表から風が建物の中に吹き込んで、ごうごうと鳴っている。それをかき消すように、オクジーの頭の奥で、バデーニの声が反響している。──復元されるのは、君の文章だ。いつの間にとかどうやってとか、問いが次から次へと浮かび上がっては答えを得られないまま消えていく。そしてひとつの問いだけが、消えないまま残っている。いったい、どうして。
建物の外に出た。見上げると、今日の空にも昨日と同じように無数の星が輝いている。天気と同じように、不思議と心は凪いでいた。思い返してみると、彼と共に見上げてきたのは夜の空ばかりだった。いっとう明るい星の場所を伝えれば、すっとその指先が星座を示す。淡々と知識を話しているようで、声の端々が楽しげに跳ねる。きっと、その目で直接見えているわけではないだろうに、バデーニさんには見えているんだなと感服する。その頭のなかに、宇宙のかたちがあるのだなと。
ああ、懐かしいな、と思う。ほとんど毎日昼に会って、パンを受け取ったり、雑用を頼まれたり請け負ったりしていたのに、何かを話すのはほとんど夜だった。昼の空を一緒に見ることはおろか、自分たち自身の話をすることはほとんどしなかった。
そこまで考えて、オクジーはいつかの朝のことを不意に思い出した。あれは確か、オクジーがバデーニと出会い、そして満ちた金星を見てから数日が経った日のことだった。
目にはわからないほどゆっくり、しかし確かに動いていく星と、明けゆく空の色がきれいで、眠るタイミングを見失ってしまった。これまで朝の訪れは、夜が明けることへの安堵であると同時に、再びくる夜への不安の始まりだった。今はもう、朝はただの朝だ。夜から朝への空の色のうつろいを、差し込む朝日を、聞こえてくる鳥の声を、うつくしいと思う。そんな風に思えるようになったのは、いつぶりだろう。
その日も、ただうつくしいものをうつくしいと思えることが嬉しく、名残を惜しんで夜通し外に出ていた。別に一晩中見ていなくとも、これからはいつでも好きなときに見られるものだと頭ではわかっている。それでも、人間はどんなものにもいつしか慣れて、それが当たり前になってしまう。星空が「いつでも見られるありふれた空」になってしまう前に、少しでも大切に見ておきたかった。
夜明けの突然の来訪者ことバデーニは、当初興奮覚めやらぬ様子だったが、朝焼けに目をやったかと思うと黙り込んでしまった。こんな目ではもう星は見えないと以前感情の抜け落ちた声で言っていたが、この綺麗な空は同じように見えていたらいい。
ちらりと横顔を盗み見た。薄い色の瞳がきらきらと輝いている。それを見たら今しかないという気持ちになり、意を決して口を開いた。
「あの、バデーニさん、ありがとうございました。あの時信じてくれて……」
感謝を伝えたかった。自分の意思でこれがしたいと思うのも、誰かに期待してほしいと思うのも、不安に寄り添ってもらったのも、初めてだったから。
しかしバデーニは何のことか分からないというように怪訝な顔をして、それから、ああ、とぶっきらぼうに言った。
「別に信じたわけじゃない」
「えっ!?」
つい反射で大きな声を出してしまった。夜通し集中していた頭に響き、バデーニは隠しもせず顔をしかめる。すいません、ととりあえず謝りはしつつ、その言葉を受け入れたくなくて言葉を続けた。
「……あの、」
突然梯子を外された気分だった。つい声が震える。あなたと出会ったことがきっかけで、あなたの言葉で、もしかしたらこの世のうつくしさを信じてみてもいいのかもって、そう思えるようになったのに。「少なくとも私は真理を知れる」という言葉が、どれだけ背中を押してくれたか。
「どういう意味ですか。……その、信じたわけじゃないって……俺がなんて言ったとしても、資料のためにピャスト伯を丸め込もうとしてたってことですか?」
「なんでそうなる。あの場面できみが嘘をつくわけがないし、そもそも真理を裏切り背くようなことを私がするわけがない」
「俺のことを信じてくれたのかと、……」
「ん? ああ、それはそうだろう。出会ってたった数日で、きみが信じるに足るかどうかなんてわかるはずがない。もちろん、最初に付けさせた観測記録を見たときに精度は十分だと思ったし、その後の記録も丁寧で疑っているわけではない。きみがそうしてくれと言ったとおり、期待もした」
「それなら」
安堵の息が漏れた。しかし、それをぴしゃりと絶ち切るようにバデーニは言葉を続ける。
「ただ、信じることと期待することは、全くの別物だ」
表情の変わらないその横顔を見て、目を逸らす。足元の影をじっと見つめる。そうだよな、と自分に言い聞かせる。修道士である彼にとって、信じるなんていうのは軽々しく口にできる言葉ではない。そんなの、少し考えれば自分にだってわかることだ。
目を閉じる。息を吸って、吐く。期待してもらった。グラスさんも、バデーニさんもヨレンタさんも、俺に期待してくれたんだ。そしてその期待にきっと応えられた。それ以上を望むなんて分不相応だ。それだけでもう、十分じゃないか。
目を開ける。今さら眠気が追い付いてきたのか、バデーニはどこかぼうっとした遠い目で、空を見つめていた。そこにはもう、先程の言葉のような切れ味はない。ついさっきまでそこにあった、空に刷いたような橙の薄い雲は、もうどこかに消えてしまった。
「……そうですよね。変なこと言ってすいません。引き止めてしまって」
居たたまれなくて、そう言うや否や立ち上がった。あまりに良いことが続きすぎて、無意識のうちに多くを望んでしまっていた自分が恥ずかしかった。独り言じみた言葉が、バデーニの耳に届いたかはわからない。そのまま歩き去ってしまったオクジーは、バデーニの顔を見たわけではなかったから。
それでも文字を学び、この数か月の出来事を書き残すことをやめられなかったのは、そこに喜びを見出だしてしまったからだった。完成しても燃やすとあらかじめ言われていて、それで別に構わないと思って書いていて、その言葉通り、目の前で灰になった。それ自体は別に大したことではない。
今まで文字は頭の良い人が誰かに向けて書くものだと思っていたけれど、自分でやってみたそれは、ほかでもない自分自身に向けた言葉を探す作業だった。文字も突き詰めれば言葉であり、人の思考なのだと実感を伴って理解した。自分が何に心動かされて、何に喜び、何を言祝ぎたかったのか。それを見つめ直すことができたから、それだけで本当にもう、十分だったのだ。
それなのにあの文章が残るということは、彼はあれを全部読んで、自分の知らない間にどこかに書き残しておいてくれたということだ。あの朝の時点では「信じたわけじゃない」とぴしゃりと言っていたのに、いったい彼の内心に何があったのか。それこそ信じられない。訳がわからない。
その瞬間、稲妻のように、あるいはきっと天啓のように、もしかしてと脳裏にひらめくものがあった。あの日ヨレンタさんが言ったように、自分との出会いが、書いたものが、バデーニさんの未来を少しでも動かしたのだとしたら。
そう思い至ったとき、真っ先にオクジーの胸の中に溢れたのは、今まで感じたことのない喜びだった。自分が文章など書かなかったら、そもそもあの日彼を訪れなかったら、ふたりしてこんなことにはなっていなかったかもしれないのに。そんなことは些末に思えるほど、嬉しかった。もしかしたらこの先、自分の感動が時間と場所を超えて見知らぬ誰かにすら届くのかもしれないとしたら、それはなんと幸福なことだろう。
今すぐ振り返って、後ろを歩く彼の顔が見たかった。文章を書いたことも、時間を稼ぐため異端審問官たちと戦い、結果数名を殺めてしまったことも、自分の選択と行動を後悔する気持ちは相変わらずさほどない。代わりに、はじめてこの世への未練のようなものが生まれた気がした。
絞首台の階段を一段ずつのぼる。木の軋む音。それとともに、これまでのことを思い返す。初めて会った日、初めて一緒に星空を見上げたとき、あの朝焼けを見つめていたとき、最後に納屋を出る直前の会話のとき、そして、自分のために祈ってくれた、あのとき。脳裏をよぎる様々な瞬間、彼はいったいどんな表情をしていたのだったか。よく思い出せない。俺はバデーニさんを見ているようで、本当は何一つ、彼自身のことをちゃんと見てなどはいなかったのかもしれない。
その思いが、オクジーの口を開かせた。
「さっきの話ですが、上手くいく可能性ってどれくらいなんです?」
「非常に低い」
彼がそう言うのなら、それはゼロではないということだ。思い返せばバデーニとは会話らしい会話を重ねてこなかったが、それよりももっと、言葉では足りないくらいに、きらきらと輝くものを最期にくれたんだ。世界への期待というものを。
感謝の気持ちいっぱいで隣を見る。そんなオクジーとは対照的に、バデーニの口元は自嘲気味に歪んでいた。慌ただしく納屋の資料を燃やしていたときも「私の計画」と言っていたし、彼の思った通りには物事は運ばなかったのかもしれない。それでも、もう一度一緒に、同じ空を見たかった。ようやく、本当に同じものを見られるような気がした。
「いや、天界のですよ」
だから、そう言って空を見上げる。風が吹く。星がきらめく。今日も昨日と同じように。きっと、明日も同じように。
「この空は、絶対に、綺麗だ」
そして、オクジーはバデーニの横顔に微笑を見た。空を見つめる瞳に湛えられた、強い光も。その表情が何よりも雄弁に語ってくれている気がした。
ああ、きっと。俺が本当に嬉しかったのは、俺の書いた文章が見知らぬ誰かに届くかもしれないことじゃない。俺の紡いだ言葉が、いつの間にかバデーニさんに届いていたことが嬉しかった。バデーニさんが受け取ってくれたことが、何よりも嬉しかったんだ。
もっと話をしておけばよかった。自分自身のこと、あなた自身のこと。これまでのこと。好きなもの。印象深い思い出。嫌いな食べ物。これからしたいこと。天界でなら、なんでもない話だってできるだろうか。
「それを信じることにするか」
あなたが信じてくれるなら、間違いない。
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