三
重たい扉を引くと、談笑のざわめきが一気に耳に飛び込んでくる。店内は賑わっており、一見しただけではクラボフスキを見つけられなかった。きょろきょろとあたりを見回していると、テーブルの奥から名前を呼ばれる。顔を向けると、中腰で手を振る姿が見えた。久しぶりに会う恩師は、記憶のなかとほとんど変わらないように思えた。
ヨレンタと話した日の夜、バデーニは、あの会話のさなかに思い出した記憶を反芻していた。華奢な音、床に飛び散るレンズ破片。忘れていたのは、きっと侮辱に対する自分の怒りが起点にあったからだ。なかば他人の記憶のように思い返すと、また違う景色が見えてくるようだった。「もっと悪いほうへと進むかもしれない前にちゃんと大事になったのは、良かった」。本当にそうなったのかどうかは、バデーニにはわからない。けれど、もしあのとき、眼鏡を踏んだのではなく、殴った拍子に割れていたら。それでもし、彼が目を怪我していたら。そう思い至ると腹の奥底が冷えた。互いにたいして威力のない打撃の打ち合いのみで、後に残る怪我なく済んだ。だからこそ今こうして、あんなこともあったなと写真を眺めるように思い返す程度で済んでいるのだろう。
彼女の言葉が反響している。何といつ出会うかによって容易に変わりうる、曖昧で不確かな人生というもの。それこそ、自分が講演の依頼を受けることで研究の世界に関心を持つ者もいるかもしれない。まだ見ぬ何かに至る才能がどこにどのように眠っているかなど、誰にもわからない。
しかし人に向き不向きがあることもまた厳然たる事実である。ヨレンタと話してなるほどとは思ったが、かといって自分がそういう言葉を語れるとは思えなかった。
結局、自分だけで考えたところで仕方ないと思い、バデーニは率直にクラボフスキの意見を仰ぐことにした。自身のことをよく知る相手に取り繕う必要もないと、予定上は可能だが自分が適任とは到底思えない、なぜ自分に話を持ってきたのか、と端的なメールを打つ。その日の夜のうちには、クラボフスキから返信が届いた。そこには回答はなく、代わりに、一度久しぶりにゆっくりお話ししませんかいう彼らしい誘いとともに、いくつかの日付が記されていた。
かくして、バデーニは実に卒業して二十数年ぶりにクラボフスキに再会したのであった。
「バデーニさん! お元気でしたか」
「お久しぶりです」
記憶にある通りの笑顔で恩師が破顔する。こうまで直球で喜ばれるとやはり嬉しく、バデーニにも笑みがこぼれた。
「お待たせしてすみません」
「いえいえ、さっき着いたばかりですから。何飲みますか?」
そう言ってクラボフスキがメニューを差し出す。ジャケットを脱ぎつつ見てはみるが、さほど食にこだわりがないため、目が滑るばかりで頭に入ってこない。その様子を察したのか、クラボフスキがそのリストの一角を指差した。
「この地ビール、なかなか置いているお店がないんですよ。おすすめです、私はこれにします」
「じゃあ、私も同じものにします」
クラボフスキが頷く。店員を呼び止めて注文を伝え、それから再びぱらぱらとメニューをめくった。
「バデーニさん、食べられないものとかありますか?」
「特には。大丈夫です。ここには来たことがあるんですか?」
「ええ、元々は友人が教えてくれましてね。美味しくてすっかりファンになってしまって。……もしよければ適当に選んでもいいですか?」
「あの、はい。そうしてくれると助かります」
約束の流れで店を決めるときも、メールの文面はかなり前のめりで、楽しみで仕方ないのであろう様子が見てとれた。昔から好奇心旺盛で、本という本を読んでいたという話は在学中にも聞いたことがある。どうやら、彼の興味関心は美食にも及んでいるらしい。
メニューを数回往復したのち、クラボフスキが再び店員を呼び止めた。料理が載っているそれぞれのページを示しながらはっきりと注文を告げる。ざわめきを背景に彼の声を聞く。こんなふうに食事を囲む日がくるとは、あの頃は思いもしなかった。
「ありがとうございます」
「いえいえ。バデーニさんも気に入ってくれたら嬉しいです」
「それで……、先に本題を。ご依頼いただいた件なのですが」
アルコールが入って話すべき話をせずに終わるのは避けたいとさっさと口火を切ったバデーニだったが、タイミング悪く、ちょうどビールとつまみのピクルスが運ばれてきた。明かりに照らされて輝く薄い金色の中を、細かい泡が立ち上っていく。
クラボフスキは、黙ってしまったバデーニをちらりと見て、小さく笑った。そしてグラスを掲げる。
「まずは乾杯しませんか」
バデーニも頷き、乾杯の声とともにそっとグラスを合わせた。控えめな音。よく冷やされており、わずかに濡れた指が心地よい。バデーニはビールをごくりと一口飲んで、わずかに目を見張りつつ呟いた。
「おいしい……」
「よかった」
もう一口、二口と飲むバデーニを肴に、クラボフスキも豊かな香りと苦味を味わう。かつての教え子と酒を酌み交わせるのは、いくつになっても嬉しい。その機会は決して多くはなく、今回バデーニを誘うにも密かに緊張していたが、勇気を出して声をかけてよかったと思った。
ほどなくして最初の料理が運ばれてきた。キャロットラペやザワークラウトなど五種類の前菜が盛られたプレートがそれぞれの前に置かれる。店員がテーブルを離れたタイミングで、今度はクラボフスキのほうから口を開いた。
「今度の件、考えていただいてありがとうございます」
「正直、わかりません。どうして私に声をかけていただいたのか。もっと適任は他にいるのでは?」
「この講演会は、何年か前に始めましてね。せっかく学校としてやるなら、なかなかお話を聞けない方がよいだろうと」
「研究者だって他にいるでしょうに」
クラボフスキはそれには答えず、代わりに、安心させるような微笑を向けた。フォークを手に取り、しかし料理には手をつけないまま、そっと逆側にして皿に立て掛ける。
「最初は企業の研究職という話もあったんですが、せっかくならアカデミアの最前線の方がよいだろうと、他の先生方と」
「それでなぜわざわざ私なんです」
それは、と一度言葉を切った。どこか嬉しそうな顔を向けられ、バデーニはたじろいだ。まだ受けると言ってはいないはず、とつい自身の発言を振り返ってしまう。そんな様子は気に止めず、クラボフスキは言葉を続けた。
「単純に私が聞いてみたかったからです」
「はい?」
「はは、いい反応ですね」
絶句するバデーニを横目に、クラボフスキはごくごくとビールを飲み進める。数拍置いて、バデーニは意味がわからないと呟いた。
「先生。私が、子ども向けの話をできると思いますか?」
「おや、子どもたちは我々が思っているより大人ですよ。バデーニさんもお分かりでは」
「そういうことじゃ……言い方を変えます。私は研究の話しかできない。一般人向けに通じると本当に思いますか」
「根幹にあるおもしろさを人に伝えるの、上手じゃないですか。たぶん自分で思っているよりずっと。ほら、去年発行された雑誌の……」
途端にバデーニが苦虫を噛み潰したような顔になる。クラボフスキが例に挙げたのは確かにバデーニが書いた寄稿記事だったが、研究費を稼ぐために致し方なく受けた仕事、かつ研究室に配属されて日が浅い面々やヨレンタに相当程度手を入れてもらったものだった。大衆向けに入れ子構造のように次々と追記しなければならない情報と、字数のせめぎあいに頭をかきむしったことを思い出す。これ以上は噛み砕けないというところまで書いたのになおも追記を編集に求められたときは、あれも書けこれも書けと言われ続けて気が立っていたこともあり、パソコンをぶん投げてやろうかと思ったほどだった。
バデーニの表情を見て、おおかたの出来事を察したのだろう。クラボフスキが苦笑する。
「まあ、今回のは、講師の方に好きなように話していただくシリーズですから……」
半ばなだめるつもりでそう言うと、バデーニはつまらなそうな目でクラボフスキを見て、それからため息混じりに言った。
「相手に伝わらない話をベラベラしゃべっても意味がないでしょう」
思いがけない反応に、おや、と内心クラボフスキは目を見張る。バデーニには昔から、こういう妙な生真面目さがあった。何を言っても仕方ないと、すぐ他人との会話や関係をばっさり断ち切るくせに、彼自身が大事にするものに対してはいつも真摯でいる。その真摯さゆえに、相手を見極めてはすぐに切り捨ててしまうので、一長一短ではあるのだが。
クラボフスキのなかで、ある仮説の確度が高まった。それなりに交流のある自分から連絡したために返事をくれただけかもしれないと自身に言い聞かせてはいたが、これは、もしかすると。
「では、私個人の持論を」
気まずさを紛らわせるようにグラスの水滴をなぞっていたバデーニが、顔を上げた。
「先生に言うのもどうかとは思うんですが、極論、詳細の話はわからなくてもいいと思うんです。あのとき学校で研究者の話を聞いたな、話は難しくてよくわからなかったけど本人はなんか楽しそうだったな、そういう記憶の断片が残るだけで、きっとあの子たちの将来は少しだけ広がる」
バデーニはヨレンタの言葉を思い返した。選択肢が増えるのはいいこと。今の自分の在り方は、こういう風にしかいられないというものと思ってはいるけれど、同時に自分を取り巻く環境と無数の選択の蓄積でもある。
「私は、子どもたちに少しでも多くの手札を渡してあげたい。だからお願いしました」
目を伏せてその言葉を咀嚼する。先生らしいなと昔を懐かしむと同時に、自分は果たしてその期待にかなうのだろうかと思う。底の見えない深い穴を覗き込むような気分。どう足掻いても、他者に及ぼす何かしらの影響からは逃げられないという責任。
「……在学中、私が……もめたことあったじゃないですか」
乱闘、と言いかけて、なんとなく言葉を変えた。
「懐かしいですねぇ」
クラボフスキは呑気に言って、手元の前菜に口をつける。勢いをつけるように、バデーニはごくりと杯をあおる。
「あのときのことを、たぶん初めて、人に話して。彼の眼鏡を壊したことを、今更思い出して……」
あの件は相手が発端であり、相手が悪い。ずっとそう思ってきた。しかし、バデーニもまたしっかりと手を出しており、眼鏡を壊している。手打ちとなったから忘れていた、忘れられていただけ。きっと自分は、ヨレンタやクラボフスキのように、人間ができてはいない。
そんなバデーニの逡巡を見通すように、やわらかい声でクラボフスキが再び口を開いた。
「完全に『良い』人間、あるいは『悪い』人間はいると思いますか?」
「そんなものはあり得ません。完全などというものは」
「そうです。誰しも、正しさらしきものと間違いのようなものを繰り返して、刻々と変わる価値観の間で揺れ動きながら、なんとか生きていくほかない」
前提として、あのときのことは、嘘をついた彼がまず最初に悪いのです。珍しく断定する口調で、クラボフスキが言った。続けて、
「だからこそ私たち大人は、良いことと悪いこと、人との向き合い方、ちゃんと悩む方法、そういう話をしなければならない。そうすることで変わるものがきっとあるはずですから」
と。
やがて、バデーニはぽつりと呟いた。
「かつては、自分のことだけを考えていたような気がします」
マリネの酸。ビールの苦み。
「でも、もうそんなことばかり言ってはいられないのでしょうね」
クラボフスキはバデーニの横顔をちらりと見て、キャロットラペをフォークで集めつつ小さく笑う。
「何も、全部ひとりでやれと言っているわけではありません。私も相談に乗れますし、他にも必要な情報があればなんでも」
「……お返事はいつまでに必要ですか」
「そうですね、それでは今月中に」
「わかりました」
店員が肉料理を持ってくる。食べましょうか、とクラボフスキが微笑む。バデーニは迷いの色を引っ込めて、頷いた。
結局そのあと、クラボフスキの側から依頼の話を蒸し返すことはなかった。バデーニ自身、自分が迷い考えて結論を出さなければわからないことだとわかっていた。そして、迷っているようで、本当はもう自分のなかで答えが決まっているのだということも。そのうえで、それを選択するだけの腹をまだ括りきれていないだけなのだった。
会話が不自然に途切れたのは、二杯目のビールも終盤に差し掛かったときだった。普段あまりアルコールを飲まないのもあり反応が遅れたが、明らかにクラボフスキの意識は会話とは別のところに引っ張られている。どうかしましたか、と控えめにバデーニが呼び掛けると、ぴくりとクラボフスキの肩が跳ねた。
「失礼しました。曲が……」
「曲?」
「知っているものかと思って。でもたぶん違いました」
そう言われて、バデーニも店内のざわめきの奥でかかっている音楽に耳を澄ませる。弦楽器の華やかな曲だなとは思うが、曲名は皆目検討もつかない。
「先生、音楽も詳しいんでしたっけ?」
「いえいえ、そんな、とても……」
クラボフスキは一度曖昧な笑顔で謙遜したが、ぐっと口をつぐんだ。それから意を決したようにもう一度口を開く。
「実は、四年前のショパンコンクールをテレビで聴いて、すっかりクラシックに魅了されてしまって」
とはいえ全然明るくないのですが、と照れたように頬をかいた。ショパン国際ピアノコンクールはこの国で生まれ育った人間なら必ずと言っていいほど耳にしてきている話題だ。音楽に詳しくないバデーニですらもさすがに知っており、オリンピックと同じように、ああ今年はその年かと開催のたびに思っている。
「ああ……確かに最近配信していますよね。前回はコロナ禍で二回延期されたんでしたっけ」
「そうなんです。ちょうど外出制限のときに延期のニュースを見て、早く開催できるといいなと気になっていて」
新型コロナウイルスの感染拡大防止施策としての大規模な都市封鎖──いわゆるロックダウンが完全に解除されてから一年が経ち二年が経ち、いつしか「あの頃は」という前置きとともに語られるようになった。人間というのは単純なもので、日々の生活に飲み込まれ上書きされて、当時の生々しい質感はうしなわれ、思い出す記憶はどこか遠い。
基本的に室内にこもることが苦ではないバデーニすらも、制限されることに息苦しさを感じる日々だった。あの頃、それでもなんとか非日常な日常を乗りこなそうと、自宅でできる様々な娯楽に手を出してみた人間はそれなりに多かったと聞く。結局、バデーニはいつか読もうと積んでいた論文にここぞとばかりに時間を費やしたため新たな趣味を得るには至らなかったが、クラボフスキはあの頃をきっかけに音楽に目覚めたらしい。
「十月の本選も、最初は、ああようやく開催できてよかったなと思ってなんとなくテレビを見ていただけだったんです。でも、ずっと聴いていると、演奏する方によって本当に音が全然違うんですよ」
興奮ぎみに語るクラボフスキに代わり店員を呼び止め、三杯目のビールを注文する。地ビールごとに明確に味わいが異なるのが興味深くて、バデーニもすっかりはまってしまった。
「不思議と情景が浮かんでくる曲もあれば、なんだかよくわからないなと思う曲もある。何も知らないのにそう思うということは、きっとそれが私の好みというものなんでしょう。でも、じゃあこれはどんな曲なんだろうと調べたうえで改めて聴いてみると、また全然違う印象を持つこともありましてね。いやあ、大変奥深い世界です。それで結局、背景や歴史や作曲家本人のほうに関心がいってしまって、まだまだ全然音楽そのものは知らないままで。まあ、無数の曲があるからすべてなどとても無理だとは思うのですが」
ここまで熱をあげて話すクラボフスキは初めて見たなと内心驚きながらも、頷いて続きを促す。バデーニは何かに熱中している人の話を聞くのが基本的に好きである。
「驚いたのが、曲の副題というんですかね、ショパンの『英雄ポロネーズ』や『子犬のワルツ』、ベートーヴェンの『運命』に『月光』、あれ普通ご本人がつけたものだと思いますよね?」
「違うんですか?」
「そうらしいんですよ!! 楽譜を売り出しやすいように出版社が勝手につけたり、『子犬のワルツ』は逸話にちなんだものらしいですが、とにかく第三者が命名したものも多いらしく」
「それは……なんというか、本人は良かったんでしょうか。論文に他人に好き勝手にタイトルを付けられるようなものですよね」
もし自身がそうされたらと想像すると、気分が悪い。眉をひそめたバデーニを見て、クラボフスキは笑みを深くした。
「なかには、そうそうこれと思うような副題も、何もわかってないと腹を立てるようなものもあったでしょうね。もちろん本人がつけたものもあるそうですけど。シューマンはタイトルをつけるのが好きだったそうですよ。こだわりもかなり強かったとか」
「ショパンは?」
「嫌いだったらしいです」
「そんなの、私だったら絶対取り下げさせますけどね」
「まあ、貴族からの依頼で書いていたり、楽譜が売れないと収入にならなかったり、彼らもしがらみの中にありますから……」
そういうものかと思おうとするがあまり納得できず、バデーニは間を持たせるように肉を大きく切った。口に押し込む。大事に制作した曲に、他人に勝手にラベルをつけられるなんて御免だろうに。
「それに、ちゃんとそういう背景も含めて演奏家たちは曲を解釈すると言いますから。彼ら彼女らは時間を超えて作曲家の思いに真摯に向き合っている。本当にすごいですよね」
その言いぶりに、ふと、研究も似たようなところがあるなと思った。知識と歴史の蓄積。時代背景による様々な作用。それらを総合的に踏まえて、ただひとつの真理に向かって無数の疑問を紐解いていく。異なるのは、芸術には唯一の正解というものは存在しないということだろう。
「あの、もう少し話してもいいですか……?」
「もちろん」
控えめに聞いたクラボフスキの顔がぱあっと晴れる。それから心底楽しそうに語り始めた。
曰く。ベートーヴェンの死後発見された、宛先不明の恋文があるのだという。投函されることのなかった手紙の宛先、「不滅の恋人」と呼ばれている相手の正体は長年研究されているが、研究初期においてすでに本人の手記や参考になりうる資料が散逸しており、未だ確たる証拠はない。しかし、出版社とのやり取りにおいて確認できるベートーヴェンの足跡や郵便馬車の出る曜日の記録、また文中の天候に関する記述などをもとに、この人物ではないかと目される女性の名は上がっている。なお、手紙が書かれた年代の特定の手がかりとなったのは、筆まめなゲーテによる詳細な日記であった。
「しかしそれが本当は誰のことだったのか。もしかすると、研究の果てに現在候補として挙がっている女性たちとは全く違う誰かかもしれない。今となってはもう、その答え、本当のことは誰にもわからない。ベートーヴェン御本人にしか」
その話を聞いて、バデーニにはベートーヴェンがなんだか不憫に思えてしまい、そして自分から遠い過去の人間に対してそうした感傷を抱くことに不思議な心持ちがした。出さなかった手紙には、出さなかった、あるいは出せなかっただけの理由があるだろうに。それでも捨てられなかった理由も。ひっそりと隠していたものが後世の人間に無遠慮に暴かれていくことを知ったら、彼はどう思ったのだろうか。
「手紙をちゃんと燃やしでもしておけば、秘密は守られたでしょうに」
バデーニがぽつりと呟いた。予想外の反応にクラボフスキは一瞬手を止め、優しいですね、と呟いた。バデーニは顔を上げたが、周囲の声に紛れて言葉そのものは届かなかったらしい。問い返す瞳と目が合う。呟きの代わりに、柔らかい声で続ける。
「秘密を秘密のまま抱えて隠し通すのは難しいことですよ。秘密だからこそ、誰かに知ってほしい、気づいてほしいと思うこともある」
「そういうものでしょうか」
「それに、研究も、それを物語的に受けとる私たちも、結局永遠に推論の域を出ることはない。その意味では、彼の秘密はずっと秘密のまま守られるのではと、私は思います」
まあ、率直に言って私は、この話を知って一番最初にロマンを感じておもしろがってしまいました、とクラボフスキは恥ずかしそうに笑った。それをわざわざ口に出すその誠実さを、バデーニは好ましいと思う。きっと、だから自分はこの人を恩師と思うのだろう。
「確かに興味深い話です。特に、ゲーテの日記が手がかりになったということ、まさかこの流れでその名前が出てくるとは」
バデーニが言うと、クラボフスキの顔が明るくなった。そうでしょうそうでしょうと嬉しそうに頷く。
「今まで自分とは遠い、歴史上の単語のようだった彼らにもまた交流があり、悲喜こもごもの人生がある。知ることで新たに見えてくる景色があり、芋づる式に繋がって、また人生が色づく。この年になってまた新たな、しかもこんな果てのない楽しみが増えるとは思いませんでした」
少し空けて、聞いてくれて嬉しいです、誰かと話したかったので、とクラボフスキがはにかんだ。切り分けてあった肉をもぐもぐと咀嚼し、飲み込んでから口を開く。
「先生はご友人も多いでしょうに」
「いやあ……、なんというか、歴史があまりにも深い分野なので、私のようなにわか者が話すのはハードルが高く……」
クラボフスキの言葉に、なるほどだから最初に中途半端な謙遜をしたのかと思う。確かに、生半可な知識では語る水準にないと思うことはバデーニにもある。自分に対しても、他人に対しても。しかし、それはあくまで本業に係る話だ。
「でもお好きなんですよね」
「ええ」
バデーニの問いに、クラボフスキは今度は真っ直ぐに強く頷いた。バデーニも頷き返す。
「仕事ではないのですから。好きなものは好きと言って差し支えないのでは?」
クラボフスキが目を丸くした。それから、嬉しそうに目を細める。
「……人に言ってもらうのはこんなに嬉しいことなんですね。ありがとうございます」
「いや、ありがとうも何も、先生が私に言ってくれたんじゃないですか。好きなものがたくさんあんのはいいことって」
「え? そんなこと言いましたっけ……?」
半ば呆れたようにバデーニが言うと、クラボフスキは首をかしげる。バデーニもつられて怪訝な顔になりつつ、記憶の糸を辿った。
在学当時から、バデーニは本の虫だった。今でこそ人生を懸けると決めた研究領域を持っているが、当時は当然そんなものはなく、とにかくあらゆる本を読み漁っていた。不思議なことが尽きなくて、どんなことでも知りたかった。足並みを揃えることを要求される授業は退屈で窮屈だった。それでまた本に逃避し、そしてまた窮屈さは増していった。
そんなバデーニにクラボフスキは、好きなものがたくさんあるのはいいこと、そのうちにきっとあなただけの一番好きが見つかるといいですね、と言ったのだ。
その旨を説明したが、当の本人はあまりぴんときていないらしい。相変わらず首をかしげているが、それでも教え子の記憶に残っていたことが相当嬉しかったようで、にこにこと笑っていた。
「確かに、当時からバデーニさんの読書量は群を抜いていましたからねえ。よく覚えていますよ。いつからでしたか?」
「いつから?」
「ざっくりですけど、小さい頃から理由なくとにかく何でも読むタイプの子と、何かがきっかけである程度大きくなってから読むようになる子がいるんですよ。どちらだったのかなと」
問われて、はたと記憶を遡る。そういえばいつからだっただろう、何かを強く追い求めるようにものを読むようになったのは。頭の奥で、何かがチカチカと瞬いている。自分は間違いなく前者だ。思い出せる限りではすでに、とにかく何でも読む子どもだった。けれど、そうなった契機といえるものも何かあった気がする。記憶を辿る。何かが思い出せそうな、ような。
「今はそんな時代じゃ……」
ぽろりと口に出ていた。クラボフスキが不思議そうな目を向けている。「今は」なんだっただろう。「そんな時代」とはどんな時代だったか。頭の奥、細くきらめく糸を手繰りよせる。ひらめきにきっと繋がるそれを逃さないように。
「何か……、何かあった気がします。昔から何でも読むタイプでしたが、それでも、そうなったきっかけのようなものが」
「おお、そうですか! 何か覚えていることはありますか? 時期でも表紙でも、一文でも」
クラボフスキの瞳が好奇心できらりと輝いた。司書として火がついてしまったらしい。
「時期……おそらく子どもの頃ですね。おそらく物語ではない何か」
「ということはだいたい四十年くらい前、教科書や学校の図書館にあるものですかね」
目を閉じ、記憶のなかを探る。クラボフスキの言うとおり、学校だろうか? けれどあまり実感とは結び付かない。
「教科書ではないような……」
「では買ってもらったもの?」
「いえ、たぶん違いますね。通っていた内科がやたら雑誌やら本やら置いているところだったのでもしかしたらそこかも」
脳裏でいくつかあげていた候補がすべて消え去り、かわりに絞りこむことが一気に困難になったためクラボフスキは頭を抱えた。雑誌となると書評か連載エッセイもあり得るな、そのくらいの年頃の子どもが読めるものでそういう類いの文章が出てくるもの……とぶつぶつと呟いていたが、眉間の皺は深くなっていく。
その様子を見て、バデーニは苦笑する。記憶をたどったところで不確かなことしか言えないし、そもそもが曖昧すぎる記憶なのだ。
「いえ、いいですよ。自分でも思い出せない程度のことなので」
しかしクラボフスキは、いいえ、と語気を強めつつ首を振った。
「断片的であったとしても何か記憶にのぼるものは、きっとバデーニさんにとって大切なものだったはずです。それに、なにより私が気になるので」
図書室で幾度となく向けてもらった、他人を気遣わせない笑顔で言うと、クラボフスキはスマートフォンを開いてメモを始めた。その様子を見ながらもう一度記憶の引き出しを探る。今はそんな時代じゃないから、という言葉に、確かにあのときの自分は勇気づけられたのだ。いいんだ、と思った、そのことだけを覚えている。そう、大人の言葉で言い換えるなら、自分の好奇心を肯定してもらったと思えたのだ。あのときの自分は。
そう思い至ったとき、不意に脳裏によみがえる一文があった。
「……今は、何かを知るのに命を懸ける必要のない時代なのだから……」
口に出してみる。そうだ、と思う。呟いた一文には、探していたパズルのピースを見つけたような実感があった。
バデーニをじっと見つめていたクラボフスキが、はっと弾かれるようにその言葉をメモに打ち込んだ。
「ありがとうございます! これでだいぶ絞り込めるかもしれません」
「きっと原文ママではないので参考には」
「いえ、いえ。そういう話題が出てくるなら、社会史か科学史、あるいは哲学関連かも。かなり助かります」
お手数を……とバデーニが言いかけると、だって気になるじゃありませんか! と楽しげにクラボフスキが言った。その顔は新しい謎に向き合う研究者、あるいはプレゼントの包みを開ける子どものようなものだった。
「とはいえ、やはり私だけでは難しいかも。司書の知り合いや友人たちにも聞いてみていいですか?」
もちろん問題ない。頷きつつ、やっぱり友人はたくさんいるじゃないかとバデーニは笑った。
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