ゴールデンレコード - 7/7

 ずっと誰かを探している気がする。
 それは自分の中にしか存在しない何かなのかもしれないし、はたまた全く違うものなのかもしれない。文章を書くという行為は、自分の内面に潜って、言葉を削って、伝えたいものの形を探り当てる営みだ。彫刻家は、岩の奥にもうあるべき姿を見ているのだという。あとは丁寧に慎重に彫り進めて、その姿を岩の中から取り出すだけなのだと。
 そうした心境に至るにはまだ程遠く、いつも苦しみながら文を書いている。お世辞にも筆が速いほうではない。世の中には自分よりよほどおもしろく、刺激的で、感情を揺さぶるものを書く人間がやまほどいる。それでも、書くことをやめたらその誰かにたどり着く手立てが永遠にうしなわれるような気がして、この仕事にかじりついている。
 窓を見た。冬は星も朝の空も綺麗に見えるので好きだ。日が落ちるのが早い時期は、早起きをするほうがはかどる気がする。まだ暗い空、冷たく透明な空気がからだを満たす。息を吐くと、からだが内側から目覚めていく気がする。
 大きく伸びをしてから、散乱した手元のメモに再び向き合う。走り書きの文字、断片的な言葉。昔から、一度頭のなかにある全部を目の前に並べてみないと、うまく文の形にできない。渦巻く思考をとにかく書き留めていく。思考の海に深く潜っていく。
 ガチャ、と控えめに扉が立てた音で、ふっと意識が浮上した。振り返ると、まだ目の開いていない娘が大きくあくびをしている。
「……おはよ……」
「おはよう。ずいぶん早いね、どうしたの」
「課題終わんなくて……図書館……」
 目をしばたたかせて、かすれた声で言いながら洗面所に向かっていった。娘も自分に似たのか、関連書籍を一度一気にひっくり返してみないことには課題そのものには取りかかれないらしい。大学に進学してからはたびたび、こうして早朝に出掛けていく。
 手元の資料に目を戻し辞書の小さな文字を睨んだが、全然頭に入らず、休憩しようと本を置いた。もう数日、これだという言葉が見つからない。幸いまだ締切に余裕があるため、焦っても仕方ないとのんびりと構えているところである。
 コーヒー飲む、と洗面所の娘に声をかけると、助かる! と元気な声が返ってきた。顔を洗ったことで意識が覚醒しきったらしかった。お湯を沸かし、娘と自分のマグカップを取り出す。朝食は大学の近くで食べるだろうが、まだ寒い早朝だ。あたたかいものを腹に入れていったほうがいいだろう。
 在籍している出版社から発行する様々な雑誌でコラムを書かせてもらえるようになってから数年が経った。特に、博物館や美術館の特別展の紹介記事はありがたいことにいつも好評をもらっている。とはいえ調べても調べても知らないことばかりで、毎回果てがない。そういうところが楽しいところでもあるのだが。
 とにかく足で稼ごうと取材を重ねるうちに、随分と知り合いも増えた。「少し知っている」がいつの間にか積み重なって、何を調べればいいか、誰を頼ればいいかわかるようにもなってきた。自分ひとりで完璧にはなれないし、なる必要はないということを思い知る日々だ。そもそも、そんなことは到底無理なのだし。
 資料を探しだすのが早くなったぶん浮いた時間に、いわゆる名作と呼ばれるものを読むのが最近の楽しみになっている。人に薦められて初めて哲学書を手に取ったときは、当たり前のことが簡単な言葉で書いてあるだけなのにどんどん深みにはまってしまい、一日で三ページしか読み進められなかったこともあった。
 二千年以上前の人も、いまと同じようなことに悩んで、わからなくて、考えていたのだと思うと、不思議な気持ちがする。人類史という一本の地続きの線の上に立っている。日々様変わりしていくのに、根源的な部分はきっとさほど変わっていない、我々という存在。同じ星空を見上げて神話に思いを馳せたり、音楽を聴いて故郷の空気を思い出したり、言葉に振り回されたり、永遠に答えの出ない問いと向き合ったり。たぶん、そう大きく変わっていない。
「お父さんありがとう!」
 足音こそあまり立てていないが、娘が慌ただしくキッチンに戻ってきた。あつ、と言いながら、立ったままごくごくとコーヒーを飲み進める。
「よくそんなすぐに飲めるね」
 苦笑しながら言うと、目線だけで返事をされた。笑った顔、顔のパーツというよりも表情が、ますます母親に似てきたなと思う。
「今日の夜はそんな遅くならないと思う。提出日じたいはまだ全然先だから。お母さんまだ寝てるから、起きたら」
「わかった、伝えておくよ」
「ありがとう。コーヒーも! ごちそうさまでした!」
 マグカップをシンクに置き、椅子に置いてあった鞄を取って玄関へと向かう娘。その後をついていく。靴を履き、振り返って笑う。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 手を振りながら見送る。その背中が見えなくなったところで扉を閉めて鍵を締め、再び仕事場へと戻る。
 窓の外は、いつの間にか夜明けの空の色になっていた。繊細な金細工のような月の近くに、金星がまばゆく輝いている。ああ、綺麗だなと思う。何回見ても同じ空はなく、何回見ても見飽きることはない。
 昔から、星を見るのが好きだった。今ここにいない人も同じように星空を見上げていると想像するだけで、自分はひとりではないと思えるから。そうして思い浮かべる「ここではないどこか」は、かつては物理的な距離だけだったが、いつからか遠い過去、あるいははるか未来を思うようになっていた。
 天文、音楽、歴史。うつくしいものをうつくしいと感じる普遍的な心。いつか、そういうものを未だ見ぬ誰かに伝えるような仕事をしてみたいなと思う。何かを知るだけで、きっと日々は鮮やかに色づくだろうから。今なら、探している言葉も見つかりそうだった。
 朝がくる。大きく息をする。また、一日がはじまる。

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