上に置かれたかごのなかにドライヤーを戻した。キスまではとっくの昔にしている。手も繋ぐし、抱きしめられることも、抱きしめることもある。けれど、それ以上に進まない。それ以上に進みそうな雰囲気もない。
「靖子、今日背高かったね」
「は?」
「ほら、靴」
「ああ、うん」
ちょっと変なかんじした、とのんきに言って、ベッドの端に腰かけた荒北の隣に遠慮がちに座るこの男は、いったいこの関係についてどう思っているのだろう。
「新開さァ」
「靖子」
呼んだ名前がかぶる。新開はもう一度、靖子、と荒北の目をまっすぐ見ながら言った。
「さっきのこと、気にしてるの?」
「……なんで」
「そりゃあ、わかるよ」
いつもと違うかかとの高い靴を履いているときも、髪を切ったときも、風邪気味のときも、新開はいつだってそう言う。そりゃわかるよ、と。
荒北にはわからなかった。世間一般の男がどう思うものなのかも、新開も彼らと一緒なのかそれとも違うのかも、自分に原因があるのか、それともなにも間違ってるわけではなくこれでいいのかも。風呂場で頭からシャワーをかぶりつつ、からだのことを考えていた。周りの友達が、あっさりと簡単にその一線を越えていってしまった人たちが自分とはまったく違う存在としか思えなかった。
「あのさァ、今更恥ずかしがってもなんにもなんねぇからぶっちゃけた話してもいい?」
「え? うん、いいよ」
「新開ってあたしに欲情するの」
「は!?」
「この際ハッキリさせときたいんだよネェ」
「え!?」
「オラどうなんだよ新開ィ」
「ちょ、ちょっと待って!?」
「正直女側はいろいろ考えるじゃん? 生理はくるし血も普通に出るんだからちゃんと直通のはずなのに入口がどこかいまだにまったくわかんないしさァ」
「ねえ待って!?」
「でもいざとなれば赤ちゃんも出てくるんだから絶対めちゃくちゃ開くってことだし人体ってすごくない? 生命の神秘じゃんね」
「ちょっとそうじゃないでしょ、靖子!」
隣に座って足をぶらつかせ、けらけらと笑いながらなんでもないように話す荒北。新開がその肩をガッと掴むと弾かれたように顔をあげ、それからまたすぐにうつむいた。
「……なんかさ、全然想像つかないんだよね。女だからかもしれないけど性欲とかそういうのあたしにはよくわかんない、新開は、新開はどうなの」
「靖子、聞いて」
握りしめられた手をとってまっすぐ目をのぞきこむ。いつかと逆だなと昔の光景が新開の脳内をちらりとかすめた。あの頃からずっと、新開にとって荒北靖子は「荒北靖子」というひとりの人間であり、それ以上でもそれ以下でもないのだった。
「前も言ったけど、オレは無理してすることじゃないと思ってるから。流れとか雰囲気とかもあるしさ、そのときがきたらっていうのでいいよ。なだめてるとかじゃなくて本当に。それより、オレにとっては、靖子がちゃんと元気で幸せで笑顔でいてくれるほうが大事だから」
「……キザ」
「なんでもいいよ。オレは靖子が女の子だからじゃなくて、靖子が靖子だからすきなんだ」
「なんだそれ……ッ」
笑おうとしたのにうまく笑えなくて、唇がわななく。それを見られまいと握られた手を振りほどこうとするもそれより早く抱き寄せられ、気づいたときにはもう新開の胸に額を押し当てる形になっていた。
「ごめん」
「……なにに謝ってんのォ」
「こうするしかできないから」
「バカ」
「うん」
「しんかい、」
「なーに」
「すきだから」
「うん」
「……ホントだから」
「うん」
優しく背中をさすられる。からだとからだの間に折り畳まれた腕をなんとか背中にまわし、指先をゆるく組み合わせながらおでこを遠慮なくこすりつけた。猫みたい、と言って新開が笑った。
ゆるやかに蕾が綻び花開くように距離が縮まって、これ以上ないほどぴったりと二人のかたちにあてはまったこの関係性。自分たちにとってはこれ以外にないはずなのに、友達から恋人になって二年も経てばいつの間にか花の種類が変わるのが「ふつう」らしい。なにが変わるわけでもないはずなのに、出会った頃はたいして変わらなかった身長がいまではこんなにも違う。なにが変わるわけでもないはずなのに、昔は履かなかったハイヒールがいつの間にか日常になっている。なにが変わるわけでもない、はず、なのに。
「……あたしさあ、男だったらよかったなァ。そしたらオメーや福チャンや東堂とか、金城とか待宮とか、みんなと走ったり、レース出たり戦ったりできたのにネ」
そしたらまるごと、性欲とかそういうの抜きで、新開のことがすきでもなんの不思議もないのにね。
新開はそんなこと、と言いかけ、しかし部屋に備え付けのスリッパからはみ出した荒北のかかとが目に入って口をつぐんだ。新開が荒北のことを、荒北が新開のことを、同じようにひとりの人間としてすきであっても。そうだとしても荒北の細いからだはすっぽりと腕のなかに収まるし、明日帰るとき荒北はまた少しだけ背が高くなるのだった。
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