明日きみの話をしよう - 9/11

「あー、お腹苦しいー!」
 そう言って降谷は大きく伸びをした。川沿いの風は強い。すこし太り足りない上弦の月といくつかの星がひかる夜、ぬるい空気が、髪を揺らしていく。
 降谷が赤井を連れていった焼肉屋は、彼がいいところと言ったとおりだった。座席の間隔が広くて、生ビールがきんきんに冷えていて、一皿の量が多い。自分の肉は各自でお世話しつつ、箸がせわしなく口と肉と白米を行ったりきたりしていた。いい店だな、ジョッキ片手に赤井がそう言うと、降谷は満面の笑みを浮かべた。
 食事の二時間はあっという間で、しっかり食べながらだったからか、飲んだ量のわりにたいして酔いも回っていない。コンビニ寄ってハイボールかなあ。会計を終えて店を出た途端に降谷がそう呟いたものだから、赤井は思わず声をあげて笑ってしまった。そして二人は今度はトリスに片手を奪われつつ、ぶらぶらと夜の道を適当に、どこに向かうでもなく歩いているのだった。
「ねえ、おいしかったでしょう!」
「ああ、久しぶりにあんなに食った」
「お昼軽くして大正解だったな」
 後ろを歩く赤井をくるりと振り返り、降谷がぐいっと缶をあおる。ぷはー、と息を吐き出して、また歩き出す。
 穏やかで、にぎやかな二時間だった。それなりにまじめな話は降谷の家でもうしてきたからというのもあるが、仕事なんて微塵も関係のない、当たり障りのない話や学生の頃の話、アルコールの好み、昔好きだったロックバンドや小説の話、そういうなんでもないような話ばかりした。まじめさとは程遠い、ラリーのように飛び交う会話だったが、それでも今までで一番楽しかったように思う。降谷は自分のことをたくさん話して、そして同じだけ赤井の話を聞きたがった。赤井が小さい頃の話を聞いていたときの降谷は、ひどくやさしい顔をしていた。
 もういくつめかわからない横断歩道をわたり、信号を左折したとき、降谷の足が例の写真を撮った場所に向かっていることに気づいた。降谷の右手と、赤井の左手を塞ぐ百七十三円のハイボール缶はとっくに空になっている。でも捨てる場所もない。降谷はときおりそれを左手の爪でたたいて、かんかん、と軽やかな音をたてている。
「明日帰るんでしょ」
 会話の延長線上で、降谷が言った。赤井の左隣を歩く降谷と、一瞬視線があう。
「やっぱり知ってたんだな」
「そりゃあまあ。空港、小松から?」
「ああ。それから羽田で乗り継ぎ」
「送ってあげますよ」
「あの喫茶店は?」
「昨日言ったでしょ。今日から三日間お休みだって」
 ちゃんと聞いてなかったな、と降谷が肩を揺らして笑う。しょうがないだろうそれどころじゃなかったんだから、そう言うとはいはいと適当にいなされた。まったく気まぐれな猫みたいなやつである。
「ここから高速乗ってしばらく行ったところ、全然車いないし道路まっすぐだし回りに高い建物ないしで、走っててめちゃくちゃ気持ちいいんだよなー。滑走路みたい」
「滑走路?」
「そう。アクセル思いっきり踏み込んだら、このまま離陸して飛んでいけるような気がするんだ」
 そんなことを話しているうちに、橋に差し掛かった。二人の反対側をアウディが走り抜けていき、降谷の横顔が一瞬照らされて、また暗くなる。他に誰もいない。ちょうど真ん中あたりでどちらからともなく止まり、並んで橋桁にひじをついた。
「ことが済んだら姿を消して、もう一度ただのどこにでもいる公安のひとりになること、それは前もって上に言われてて。まあそうかなーって、自分でも思ってはいて……。それで下見にきた日でした。ちょうどここから、こう」
 右手の缶を赤井に押しつけ、両手をカメラみたいにして風景を切り取る。それからまた缶を受け取った。
「ほんとに、ただの気まぐれ。しいていえば、あんまり平和な午後だったから」
 へにゃりと上体をついたひじの上に倒し、隣に立つ赤井を見上げる。
「電話したのだって、ただ最後に、声が聞きたいかもしれないと思ったような気がしたからだし。それだけ。それをなんでどうしてって……、やることなすこと全部に理由があるわけないだろ。仕事とかならともかく、普通に生活してるときに。鈍感?」
「それにしては曖昧じゃないか」
「しょうがないでしょ、自分でだってよくわからないんだから。勢いです勢い」
「それから鈍感は心外だな。きみがあんまり裏のありそうなことばっかりするからだ」
「へー、じゃあ僕が悪いって言うんですか!」
「そうは言ってないだろう」
 勘弁してくれ、そう降谷のご機嫌を取りつつ、ゆるく組んでいた腕を組み直し足の位置をわずかに変える。
「それを言うなら俺が日本にきたのだってただの勢いさ」
 赤井が軽い調子でそう言うと降谷は体を起こして笑った。手のなかのハイボール缶も、赤井の腕も、降谷の首筋も、みんなおなじように汗をかいている。
「ほんとにどっちでもよかったんですよ。赤井がどうしたって、究極の話をすれば、俺には関係ないし」
 そうだろうな、と思った。降谷には降谷の、赤井には赤井の行くべき道がある。それがこの先交わることはおそらくもうない。ほぼ確実に。口には出さないが、お互いそんなことはとっくの昔にわかっているのだ。そのうえで、声が聞きたいかもしれないと思ったり、思い出して会いたくなったり、話がしたいと思ったりする。そんなこともある。ただ、それだけのことである。
「でもやっぱり、もう一度会えてよかったです」
「ああ」
 赤井は噛みしめるようにもう一度、ああ、と呟いた。
 ぬるくて強い風、つうと首筋を伝っていった汗、今日した話、明日する話。降谷の横顔。それらを、たぶん赤井はずっと忘れない。
「なにかが違えば、赤井とはきっと、すごくいい友達になれたんだと思う」
 こんなにいろいろあったのに、赤井のこと、なにも知らなかった。それでも今日、やっと少しだけど、知れた気がする。もっといろんな話がしたかった。自分で選んだ生き方だけど、ただひとつ、それだけが惜しい。
 遠くを見ながら、ぽつりぽつりと話していた降谷が赤井に正面から向き合う。
「こんなこと思うようになるなんて、思いもしなかった」
 穏やかな声で言う。赤井の鼻の奥がつんと痛んだ。一年前、アメリカに帰ったらもうそれで会うことはないんだろうなと、それが自分たちらしいのかもしれないと思った。それはある意味でどこまでも正しい。そういう人生だ。そういう道を選んだ。明日赤井が帰国すればそれがもう本当に最後だ。今度こそ最後なのだった。だから赤井は言葉を吐き出す。精一杯言葉を尽くしてくれている降谷に自分だって報いなければいけない。いや、報いたいと、そう思う。
「新しい名前は用意してもらったものか?」
「え? あ、はい、そうですけど」
 突然の話題転換に、降谷はわずかに驚いた様子を見せつつもこくりと頷く。
「いい名前だと思う。きみらしい。特徴的だから覚えやすい気もするが……」
「あ、名前も見た目も特徴的だとかえってどっちかを忘れやすいんだって」
 そうなのか? と赤井が驚いた声を出す。そういうものらしいですよ、僕にはよくわからないけど。確かによくわからないな……。物覚えがいい二人ゆえになんとなく疑問符が浮いてしまい、顔を見合わせてふっと噴き出す。
「まあいい、名前のことは上司殿に任せよう」
「なんだそれ! 人の名前だからって適当な」
「適当じゃない! 頼む話を戻させてくれ」
 自分だって笑っているくせに必死そうな赤井の声に、降谷がいっそう体を揺らした。それでも絶え絶えになった息の合間に、どうぞ、と言ってくれる。笑い交じりではあるが息を整え、赤井の目をまっすぐ見る。
「こんなイレギュラーな人生だ。たぶんこれからだって散々なことばっかりだろう。それでもきっとこの先どこにいても、なんて名前でも、零はずっとそのままなんだろうなと思う。零に出会えてよかった。零も言ってたとおり友人かと言われると……、まあ、あれだが、俺はきみを戦友とか、同志とか、そういうふうに思っているよ」
 降谷が、ふいと視線を下げた。零? そう呼ぶとぽつり、ずるい、と呟いた。
「ずるい……」
 さりげなく左手で目元をぬぐい、もう一度赤井を見つめる。笑う目元が滲んでいることを指摘したら、きっとアルコールのせいだと言うのだろう。
「不意打ちでそういうのやめてくれよ」
「はは、悪い」
「どうしよう、このままだと明日、別れ際にする感動的なやつなくなっちゃいますよ」
「感動的に送り出してくれるつもりだったのか?」
「うーん、その予定はなかったけど」
「ならいいじゃないか」
「それもそうか……、あーでも悔しい! すごく嬉しいけど悔しいな」
「なんだそれ」
 どちらからともなく歩き出す。橋のもう半分なんて、あっという間に渡りきってしまう。
「そうだ、聞こうと思ってたんだが」
「なに?」
「そろそろスコッチの墓参りに行かせてくれないか」
 降谷はあー、ともらして空を見上げ、それから住所と彼の本名を小さく口にした。
「メモとかに残しちゃだめですよ」
「わかってるさ」
「あいつはオレンジとか黄色とか、明るい色の花が好きだから」
「参考にするよ。ありがとう」
 声には出さずに、その名前を反芻する。名前。名前は記号だと降谷は言ったが、それでもやはり赤井の中ではあの声や表情と、初めて聞く名前は結び付かないのだった。
「一緒に行ってくれるんじゃなかったのか?」
「赤井の話はしておくから。付き添いは必要ないでしょ」
 肩越しに振り返り、降谷は微笑んだ。やさしい、笑顔だった。
「明日も今日と同じ時間で!」
「わかった。本当に空港までいいのか?」
「もちろん。せっかくだからさよならするまでいっぱいしゃべりましょう」
 数歩先を行く降谷がくるりと向き直り、正面から赤井に向き合う。
「ありがとう。会いにきてくれて」
 たいしたことじゃないさ、赤井がそう答えると降谷はにっこりと頷く。それから、もう一度前を向いた。

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