六
十六時間ほど前、さらさらとレシートの裏に書き付けた場所に書き付けた時間通りに現れた赤井の姿をみとめ、降谷零は微笑み、軽く右手をあげた。それを見た赤井の足は一瞬だけ詰まり、メトロノームのように同じテンポだった歩調が崩れる。視線がさまよい、その目元には困惑が色濃く浮き出ていた。当然だな、と思いながら軽く手を振り、それからおろす。降谷はそこから一歩も動くことなく、ゆるく組み合わせた両手の指の先を動かしたりしながら赤井が目の前にくるまでじっと待っていた。
わずかに降谷よりも高い身長、休みのときにしか着ないようなラフなシャツ、すこし汗のにじんだ腕、深いオリーブ色の目、ああ、赤井だなとしみじみと思う。感慨にふける降谷とは対照的に、赤井はこの期に及んでどうしたらいいかわからないでいるようだった。当然といえば当然のことである。きっと今この瞬間が一年ぶりの再会であったなら、赤井は数日前のように感情の溢れだしてしまったような顔で降谷の名前を呼んだだろう。
なんて言おうかな、そう思って降谷はわずかに視線を下げた。最初になにを言うか、赤井がこの街にきてあの店にきたときからずっと考えてはいたけれど、なにが一番いいかなんてわからなかった。きっとその場になればおのずと口から出てくるだろうという考えが楽観的だったなとかすかな苦笑が漏れる。
それに気づいたらしい赤井が、わずかに息を詰めるのが雰囲気でわかった。相変わらずなにが適切で最適な第一声なのかはわからなかったが、降谷は顔をあげて、名前を呼んだ。
「赤井」
朝の光が反射して、オリーブ色の虹彩がきらきらと輝いている。土曜日の朝、駅前の広場、行きかう人とロータリーにゆっくりとすべりこんでくるバス。いま正面から自分をまっすぐ見つめる赤井はこの一年どんなことをしていたのだろう、と思った。この数日どんなふうに過ごしたのか、とか、昨日のコーヒーはおいしかったか、とか、敬語じゃない言葉が聞きたいな、とか、そういうものが、流し台に置かれたコップに水がいっぱいになったように溢れだしてくる。
「ちゃんと、元気にしてましたか」
降谷がそう言った、その瞬間、赤井の目が大きく見開かれた。それを見た途端に降谷の鼻の奥も痛くなる。赤井はすぐにいつもの顔を取り戻したが、わずかにその指先が震えているのが降谷にはわかった。
「降谷くん、で、いいんだよな」
「ええ」
「……本当に?」
「はい」
赤井は長い時間をかけて息を吐き出し、それからまだ少しだけ震えている手で降谷の両手を握った。そのまま自分の額に押し当て、ああ、とほとんど消え入りそうな声で言う。
「まったく、人の気も知らないで……」
「ごめんなさい」
その声があまりに悲痛だったので、なんだか悪いことをしてしまったなと申し訳なさがこみあげた結果のごめんなさいだったのだが、降谷の予想とは裏腹に、額から手を離した赤井からは相当恨めしそうな視線を投げつけられた。しかし相変わらず手は握ったままである。
「悪いと思ってもないくせに謝るな」
「思ってる」
そう返しながら、ああ、なんかいつかこんなこと言ったなとぼんやりと思った。赤井の顔は険しくて、眉間の皺が刻まれてそのまま取れなくなってしまうんじゃないかとそんな呑気なことを考える。かなり怒っている、というか腹に据えかねているんだろうなとは覚悟していたものの、実際に対峙してしまえば、ああ、赤井がいるというその感慨のほうが正直なところ大きかった。
「だいたいなんで昨日になって」
「それは! あそこで話すわけにもいかないでしょう、次会ったときにはちゃんと全部話すつもりだった、でもこなかったでしょ」
とっさに降谷が声を上げると、赤井は強い口調で、つまり、とやけにゆっくりと言った。
「俺が悪いと、きみは言うんだな」
「そうは言ってない!」
なんでまた、こうやってすぐ口論になるんだろう。悲しかった。別に喧嘩したかったわけじゃないのに、となんだかやるせない気持ちになる。でも、当然といえば当然なのかもしれない。圧倒的に積み上げてきた会話の量が足りない。断片的な会話くらいで、赤井がどういう人間なのかもよく知らないし、自分がどういう人間なのかを知ってもらう努力もしてこなかった。だから当然の報いなのかな、そう思ったら目の奥がじわりと熱くなった。そんな降谷の心中を知るべくもない赤井は、なおも言葉を続ける。
「最悪の数日間だった。人違いですなんて言われると思うか? 同じ顔で、同じ声で、どう考えても本人だって人間に! だいたい本当に雲隠れする気なら手がかりなんて残すな、名前を変えるなら姿も変えろよ」
そうまくしたてられ、思わずぐっと言葉に詰まる。文句を言うんならまずは手を離せよ、そう思って手を引こうとするとぎゅうと握る力が更に増す。わけがわからないと思った。ああクソ、と顔を背けた赤井が吐き捨てるように言う。
「違う、こんな話をしたいんじゃないんだ」
お互いに、まっすぐ顔が見られない。握りしめられた両手と握りしめる両手だけが、所在なさげに二人の間に宙ぶらりんに浮いている。
「……きみが、わからなくて。跡形もなく消えてしまったくせに立ち居振る舞いや話し方は俺の知るものと変わらないし、どうしたらいいかと途方に暮れた」
――零!
自分の肩に手をかけいろんな感情がないまぜになったような声で名前を呼んだ、あのときの赤井が脳裏をよぎる。それから、自分の言葉によってそれらすべてが零れ落ちてしまったかのような表情も。
きっと、降谷はそのときに赤井が感じたであろう感情がどんなものだったかを知っている。言葉に当てはめるとすれば落胆とか絶望とか衝撃とかそんなところだろうが、そんな単純なものではない。そういう数日だったのだろう。だから申し訳ないとは思うしかし赤井は降谷が赤井を探していたときの心境を知らないし、降谷は赤井がどんなことを思いどんな理由で日本にきたのかを理解することはできないのだ。きっと、ずっと。
でも、だからといってそれで終わりにはしたくなかった。理解できないことは仕方がない。あまりに遠く隔たっているのだからそれこそ今更の話だ。でもいまこの瞬間降谷はそのうえで赤井のことを知りたいと思ったし、自分の話を聞いて自分のことを知ってほしいと思った。本当は赤井が帰国した夜の、あの電話を最後にするつもりだった。ハガキを送ったのは本当にただの気まぐれだった。赤井がどうすることにしたってなんでもいいと思っていた。本心だ。もう会うことはないと思っていた。赤井は自分を探すかもしれないし、探さないかもしれないとも思っていた。どっちでもよかった。それでいいと、それがきっと自分たちらしいのだろうと思っていた。
そして、そのうえで。いま赤井はわざわざこんなところまできて、降谷の目の前に立ち、揺れる瞳を伏せている。手のひらがあたたかくて指先が硬くて、きっと昔からずっとそうで、それを思うと胸が詰まった。じんわりとあたたかいものが体の中を広がっていく。
「もう、」
ぽつりと転がり出た呟きに、赤井が顔を上げる。降谷はわずかに自由の残る親指を動かし、赤井の手を握り返そうとした。それに気づいたらしい赤井の手の力が弱まる。左手の親指で、赤井の右手の親指をぎゅうと握りこむ。
「零って呼んでくれないんですか」
赤井は目を見張り、口を開こうとしたが、そこから声が発せられることはなかった。降谷がそうであったように、きっと赤井も胸がつかえて声が震えそうになって不用意に動けば涙が出そうになっていたのだろう。そうだったらいいなと思った。
「全部、ぜんぶ話すから。だから、今日一日だけ、ください」
ゆっくりと、握られた手が離れていく。ざあっと風が吹き、赤井はわかったと呟いた。
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