ああ、まずい。
意識という上限も下限もない海のなかで、その言葉だけが、ぽっかりと浮かんできて、ふっと消えた。それから、上下左右の感覚が掻き消える。ふらふら、ぐらぐら、地平が揺れて、消えて、ぐらり、耳鳴りが、ごうごう、風が、音が、渦巻いて、揺れて、ぐらぐら、ゆらゆら、暗い、まぶしい、暗い、白い、ぐらり、――
(ああ、)
「黒子ッ!!」
声が、切り裂く。
いくつかの足音が遠くで聞こえた。それから自分が倒れたことを知る。おかえり、平衡感覚。固い地面がひどく頼もしかった。
「大丈夫?黒子くん」
「はい……」
血色戻ってきたし今度は本当みたいね。ポカリの入った紙コップを手渡しながらリコが言う。黒子はぺこりと頭を下げ、どこか不満げながらもそれを飲み下した。じわじわと、染み渡っていく。ニアリーイコール浸透圧。止まっていた指の先の血が巡り始めるような気がする。そんなものは幻想なのだけれど。
「貧血と脱水かな。前にも倒れたことある?」
「あります」
「中学のときね?」
「はい」
リコの質問に淡々と答えながらも、黒子の表情からはどうしてそんなことをというような疑問がちらちらと覗く。気付いてリコが言った。癖になっちゃうのよ。
「捻挫とかと一緒。何回か繰り返すと癖になる。だから、前にもあったなら把握しときたいの」
はきはきした物言いが、黒子は嫌いではない。なるほどと頷いてから口を開く。
「一度だけ、練習中に」
「そのときも倒れただけ?」
「いえ、嘔吐しました」
「そっか」
今日はもうそんなに時間残ってないし、見学しててね。はい。リコは水分取るのよと言い置いてチームメイトの方へ戻った。変に追及しない彼女をとてもいい人だと思った。
今日は足元の空気の間に温度の断層ができて、ゆらゆらと揺れていた。聴力検査のときの音と喧騒だけをピックアップしたようでひどくうるさかった。頭の中のかたつむりが試みたささやかな反逆だったのだろうが、にしてもやり過ぎだと思う。文字通り身内なのだからもっと優しくしていただきたい。
リコに言われてあの日のことを思い出した。甘くて辛い独特の味を味わった、固体と液体の中間地点のそれを見た、饐えたにおいを嗅いだ、そういう経験。みんなも叫んだり取り乱したりしていたはずなのに、そのなかで一人、冷静に自分を見つめていた彼のことだけをよく覚えている。刺青のように日差しが刻み込まれた夏日。空が青かった。
「はいっ、今日の練習終わり!」
監督の声とみんなの溜息が体育館に響く。
「黒子ー大丈夫かー?」
ゆっくりと立ち上がると日向に声を掛けられた。はい、と頷いて小走りで練習上がりの人の流れに合流する。
「心配をおかけしました」
「黒子ただでさえ白いのに真っ白でさー、オレまじビビったよ」
「白子」
「伊月落ち着いて」
小金井と伊月が毎度のやり取りを繰り返す隣で、心配そうに水戸部が黒子の顔を覗き込む。ありがとうございます、もう大丈夫ですと頭を下げると彼はほっと息を吐き出した。
「けどまあ、火神が叫んだときはなにかと思ったよなあ」
Tシャツを脱ぎながら日向が言う。
「一番ビビったのはオレっすよ。黒子、おまえもうちょい重くなれ、軽すぎ」
「頑張ります」
崩れ落ちた黒子を抱え上げて運んだのは数メートル後ろを走っていた火神だった。生来丈夫な彼やその周囲には倒れたことのある人などおらず、そのため蒼白な黒子に相当取り乱したようだった。
「火神くん、ありがとうございました」
「……無理すんなよ」
「はい」
「まあ火神の前を走ってたのが不幸中の幸いだったな!よかったな周回遅れで!」
「黒子の心を抉ってどうする……」
あっけらかんと言ってのける木吉に頭を抱える日向。誠凜バスケ部のいつもの光景である。そんな当たり前が、なんだかくすぐったくて黒子は小さく笑みを零した。
「ところで黒子、何色だった?」
「え?」
「ほら、倒れるときって、視界が一色になったりするだろ?緑だったり黄色かったり。なったことないのか?」
不思議そうな木吉とそういうものかと首を捻る面々。思いついたように日向が突っ込んだ。
「てお前も倒れたことあんのかよ!」
「ああ、湯あたりでな」
「そうだと思った!!」
「てかそれなんなわけ?色?」
もっともな小金井の疑問にああそれは、と黒子が答える。
「網膜が見せるある種の幻らしいです。まだよくわかってないらしいです」
「黒子すげー……」
感心してしきりに頷く火神に伊月がすかさず幻のボルシチと訳のわからないことを言った。
「で、何色だったんだ?」
木吉の問い掛けに、なんとなく全員が黙り込む。まぼろし。瞼の裏の幻覚。黒子は小さく呟く。そうですね。少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「水色でした。脳みそに、焼き付くような」
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