ゴールデンレコード - 5/7

 五

 バデーニは自身の研究について語る際、原稿は作らない。全て自分の頭のなかにあるからだ。そのため、思い出すこともできない時ぶりに原稿を書こうとしている今まさに、頭を抱えている。いざ用意をするぞと思ってみても、書き出しが全く思い浮かばない。改行キーを押しては消す、その繰り返し。友人との電話でそのことをぼやくと、声を上げて笑われた。
 講演を正式に引き受けたいということ、そして件の本……ではないが、きっとこういうものだという本が見つかったことをクラボフスキに連絡すると、彼は大いに喜んでくれた。友人たちにもすぐさま連絡してくれたらしい。瞬間最大風速のように直接会ったことのない複数の人間があの本を探していると思うと、なんだか愉快な気持ちがした。
 喜んでくれたのはヨレンタも同様である。バデーニが何かに急き立てられるように図書館に走っていた日の夜、彼女もまたドゥラカから借りて読んでいたそうだ。私ちょっと泣いちゃいました、とはにかんで言った。そういえばどういう経緯で彼女たちがあの本にたどり着いたのか気になり問うと、どうやらドゥラカの父が相当な乱読家だったらしい。ヨレンタから話を聞いたドゥラカがたいして期待もせず念のためくらいの気持ちでへべれけの父に尋ねると、何でもないことのように本棚から引っ張り出してきたのだという。全く、どこでどう繋がるかわからないものだと、ヨレンタと二人で気が抜けて笑った。
「それで、講演をお受けするとちゃんと返事もしてきました」
「そうなんですね! 私にできることがあればなんでも言ってください。相談でも。自分が話すのも人のを聞くのも、場数だけはたくさん踏んでますから」
「心強い限りです。ありがとう」
 回答はしたけれど、だからといって迷いがなくなったわけではない。きっと迷いがなくなることはないのだろうと思う。それでも、いつかやらなければいけない時がくるのであれば、それが今なのかもしれない。すとんと腑に落ちたのは、今回の件を経て、自分ひとりでしなければいけないことだけではないし、他人の力を借りてもいい、むしろ否応なく巻き込まれていくこともあると実感したからだろう。結局私たちは、他者と交わりながら生きていくほかない。

 しばらく予定が立て込みそうだったので、少し早めに目薬をもらいに行った。今日は視野検査はなく、通常の診察のみだ。エレベータの開いた先の扉に貼り紙があり、まさか休診かと一瞬慌てたが、よく見ると院長不在による代診のお知らせだった。
 診察券を渡しながら、定期検診と看護師に告げる。
「本日院長が不在なのですが、よろしいですか?」
「大丈夫です。ちなみに代診はどなたが?」
「先生のお義父様ですよ。いつもは上の階で内科を診ていらっしゃる」
 なるほど、併設にはこういうメリットもあるのかと思う。通って丸二年以上になるのに、子供の頃に診てもらっていたかの医師にあたるのは初めてだった。
 診察室に腰をおろす。ラックに並べられた雑誌は前回から入れ替わっているものもあればそのままのものもある。バデーニはたいてい平日夜に駆け込むことが多いが、今日は土曜日なので若干診察室の顔ぶれも異なる。隣では、母親に付き添われた小さな女の子が、水族館特集の旅行誌を熱心に眺めていた。
 あらためて不思議な体験だったなと、ここ数週間の出来事を振り返る。結局、子どもだった自分が読んだ文章そのものはわからないままだ。普段ならこんな曖昧な状況を放置するなどあり得ないが、今回はそれでもいいと思えた。事実をただ確認することにあまり意味はない。それよりも、探していたものではないのに「これだ」と思えるものに出会えたということのほうが、今もバデーニの胸のなかできらきらと輝いていた。
 こんなに良くしてもらって、と感謝を述べたバデーニに、クラボフスキはなんでもないことのように言った。
「みんなバデーニさんのことが好きだからですよ。私もね」
「でも、私にはあなた方のように返せるものがありません。もらうばかりで」
「それなら、バデーニさんが誰かの力になりたいと思ったときに、そうしてあげてください。そうやってめぐっていくものだと思うので」
 今度の講演はその第一歩かもしれないなと思う。全てが上手くいくわけはないし、いきなりヨレンタのようには語れないだろう。けれど、そういう人生もあるんだとか、自分の好奇心を追い求めることの苦楽とか、そういう何か少しでも誰かの記憶の一端に残ればいい。
 バサッと音がして、目を向けた。女の子の読んでいた旅行誌が落ちている。熱中しすぎるあまり手の力がおろそかになって、もう片側のページの重さに引っ張られたらしい。母親は会計中だったので上半身を屈めて拾ってあげると、女の子がにこにことありがとうと笑った。
 検査室に呼ばれる。くるくると回る椅子に座ったまま、前の機器に顔を合わせたり後ろの機器を覗き込んだり。よく効率化された動線だ。少しお待ちくださいと言われ診察室の前のソファに移動すると、すぐに前の患者が出てきた。
「バデーニさん、どうぞ」
 どこか懐かしい、明るい声だった。入口のカーテンを分けて暗い診察室の中に入ると、確かに見覚えのある医師が座っていた。
「お願いします」
 流れ作業のように、眼球の傷などを見るための顕微鏡の台に顎を乗せて右目を合わせる。光が当てられて目が眩む。
「バデーニさんって、もしかして子どもの頃、内科にいらしてました? はい左目お願いします」
「ええ、ここよりいくつか先の通りでしたよね?」
「おお、そうですそうです。やっぱり! はい、いいですよ」
 顔を離すのと同時に部屋が明るくなる。傷は問題なさそうですねとモニターを確認して頷いた医師は、電子カルテに書き込みつつ続ける。
「息子から、息子っていうか娘の夫なんだけど、前に聞きましてね。こんなことがあるんだなとびっくりしましたよ」
「私もです。こちらにきたのは偶然でしたので」
「やっぱり診療時間で選んでいただいた感じですか」
「そうですね。夜まで診ていただけるのはありがたいです」
 バデーニの答えに、医師は嬉しそうに破顔した。
「若いとき、奥さんが病気をしたことがあってね。早くに診てもらえたお陰ですぐよくなって、それで感動してしまって、心機一転脱サラですよ」
 初めて聞く話に、会社勤めの人間でも間に合う診療時間になっているわけだと合点がいった。素晴らしい志だと思います、と心からの声が出た。
「先生は元々眼科も?」
「ここ数年ですけどね。今日院長は別の病院に出てるので急遽代打に。それじゃ、今月の目薬出しておきます。ほか、何か気になることありませんか」
「いえ。大丈夫です。ありがとうございました」
 立ち上がろうと腰を浮かせたところで、バデーニは思い出したように言った。
「そういえば。前の医院にも本とかたくさん置いてありましたよね?」
「待っている時間、少しでも楽しく過ごしてほしいなと思って始めたら、これが意外と好評で。娘も息子も踏襲してくれて、嬉しい限りですよ」
「さっきも、女の子が水族館特集を食い入るように見てましたよ」
「そうですか! やっぱり写真系は人気だな……」
 あの頃、偶然出会った文章が広い世界へと連れ出してくれたこと。あの日、たまたまかかりつけとは違う病院を訪れたこと。恩師や友人に自分の話をして、そして彼や彼女がそのことを頭に留めておいてくれたこと。そういう繋がりの果てに出会えたあの本。しかし、それはあくまで偶然の産物にすぎないと知っている。何回かに一回、様々な要因が重なったときだけ最後まで上手くいくピタゴラスイッチ。あるいは人が奇蹟と呼ぶもののように。
 これからも続いていく人生、そのなかで不意に眼前に立ち現れるかもしれないきらめき。必ずが約束されていないからこそ、人は未だ見ぬものに期待できるのだろう。
「今の内科にもたくさん置いてあるんですね」
「いろいろありますよ。まあ、内科はかからないですむほうがいいけどね。でも眼科はこれからもちゃんと通ってくださいよ、バデーニさん」
「もちろんです」
「ではお大事に」
 老齢の医師は朗らかに穏やかに笑った。人生は数奇なめぐりあわせの積み重ねである。バデーニも微笑を返す。大昔に置き忘れたものをようやく回収したような晴れやかな気持ちで、バデーニはグラス眼科医院の診察室を後にした。

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