二
自身の手元のタスクに追われているうちに時間が経ってしまい、バデーニが産学連携課を訪れることができたのは結局二日後だった。
向こう数ヵ月のスケジュールを尋ねるなら、確認確認ばかりで返事の遅い総務課よりも手っ取り早かろうと考えながら研究棟を渡る。幸い、部門長を務めているヨレンタとはそれなりに交流がある。あらゆる分野の人間につてを持つ彼女のもとにはあらゆる情報が入ってくるようで、しかも、可能性のレベルでいいならと惜しげもなく前広に教えてくれる。
総務課を通りすぎてほどなくして、産学連携課のカウンターが見えてきた。入口近くで書類仕事をしていた若いスタッフにヨレンタの在席を尋ねる。スタッフはさっとパソコンに視線を走らせ、間もなく戻るはずですが、と言葉少なに答え、また指を動かし始めた。このまま待たせてもらおうとカウンターを離れ、向かいに置かれたベンチに腰をおろす。待ち時間がもったいなくて、バデーニはタブレットを開いた。すぐさま、周囲の音が遠退いていく。
「……先生、先生。ヨレンタさん戻られましたよ」
先程のスタッフに呼ばれ、思考の海に潜っていた意識がぱっと浮上する。時計を見ると十分ほどしか経っていなかった。
「失礼。ありがとう」
画面の明かりを落とし、会釈をして席へと戻る彼のあとをついていく。
「ヨレンタさん。お戻り早々すみません。バデーニ先生がいらしてます」
スタッフが奥の机に向けて呼び掛けてくれた声に反応して、ぴくりとヨレンタの肩が跳ねた。顔を上げた彼女の目の焦点がバデーニの上で結ばれる。
「バデーニさん!」
いつものようににこりと笑う彼女だったが、顔色には疲れが見えた。年中忙しく各地を飛び回っている彼女だが、身体的な忙殺というより、精神的な疲労が色濃いように思えた。
「お忙しいところすみません。お時間は取らせないので、少しいいですか」
「ええ、もちろん」
「ヨレンタさん、打ち合わせがてら少し休憩してきたらどうですか」
隣に控えていたスタッフが声をかけた。彼の顔にも心配の色が見える。ヨレンタの横顔に一瞬迷いが浮かんだが、気遣いを受けとることのほうを優先したらしい。ゆるりと微笑む。
「ありがとう。じゃあ、三十分だけ」
行きましょうか、と促されついていく。カフェテリアに向かうのかとバデーニは思ったが、彼女が向かっているのは全く別の方向だった。縫うように廊下を奥へと進んでいくと、大きな柱の向こうにすっぽりと隠れるようにテーブルと椅子が置かれている。知らなければ人の目に止まらないだろう場所だ。
「こんなところあったんですね」
「穴場なんですよ」
バデーニは柱から微妙にはみ出している側の椅子を引き、ヨレンタに奥側に座るよう促した。奥側であれば、柱の陰に完全に隠れて人からは見えないだろう。ヨレンタはわざわざ持ち上げるようにして椅子を引き、腰をおろして言った。なんとか浮かべた、というような笑顔とともに。
「それで、バデーニさん、わざわざどうしたんですか?」
「私はスケジュールの確認だけなので後でいいですよ。お疲れでしょう」
バデーニの言葉に一瞬彼女の唇が震え、それからそんな顔を見られまいとするように、肘をついて両手で目元を覆い大きくため息をついた。そして深呼吸をしてから顔を上げ、ごめんなさい、と小さく呟いた。
ヨレンタのこんな姿を見るのは初めてだった。バデーニより十かもう少し年上の彼女は、いつも落ち着いて柔らかな微笑をたたえ、声を荒げることはないのにその言葉はいつも確かに重量がある。それでいて、時折きらりと少女のように目を輝かせて屈託なく笑う。どんなときでも不機嫌を人に見せない彼女であるだけに、ここまで疲弊した姿を見せるのはよほどのことがあるのだろう。
大丈夫ですか、と言いかけて、バデーニは言葉を差し替えた。
「何かありましたか」
ヨレンタは困ったように眉を下げ、手元に視線を落とした。組み合わせた指を曲げたり、伸ばしたり。
「ちょっと、いろいろ……そう、いろいろ重なって……」
バデーニはわざと彼女から視線を外した。自分の用事はものの数分あれば済む話だ。それよりも、彼女にゆっくりと息をついてもらいたかった。この調子では、ずっと神経を張りつめていたのだろう。
視界の端で、ヨレンタの手が落ち着きなく動いている。しかしそれもだんだんとゆったりとしたテンポになっていき、ようやく止まった頃、彼女は小さく口を開いた。
「詳しいことは言えないんですけど。でも、あの……、もし、信頼していた相手に裏切られたら、バデーニさんだったらどうしますか?」
バデーニはヨレンタの顔を見た。彼女は目を伏せたままだった。この世界では、未だにそういうことがある。研究者どうし、あるいは外部の人間とのトラブル。権利の帰属先や行使をめぐる争いのうち、表沙汰になるものはきっと氷山の一角で、水面下に沈んだまま表に出てこないものもおそらく多い。技術の進展が早すぎて、それらを適切に扱えない者も今後増えてくるのかもしれない。
「……学生の頃に、剽窃の言い掛かりを付けられたことがあります」
ヨレンタが顔を上げた。傷ついた少女のような顔をしていた。奇妙な懐かしさすら覚えつつ、バデーニは言葉を続ける。
「それはアカデミア?」
「いえ、高等学校で。怒りのままに彼に詰め寄って、気づいたときには乱闘になっていました。何を言われたか、何を言ったか、どういう流れで殴り合いになったのか、正直あまり覚えていません」
自分から他人にこの話をするのはおそらく初めてだった。同級生の顔はもう思い出せない。指の痛みも。
「そんなことが……。あの、その同級生の方とは」
「特に何も。元々仲が良くもなければ悪くもない相手でした。まあ、向こうは元々私が気に入らなかったのでしょうが」
話しつつ、テーブルの木目を視線で追った。これまで思い返すのはクラボフスキとのやり取りばかりだったが、ヨレンタに話しながら不意に、乱闘のさなか、彼の眼鏡を踏み潰したことを思い出した。華奢な音、床に飛び散るレンズの破片。ほどなくして教師に羽交い締めにされ止められたので、その眼鏡で怪我をする者がいなかったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。
「辛かったですね」
彼女の声は痛みを堪えるような声だった。あのとき自分は辛かったのだろうか。バデーニは内心で反芻し、打ち消した。
「思い入れのない相手でしたから、そこまでは。証拠もこちらにありましたし。人に疑われることもたいしてなく、まあ、恩師には手を出したことは怒られましたが」
一度言葉を切る。
「だから、もしそれが親しい相手だったとしたらどうしたのか、自分には……」
あんなこともあったなと回想できる程度の記憶だ。去来する痛みもなく。そんな自分にはヨレンタに掛けられる言葉など持ち合わせていない。じっと見つめてくる視線から目を逸らした。程度の差はあるにせよ、もしかすると彼女にも似たような経験があるのかもしれない。もし、信頼していた相手に裏切られたら。そのとき、彼女ははどうしたのだろうか。自分だったらどうしただろうか。これから、ヨレンタはどうするのだろうか。
バデーニの胸中で渦巻く思考を察したかのように、ヨレンタはふっと安心させるように微笑んだ。空気が緩む。
「変なこと聞いちゃいましたね。私に何か起きているわけではないんです。ただ、学生のことで緊急の対応があって、それで芋づる式にいろいろと思い出すこともあっただけ……」
呟くように、自分に言い聞かせるような口調だった。遠くを見つめて言う。この世界では未だに、そういうことがある。多かれ少なかれ、遅かれ早かれ、何かに巻き込まれることがある。自分も。きっと、相手にも。
しかしその大前提として、大多数の人間はきちんと相手に向き合って、あるいは交わされた契約内容に則って、あるべき振る舞いをしているのだ。そういう当たり前の普遍的な善性があることを実感として知っているから、きっと自分たちは今も、他者を信じるということを続けていられる。
なんとなく言葉が途切れて、ふたりの間に沈黙が落ちる。そこにそっと乗せるように、ヨレンタは再び口を開いた。
「バデーニさんのその同級生の方。今はどうしているんでしょうね」
「交流が続いている人間が少ないので」
「ふふ、バデーニさんらしいですね」
細い指先が木目をなぞる。
「……もちろん許されない振る舞いであることに変わりはない。けれど、その方がもっと悪いほうへと進むかもしれない前にちゃんと大事になったのは、良かった」
思いがけない言葉だった。ヨレンタはバデーニを見た。視線がぶつかる。
「良かった、ですか?」
「ええ。……でも、私はその方を知らないし、そう思いたいだけの、ただの無責任な発言かもしれませんね」
そう言って微笑む顔はもう、いつもの彼女のものだった。迷子の少女は影を潜めてしまった。バデーニは問いを重ねようとして、けれど自分が何を言いたいかも、彼女から何を聞きたいのかもわからず、そのまま口をつぐんだ。誰にでも門戸を開いてはいつも朗らかに微笑んでいるのに、ヨレンタには時折、こちらが不用意な言葉をかけるのを躊躇わせるところがある。
会話の進むレールを切り替えるように、それで、とヨレンタは両手を打った。
「バデーニさんの相談事って?」
「ああ……、実は母校での講演を頼まれていまして」
「いいじゃないですか! ぜひ研究者と研究者に理解のあるビジネス人材の種を蒔いてきてください」
そう言ってにこにこと笑う。大学の仕事以外にもシンポジウムやら講演会やら、呼ばれればスケジュールの許す限りどこにでも飛んでいく彼女ならそう言うだろうなとバデーニもわかってはいたが、気乗りしないことも確かである。何か入りそうな先約はないかと若干の願いを込めつつ、予定日を告げた。
「この日、何か重複の予定はありませんか」
「ええと、ちょっとお待ちくださいね……、そのあたり何かあったはず……」
ポケットからスマートフォンを取り出し、口のなかでぶつぶつと呟きつつ勢いよく画面をスクロールしていく。
「これは先生方は出ないやつ、これは……これはまあいいかな……。……ええと、その週で調整中の分野横断の会があるんですけど、バデーニさんのご関心とは違うものなので、とりあえず大丈夫そうです」
つい残念な気持ちが顔に出てしまったらしい。仕事モードの声で言ったヨレンタだったが、バデーニの表情を見て、こらえ切れずにくすくすと笑い声をあげた。口もとに手を当て、瞳がいたずらっぽくたわむ。
「できれば行きたくないやつですね?」
「ええ……」
「私はバデーニさんの講演、聞いてみたいですけど」
「ヨレンタさんならもちろん構わないですよ。学生向けは……」
「あなたもかつて学生だったのに?」
「だからです。記憶も遠ければ感情に寄り添う話もできない」
ヨレンタは笑いをおさめて、すっと背筋を伸ばした。
「バデーニさん。私がなんで、あちこちの登壇を受けているかわかりますか?」
「研究成果の広報と必要な人材の獲得、それと人脈形成のためでは?」
「そうです。でも、それだけじゃない。私も蝶のはばたきのひとつになれるかもしれないし、なりたいと思うから」
いつかヨレンタが自嘲気味にこぼしていたのを聞いたことがある。「私に声がかかるのなんて、女だからですよ」。聡明な彼女は人前で話すのも上手で、ひとたび脚光を浴びると、依頼が立て続けに舞い込むようになった。彼女は依頼の一つひとつに真摯に向き合い準備していた。自身の研究の時間を割いてまで。その姿を見て、思うところがなかったと言えば嘘になる。研究者としてのヨレンタを尊敬していたから。けれどバデーニが何も言わなかったのは、有限の時間のなかで一番苦しんでいるのは彼女自身だとわかっていたからだった。
そのうち彼女は、彼女の軸足を大学としての仕事に移してしまった。もう研究には戻らないつもりですか、とは、聞けなかった。
もがき苦しんでいた記憶のなかの彼女。自嘲しつつグラスをなぞっていた横顔。久しぶりに正面から見た彼女は、そのどれとも違う、どこか晴れやかな表情をしている。
「何といつ出会うかによって、人の進む方向は容易に変わり得る。ゆっくりでも、目で見えてはわからないくらいの進みだとしても、社会は変わっていけるはず。『女性だから』選ばれることに辟易する気持ちは変わらないけれど、何も知らない第三者から見たら、それはただの希望たりうるのかもしれない。そして今度は、それが新しい当たり前になっていけばいい。ようやく最近、そう思えるようになったので」
まあ、そのためには私もそれなりの力をつけないといけないんですけど。そう言って微笑む。バデーニはかつての自分の浅慮を思い返した。喉の奥がぐっと詰まる。あんなこと言わないでおいて、本当によかった、と思った。
「……ヨレンタさんは変わりませんね」
「えぇ……? 変わった話のつもりだったんですけど」
「かつても今も、後進たちに心を傾けているじゃありませんか」
「私は、私が誰かにそうしてほしかったことをしているに過ぎませんよ」
取り組みとして大切であることと、その当事者としての感情が、常に同じ方向を向いているとは限らない。そういうままならない葛藤のなかで、それでももがき、より良い道を見つけられるように努めていくほかにはないのだ。結局のところは。
「……人類史が二千年以上たってもいまだ女性に対する不当な扱いはなくならない。そして別の側面では、私もまた無意識に加害の側に立っているのかもしれない」
ヨレンタはそこまで言って視線を落とし、組み合わせた両手をじっと見つめた。そして自分に言い聞かせるように呟く。
「私たちは誠実であることはできず、いつだってできるのは、誠実であろうとすることだけ」
誰もが満足し、誰もが納得する状態などというものは存在しない。置かれた立場、積み重ねた経験、それらに応じて一人ひとり異なる苦悩があり、それらを貫く倫理もまた絶対のものはない。そこから滲む葛藤があるから、彼女の言葉は胸に切実に迫るのだろう。
蝶のはばたきが嵐を起こすように、もしかすると彼女のはばたきは、いつかどこかの嵐をおさめるのかもしれない。
ヨレンタが顔を上げた。
「まあ、ですから、お話を受ける受けないはバデーニ先生にお任せします。私が何か言うことではないので」
そう言ってにこりと綺麗に微笑む。かないませんね、とバデーニが苦笑混じりに呟くと、ヨレンタは笑みを深くした。
ヴーッと振動の音が響く。ヨレンタはすみませんと小さく断ってからポケットからスマートフォンを取り出した。さっと画面に目を走らせる姿には警戒感が滲んでいたが、彼女が現在追われているという事案ではなかったのであろう、雰囲気がほどけてまなざしが柔らかくなった。その様子を確認してから、そっと声をかける。
「……大丈夫ですか?」
「ええ。このあとドゥラカさんと約束があるんですけど、前の件が伸びて少し遅れるって連絡だけ」
「ああ、あの投資家の……」
「バデーニさん、会ったことありましたっけ?」
「ヨレンタさんから話だけは」
その名前はたびたび聞いたことがあった。バデーニはあまりそのあたりの領域に明るくはないが、投資家として辣腕を振るっている彼女はそれなりに業界では有名人らしい。かつては自身も次々といくつかの会社を興したという派手な経歴も持っている。くわえて、アカデミア改革のフロントランナーとして認知されているヨレンタとも交流が深いとなれば、なおさらなのだろう。
バデーニ自身は、研究分野が基礎研究に近いという特性もあり、そういった外部の人間との交流を限界まで絞っている。若い時分には教授に付き合って企業の人間と話したこともあるが、彼らにあまりに知識がなく、かつ歩み寄る気もないくせに上から目線で、そんなことが数回続いたのでほとほと嫌気がさしてしまった。今でこそ最初に引いた相手が悪かっただけだと理解してはいるが、そうした経緯もあり、今さら面倒という気持ちが拭いきれない。アカデミアとビジネスの橋渡しに日々尽力しているヨレンタのことを、自分には到底無理だなという尊敬九割、よくやるなあという思い一割で見ているのだった。
その一割のほうが滲み出ていたのだろう。ヨレンタの瞳に挑戦的な色が宿る。
「崇高なるアカデミアが金儲けに走るなんて論外?」
「いえ、そこまでは……」
ぎょっとして視線を泳がせてしまう。こうなったときのヨレンタは口調はいつもとさほど変わらないのに、その言葉と表情には確かに圧があり、バデーニは少し苦手だった。
「私たちは霞を食べては生きていけない。研究には元手がいるんです。絶対に」
「それは、もちろん、理解しています」
「社会実装も起業も、別に全員がやる必要はないんです。やりたい人がやればいいだけ。それに、取り巻く環境もちゃんと変わってきてるんですよ。前より全然、研究の話もできるビジネスサイドの人間も増えてきた。そうして大学が潤うからこそ研究資金が増えてもっと自由に研究ができるようになる。そういうなかから、また新しい何かが生まれてくるかも」
気圧されている年下の研究者の様子に気付き、ヨレンタはふっと口をつぐんだ。舌鋒が引っ込みバデーニはほっと胸を撫で下ろす。いくぶん和らいだ口調で続ける。
「ドゥラカさんと知り合ってすぐの頃に、言われて気づいたの。還元できるものは社会に還元して、それで対価として利益を得て、それで今よりもっと研究が、私たちが自由になれるなら、お金儲けも別に悪いことじゃないなって。選択肢が増えるのはいいことでしょう?」
「それは、はい。まったく同感です」
バデーニは心から頷いた。先人たちがたどり着きたくてもたどり着けなかったもの。選ばざるをなかったもの、そのために諦めたもの。あるいは選べなかった選択肢、その先にあり得たかもしれない人生。それらはしかし、今とこれからを生きる人間を縛るものであってはならない。望むのはただひとつ、そういった気の遠くなるような積み重ねの果てに、いつかまだ見ぬうつくしいものに到達することだけなのだから。
ヨレンタが手首に視線を落とす。そろそろ時間だった。
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