明日きみの話をしよう - 8/11

 端的に言うとリハビリみたいなものなんですけど。長年の潜入捜査と後始末がやっと済んで次の仕事に行く前の小休止と、あとはちょっといろんな人と知り合いすぎてしまったので、降谷零も処分しないといけなくなったっていう、まあ言ってしまえばそれだけです。
「安室のほうは最初からそのつもりだったんだけど、降谷もそうなったのはさすがに、自分でもちょっとやってしまったなあって感じで……、あ、こっちのほうがいいな」
 そう呟き、降谷は両手で比べていた二本のズッキーニのうちの片方を買い物かごに入れた。ひんやりとした空気のスーパーマーケットを勝手知ったる足取りで歩く降谷のあとを、赤井は一定の距離を保ちながらついていく。緑色の買い物かごのなかを転がる茄子と二本のズッキーニ。赤と黄色のパプリカ。そこかしこに溢れている生活感。
「赤井」
 くるりと降谷が振り返り、赤井の名前を呼んだ。
「ん?」
「さっき、あとなに買うって言ってたっけ」
 そう問われ、赤井は野菜と生ハムとバケット、と答えた。店内に入ったとき、降谷はかごを取りながら何度もそう繰り返していた。野菜と生ハムとバケット、野菜と生ハム、あとバケット。歌うような楽しげな調子だった。
「そうだ、バケット」
 うんうんと頷きつつ降谷はまた前を向き、棚の間を縫うようにしてパンの陳列棚の方へと歩を向けた。いろいろな土地を転々として足取りを消した降谷だが、ここに落ち着いてからの四ヶ月はまったく普通の人間のように、ありふれた一般人のように、ずっとここで自然体で暮らしているのだという。そうして積み重ねられた空気感のようなものが、言葉や動きの端々から伝わってくるようだった。
 蓋を開けてしまえば、「降谷零が失踪した」という一文の後ろにはずっと「ということになった」という続きが隠れていたというわけだ。ただそれだけ。降谷零は失踪したということになり、もともと存在しない名簿の中からも消え、そうしてこれまでと変わらず彼は彼のままで信念を抱いて生きている。なにも知らずに言葉の通り受け取っていたのは公安の外側の人間だけだった。降谷零はもうどこにもいないが、彼はどこにだって行けるし、なにをすることだってできる。それはつまり、さまざまなしがらみにがんじがらめになってしまった降谷が、本来その手にあるべき自由を取り戻したということでもあった。
 駅前の広場からほんの数分離れたパーキングに停められたありふれた日本車、それが今の降谷の愛車なのだという。まだあの派手な車に乗ってるんですか、笑いながら降谷はちゃりんちゃりんと音を立てて二百円を精算機に投入した。降谷の指が押した番号、二十二番に停められた車を見ながら、赤井はうんと答えた。世間話に分類されるような話をしているのが、不思議な気分だった。降谷のことをなにも知らないのだなと、そう思った。
「お昼はうちで食べようかなって。まずスーパー行ってからでいい?」
 がしゃり、と鍵が開く音がする。降谷はそう言いながらすでに運転席の扉を開けていて、赤井は少し大股になりながら助手席のほうに回り込む。
「手間ならどこかでも」
「あ、いいんです。というか、せっかくだからきてほしいし。夜はおいしいところあるから、そこ行きましょう」
 安堵したように降谷が笑った。それから二人は黒の日産ノートに乗り込み、スーパーマーケットに向かって走り出すと同時に、降谷は普通の話をするようにこの一年間の話を始めたのだった。最初の数ヶ月は、実はまだ都内にいたこと。そうして引き継ぎをしたり、今後の相談を直属の上司としたりしていたこと。東京を離れてから行ったいろんな場所のこと。きれいだった風景やおいしかった食べ物。この街にきてからは普通に暮らしつつ、ネットワークを通じてこまごまと仕事を再開していること。
 全部、ぜんぶ話すから。その言葉の通り、降谷はこれまでの秘密主義はなんだったのかというほどあけすけにいろんなことを話した。話したと言ってもここへくるまでのたったの十数分で、降谷が語ったのはまだ一年間のダイジェスト版にすぎないものではあったが、それでも降谷の口ぶりからは精一杯赤井に自分の話をしようと、わかってもらおうという気持ちが感じられた。
「なあ、これ見て」
 そう言って降谷が赤井に両手の中の二本のバケットを掲げてみせる。
「こっちのバケットは切ってあるのに、これは切ってないんだよ。なんでだろ、あはは、適当だなあ」
 赤井が思わずふふっと息をもらすように笑うと、降谷はそれを見て一瞬止まり、それからけらけらと笑った。そんな降谷を見ていると数年単位の確執もぎこちなさも、一年間の空白も、まるでそんなもの最初からなかったかのように思える。ずっと昔からこのありふれた平凡で平穏な街で、どこにでもいるような二人として付き合ってきたような気がする。余計な力が一切入ることなく自然体で笑い、話し、赤井の名前を呼ぶ降谷。初めて見るようにも思えるそれは、しかしずっと前から確かに彼から見え隠れする一面でもあって、だからこそどこか懐かしいような気もした。
 それにしても、と赤井が呟く。んー、と語尾をわずかにあげ、降谷はちらりと隣でレジ袋にバケットと生ハムを詰める赤井に視線を投げた。またすぐに手元に視線を戻し、息を吐きかけた指先でビニール袋を開き、ズッキーニをいれ、また別のビニール袋にパプリカを入れる。
「風見くんには一杯食わされたな。しらを切るのが上手くなったんじゃないか?」
「あ、やっぱり風見に聞きました?」
「ああ、偶然会う機会があって、そのときに。俺が降谷くんは、と言っただけで自分が聞きたいくらいですと」
「はは、よかった。でも上の人間以外は本当に知らないですよ。風見も。まあ、知らないみんなもきっと、そういうことなんだろうなって察してはいると思うけど」
 降谷は赤井の手からレジ袋を取ろうとしたが、それより早く赤井がひょいと袋を持ち上げた。きょとんと見上げてくる降谷に、荷物持ちくらいするさと言ってみせる。降谷はぱちぱちと瞬きをして、それからじゃあお願いしますと言って笑った。

「お邪魔します」
「はーいどうぞ」
 宅急便とか以外でこの部屋に人がくるの、初めてです。赤井が初上陸したときに降谷がそう言った、彼の暮らしている部屋には、やはりというか赤井が想像していた通りにあまり物がなかった。しかし生活感のようなものはやけにそこに染みついているような印象を受ける。それはつい二十分ほど前に降谷の財布からするりと取り出されたスーパーマーケットのポイントカードと今月分のビンゴカードとか、陳列棚の間を歩く慣れた足取りとか、この車燃費悪いんだよなと苦笑した横顔とか、そういうものから漂ってくるものと同じであった。
「あんま食べないかなって思ったんだけど、おなかすいてます?」
「いや、そこまでは」
「よかったー。簡単でいい? 夜ちゃんと食べればいいよな」
「もちろん。わざわざありがとう」
 腕をまくって手を洗った降谷が、とんとんと一定の心地よいリズムでズッキーニを刻んでいる。いま話しかけてもいいものかと椅子に腰かけたままその姿をうかがっていると、視線は手元に落としたまま降谷が「別に大丈夫ですよ」とどこか楽しげに言った。
「ここでの生活は五月から?」
「そう。半ばくらいだったかな……、だからもうすぐちょうど四ヶ月」
「あのポストカード、」
「あ!」
 赤井が言いかけた途端降谷ががばりと顔を上げたものだから、驚いて赤井は目を丸くした。そんな赤井が様子に降谷がいたずらっぽく目を細めて笑う。
「そういえばそうだった。じゃあ当然気づきましたよね」
「ああ、ここだったんだな。きた日に偶然わかった」
 どうしてあのとき、あれを俺に? 赤井がそう問うと、包丁のとんとんという音が止まった。かたん、と音を立てて包丁が置かれ、降谷はまっすぐ赤井を見つめている。
「言ったでしょ、気まぐれですよって」
「いま、こうしてここで暮らしているのに?」
「確かに、下見で行ったときに撮った写真だけど……、ねえ、そんなに理由がいりますか」
 降谷は左手で右腕を引き寄せていた。きゅっと眉を寄せ、どうしたらいいかわからないというような、そんな困った顔をしていた。理由があったほうがいいですか。そう降谷に言われたことを思い出す。だって、と赤井は思う。電話も、ハガキも、今日の日だって。なにか理由があるから、降谷は自分に対してなにかをするのだろう、と。
「ハガキが届いたあとも、去年の電話のときも。赤井はなんでって聞いたけど、本当に理由なんてなかった。ただの気まぐれ。したいからした、それだけ」
 青い瞳が揺れて、急に彼がしゃがむ。ぱたん、となにかが開くような音がしたから、どうやらシンクの下の収納スペースのなかをごそごそやっているらしい。
「じゃあ、逆に聞くけど」
 フライパン片手に立ち上がりコンロの火をつける。オリーブオイルが垂らされてぱちぱちと弾けるような音がし、そのままくるくるとフライパンを回してオリーブオイルを全体に広げていく。
「なんでわざわざこのタイミングで日本に? ここにきたのはなんで? ハガキの写真のことを思い出した理由は? そもそもどうして赤井が僕を探すんですか、理由言えって言われたら言えるような、そういうやつなんですか」
 薄切りのズッキーニをさらさらと慣れた手つきで炒めながら、降谷の口からはクエスチョンがぽんぽんと飛び出す。最初の三つは理由も経緯もちゃんと言える、今になって日本にきたのは一年が経ってさすがに焦ったからだし、ここにきたのは日光を反射してきらきらひかる海がきれいだったからで、写真のことを思い出したのはふらふら歩いてたどり着いたのが偶然あの場所の近くだったから。――それから、最後の一つだって。
「理由ならちゃんとあるさ」
 揺らめく水と、鮮やかな空の青。瞳の色を思い出して、会いたいと思ったこと。
「……そっか」
 小さく呟いて、降谷はコンロの火を止めた。炒めたズッキーニを菜箸でガラスのボウルに移していく。その横顔がすこし、ほんのすこしだけ寂しそうで、それだから赤井は柄にもなく焦った。思わず腰を浮かせる。降谷が驚いたように手を止める。
「赤井?」
「ちがうからな。その顔はあれだ、俺が人に言われて探しにきたと思ってるんだろう。仕事は関係ない、完全なプライベートだ」
「え?」
 ソファを立って数歩、コンロの前の降谷のすぐ側まで行く。降谷くん、そう言おうとして一度開いた口を閉じ、ゆっくりと開く。降谷はその様子をじっと見つめている。
「零、に、会いたいと思ったんだ」
 いなくなってしまったきみに会いたかった。またきっとどこかで潜入でもしているんだろうと思っていたのにいっこうに失踪したままで、失踪だなんて物々しく言うくせに全然事件性は感じないし、それでもう、気づいたらあっという間に一年だ。だから会いたくなった。また、きみと話がしたいと思ったんだ。
 降谷がゆっくり、ぱちり、ぱちりと瞬きをする。ああ、きっとこれは驚いたりなにか考えているときの癖なんだなあ、そう思うと赤井は胸の奥がつかえるようだった。
「なんだそれ。めちゃくちゃ行き当たりばったりなやつじゃん……ばかですか」
 そう言うわりに、へへ、と降谷はひどく嬉しそうに笑う。きっと彼ならそう言うかなという予想通りの「ばかですか」に加えてこんな笑顔のオプションつき、それだけで、衝動的に日本にやってきてよかったと思う。降谷は冷蔵庫からラップに包まれたにんにくを取り出して、バケットの袋を開けた。二本あったバケットのうち、あとでどうせ切るから、そう言って結局切られているほうを選んだのだった。
「立ったついでに、じゃあ、お手伝いしてください」
 こくりと赤井は頷き、降谷の後ろを通って流しのほうに回り込む。そのにんにく、パンに塗ってもらっていい? わかった。においしなくなったら薄く切って切り口新しくして。ああ。蛇口の水の音と一緒に会話がつらつらと流れていく。
「名前呼んだこと、怒られるかと思ってたよ」
「この間?」
「それもだし、さっきも。朝、もう呼んでくれないんですかって言っただろう」
「あー」
「どちらかといえば勝手に呼ぶな! って言われるかなと思ってた」
「あはは、ちょっと似てる」
「そうかな」
「うん」
 二人して視線は自分の手元に落としたままだ。降谷はパプリカを刻んでいて、赤井は機械のようにバケットににんにくをぬりこんでいく。
 あ、と声をあげて、降谷の手が止まった。
「どうかした?」
「にんにく。くさいかな」
 でもまあいっか。二人とも食べるんだしわかんないよな。言いだしたのは自分のくせに降谷はすぐさまそう結論づけて、気の抜けたように笑う。
「適当だなあ」
 呆れたように笑いながら赤井が言うと「自分だって人のこと言えないでしょ」と同じく呆れたように降谷も返すのだった。
「それ終わったら、ズッキーニのせてってください。こう、いいかんじに配分して、全部のせきっちゃっていいから。そしたら生ハムちぎってのっけて、それでおしまい。……お昼、これとあともう一皿だけでもいい?」
「そんな心配しなくていいのに」
「まあだめって言ってもこのふたつしかやるつもりないんですけどね!」
 降谷がニイッと口角を上げて言う。その笑顔が眩しい。
「忘れてた。きみは暴君なんだった」
 冗談めかして赤井が言うと、こらえきれないというように降谷が声を上げて笑いだす。体をすこし折ってひんひん言いつつ、その足でキッチンの端に置いてあったラップのかけられた皿のもとまで行く。赤井がその皿に目をやると、じゃがいもやにんじん、たまねぎ、カリフラワー。こちらはもともと切ってあったらしい。赤井がバケットにズッキーニを盛りつけていくかたわら、降谷はそれらとパプリカを浅い皿にうつして塩胡椒をふって、冷蔵庫から出してきたチーズをばらばらと上にかけ、そのままトースターに入れる。
「できた?」
「ああ、これで最後」
 赤井の手元を覗きこんでから生ハムのパッケージをぺりぺりと開け、くっついた薄い生ハムを丁寧にはがしながら、ふふっと降谷が笑い声をもらした。
「零?」
「そう、それですよ。いや、ふふ、名前、久しぶりに呼んでもらったなあと思って」
 二人の間におかれた生ハムから、赤井も一枚を丁寧にはがしてちぎる。それをバケットの上にのせていく。今日の降谷はよく笑うなと思う。一緒に仕事をしていたときは、まあ当然といえば当然なのだが、手放しで自然体で笑う降谷を見ることなんてほとんどなかった。固い表情や自信たっぷりな表情がほとんどで、笑顔なんてひどくレアだった。そのレアな笑顔だって思わず滲み出たというようなささやかなものばかり。それがどうだろう、立場やしがらみを取り払ったら、こんなふうにころころ表情を変えて、自分の話をして相手の話を聞きたがり、よく笑う。降谷だって。本当に優秀で、自分の意志のもとどんな過酷な状況にも飛び込んでいける、そういう強さを持った降谷だって、どこにでもいるような、ありふれたひとりの人間だ。
「名前は記号です。ただのそのひとつ、捨てた名前に未練はない。でも、やっぱり嬉しいもんだな」
 最後の二枚をはがして、はい、とそのうちの一枚を赤井に手渡した。手渡された生ハムをちぎって、ちぎって、のせる。隙間のないように。こんもりのせたズッキーニからずり落ちないように。
「これでおしまいです」
 最後の一枚を三つにちぎってのせて、降谷はぺろりと指先をなめる。しょっぱい。手の甲でバーを押し下げて水を出し、二人並んで手を洗っていると、ちょうどトースターが出来上がりを告げた。コルクの鍋敷きを赤井に手渡した。チーズがとろとろにおいしそうにとけている。
「うまそう」
「この組み合わせ、楽チンでいいんですよねー。けっこうお腹にたまりますよ。意外と」
「俺でも作れそうだ」
「あっはは、そりゃ切って炒めてのせるだけだもん」
 フォークと取り皿、それから冷蔵庫で冷やされていた麦茶をそそいだグラスを並べ、向かい合って座る。
「いただきます」
「いただきます」
 ぱくり、赤井が大きな一口でバケットをかじるのを、降谷がじっと見つめている。胡椒の振られたズッキーニと生ハムの塩気がよくあっていて、うまい、そう言うと降谷は満足そうに頷いた。
「酒が飲みたい味だ」
「……と思って、ワイン冷やしてあるんだけど、飲む?」
 質問の形式を取りつつも降谷はもう立ち上がっていて、白ワインのボトルを掲げてくるりと振り返った。さすがだなあと赤井が笑う。ワインオープナーを操る降谷の手つきはとても滑らかだ。
「あ、先に言っておくけど今日の夜は焼肉に行きます。これは決定事項です」
「焼肉か!」
「その反応なら大丈夫だな。よかったー、おしゃれな店とかがいいって言われたらどうしようかと思ってた」
「もしそう言っても焼肉なんだろう?」
 思わず笑ってしまっているのを隠さずに赤井が言う。降谷はもちろん! と楽しげに答えて、白ワインの注がれた普通のグラスを両手に戻ってきた。
「せっかくだから乾杯しましょう」
「なにに?」
「なんだろう。なにがいいかな」
 こてん、と首をかしげて言った。まあなんでもいいか、そう赤井が言うと、適当だなあと降谷は笑うのだった。

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