明日きみの話をしよう - 6/11

 にきびができた。生え際と小鼻にひとつずつ。どんなに警戒していてもできはじめたら最後、薬を塗ってひたすらに耐えるしかない。それだけで世の中のすべてが憂鬱になるような、十六歳の女子とはそういう生き物である。
 最悪なのはそれだけじゃない。二の腕は決して出せるような細さではないのに、結婚式に着ていくワンピースはノースリーブ。カーディガンを羽織ればごまかせはするけれど、それにしたってまだ九月だ。日本の夏は、長くて蒸し暑い。サンダルは去年履いたときに靴擦れしたやつ。あと三日の間ににきびは直るだろうか。
「結婚式?」
 悶々ととりとめのない悩みを抱えながらメロンソーダを飲む葵のななめ前で、丹野はそう言って首をかしげた。金曜日の夕方、店内にはごついヘッドフォンをした男子大学生と予備校のテキストを広げる女子高生、上着は脱いでいるワイシャツ姿の男性、それから島田と丹野、葵の六人。女子高生のセーラー服はこのあたりでよく見るものだ。セーラー服いいな、と思いつつ葵は自分のポロシャツを見下ろす。まあ、涼しいしこれはこれでいいのだけれど。
「そう、結婚式。日曜日なんです」
「へえ」
 おめでとうございます、と丹野が島田を振り返りつつ言うと、島田は嬉しそうにはにかんだ。島田の長男、つまり、葵のはとこはしあさって結婚する。
「なるほど、それで明日から三日お休みなんですね」
 ふうん、と納得げに頷きながら丹野の手は止まることなく動き続けている。サイフォンの下のほう、フラスコの部分の半分くらいまで水を注いでから布巾でくるりとまわりの水滴を拭う。サイフォンでコーヒーを淹れるのを見るのは楽しい。上がったり下がったりしていつの間にかできあがっているのを本当に魔法だと信じていたのは幼い頃だけで、中学生になったときにその原理は気圧だとわかったけれど、それでもやはり魔法みたい、と思う。かたり、音を立てて丹野はフラスコを置き、島田に向けて口を開いた。
「式はどちらでされるんですか?」
「京都で。息子はそっちで働いているから……あさって向かいます」
「葵さんも?」
「あ、私は明日。せっかくだからちょっと観光もしたいなと思って。前乗りします」
「そうなんだ。まだ暑そうだな……、せっかくだからいろんなところに行ってくるといいと思いますよ。京都はいいところだから」
「丹野さん京都詳しいんですか?」
「大学のときに行ったっきり」
 ふふ、と茶目っ気たっぷりに丹野が笑った。フラスコのなかの水面が揺らぐ。今いる客の注文は全員分出しているから、これは次に来店したお客用の準備だろう。早く誰かこないかな、そんなことを思いつつ葵は丹野の手元を見つめる。
「結婚式かあ……いいですね」
 楽しげに丹野が呟いた。その声を聞きつつ視線を落とし、メロンソーダに口をつける。彼女さん……もうすぐ奥さんになる人の写真は以前に見せてもらったけれど、笑顔のかわいい、感じのいい人だった。二十六歳のはとこ。九年後の自分と同い年。大学と就職、とんとん拍子に進んでいったらお仕事始めて四年目。付き合ってそれなりにたってから、結婚。その人と生きていく。……そんなの、まったく想像ができない。だって第一、次のその次の春に自分がどうなっているのかだってわからないのだ。
「大学、ってどんなかんじなんですか?」
「ああ、もうそんな時期か。進路調査?」
「いえ、まだ今度選択授業の説明しますよってくらい」
 なるほど、と頷いた島田が丹野を見た。話してやってくれということかと、丹野はその視線の意味を正しく受け取り、葵に向き合う。島田はそのままカウンター奥の調理スペースに消えていった。
「まあ、時間もたくさんあるし自分次第って感じかな。その気になればいくらでも有意義にできるし、四年間を無駄に浪費できる。これ以上ない贅沢な使い方ともいえるけど」
 ふうん、と眉間に皺を寄せつつうなる葵を見て丹野はくすりと笑った。
「そんなの何回も聞いたことあるって顔してる」
「うう、すみません」
「いやいいよ。わかるから」
 半年後の自分を想像してみましょう。一年後、三年後、五年後、十年後、どうなっていたいか考えてみましょう。その年月を超えてきた大人たちは簡単にそう言うけれど、それができたら苦労しないのだというのがこちらの言い分だ、と葵はそういった話をされるたびに思う。なにになりたいとか、どうやって生きていきたいとか、そんなのみんながみんな持っているわけないじゃないか。だってまだ、自分の周りだけの、たった半径数メートルの世界でしか生きていない。重苦しいため息を吐きたいようなどんよりとした気持ちになったが、メロンソーダがおいしくなくなりそうで飲み込んだ。
「人間、案外なんにでもなれるよ」
 ぽつりと丹野が呟く。自分の思うように、好きに生きればいいんだ。
 テーブルの木目を目でなぞっていたところに飛び込んできた言葉に顔を上げる。丹野と目が合い、とっさに右下に視線を逸らした。正直なところ、がっかりした。いままで何度も教師や、塾のコマーシャルや、そういう表向きの言葉と同じようなことを、丹野には言われたくなかった。そしてそれが丹野に対する自分の一方的な押し付けであることも瞬時に正しく理解したから、そう思ったことの失礼さに、まっすぐ目を合わせられなかった。
 自分でもどうしたらいいかわからない。もやもやした漠然とした不安、うまく言い表すことのできないぐちゃぐちゃの感情。自分でもよくわかっていないものを人に言えるわけがない。近しい人間ならなおさら。去年の靴擦れ、にきび、残り少ない薬、細くはない二の腕、ひたひたと忍び寄る進路希望調査、三日後の結婚式。情緒不安定というほど情緒不安定ではない。でもジェットコースターのようにアップダウンを繰り返し、基本的には何事もなかったかのようにケロッとしている。まさに思春期の真っ只中だった。
「……誤解のないように言うと」
 いつだってカンナに流れている、ゆったりとした雰囲気そのものみたいな、やわらかい声だった。葵がゆるゆると視線を戻すと丹野はひどく優しい顔をしていた。あいた手を埋めるように、横に置かれたままになっていた、水滴なんて一つもついていないフラスコをもう一度布巾で拭う。それから、まだ誰も新しい客はきていないのにビームヒーターをつけてフラスコをその上にかざすように置いた。
「必ず夢が叶うとか、思い描いた通りの人生が送れるとか、そういう意味じゃない。そんなのあり得ない」
 ゆらゆらと、フラスコの底を照らす熱源のオレンジが揺れている。布フィルターをセットされた銀の濾過器を丹野のしっかりとした指先が取り上げ、その真ん中からぶら下がっているボールチェーンが揺れる。
「結局人間、自分以外にはなれないんじゃないかと、僕は思ってる。だから、どんなときも案外どうにでもなるしどんなようにもなれる。だったら、自分の好きに生きたほうが得だと思うんだけど、どうかな」
 ロートにフィルターをセットしてボールチェーンを引っ張りながら、そう言って丹野はにっこりと笑った。沸いたお湯のなか、上がっていく細かい気泡を横目に見つつ、竹べらでぐいぐいと濾過器をロートの真ん中に押し込む。
「なんにもなれないけど、なんにでもなれる……」
 思わず葵が繰り返すと、そう、と丹野は頷いた。
「よくわからない?」
「というか、哲学みたい」
 なんにも難しい言葉使ってないのに、わかるようでよくわからないです。葵がそう素直に言うと、丹野は控えめながらも声を上げて笑った。ロートを奥まで差し込みきる直前、ボールチェーンを伝って橙の泡が上る。ここが一番きれいだなと思う。
「そこまで難しく考えなくていいよ。まあ要するに、案外何事もシンプル、ってこと」
 粉の投入されたロートにお湯がぐんぐんとのぼってくる。それを竹べらで攪拌する手つきはどう見たって慣れていて、一番大事な工程をなんでもないことのようにこなしながら、難しい言葉を一切使わずに難しいことを言う。横顔をぼんやりと見つめつつ、不思議な人だなと何度目かになることを思った。くるくるとかきまぜすっと竹べらを引き抜くと、泡と粉と液体のきれいな三層に分かれた。誰のためかわからないコーヒーを、丹野はとても丁寧な手つきで淹れている。ビームヒーターを切り、もう一度くるくるとかき回す。あとは、すこしずつコーヒーが落ちるのを待つのみである。
「丹野さんも、悩んだりしたんですか。そういうこと」
「そりゃもうね。今だってそう。よくある状況かとかレアケースとか全然関係ない。何歳になっても、悩むことばっかりだよ」
 そう言うわりに、丹野の横顔はどこか楽しそうだった。そのときに考えればいいのかな、と葵は考える。先のことを考えなさいとよく言われるけれど、もちろん考えないといけないのはわかるけど、でも考えたってしょうがないこともあるとか、そういう意味なのかな。別になにが解決したわけでもないが、なんとなく胸のうちのもやもやが少し軽くなったような気がした。ストローに口をつける。ほとんどの氷が溶けてしまったメロンソーダは味が薄くなっていて、ちょっと笑えた。
「丹野さんの最近の悩みは?」
 まあ小説のこととかなのかな、でももしかしたらなんかおもしろい話が聞けるかもしれない。そんなことえお考えつつ身を乗り出してみる。すこし考えこむような素振りを見せつつ、丹野はフラスコからロートを抜いた、のだが、発せられた言葉は葵の予想のななめ上をいくもので。
「うーん、会いにきてほしい人がなかなかきてくれないことかな」
 それ悩みって言いませんよねと思わず言いたくなるような楽しげな言い方に、思わず葵は目をむいた。体が若干どころではなく前のめりになる。
「彼女いたんですか!」
「ちがうちがう。友達かな。たぶん」
「友達以上恋人未満的な!?」
「それもはずれ、むしろ腐れ縁以上友達未満ってところ」
 これはなんとしてももっと聞き出したい、腐れ縁ってどういうことだ! 幼馴染とかそういうあれか! そうなんとも女子高生らしい好奇心に駆り立てられ口を開きかけた葵だったが、タイミングが悪かった。入り口のドアのベルに遮られる。思わず振り返ると、そこにいたのは先日の男性客であった。思わずぽかんと固まりかけ、慌てて顔を前に戻す。そんな葵の様子を横目に見つつ、丹野はいつもの調子でいらっしゃいませと笑顔で言った。
「お好きなお席へどうぞ」
 丹野はいつものようにそう言ったが、ゆっくりと歩いてきた男性が葵から二席空けてカウンター席に腰を下ろすのと、その正面、左手側の横に丹野がお冷のグラスを置くのはほぼ同時だった。まるで最初からそこに座ることがわかっていたように。
 たぶん葵はかなり驚いた顔をしていたが、当事者たる男性はほんのわずか目を見開いただけだった。それから至極自然な動作でグラスを左手でとる。ああ、この人左利きだったんだ、と思う葵の斜め前で丹野はきれいに微笑んだ。
「もうきていただけないかと思ってました」
「なぜ?」
 ことり、と音を立てつつグラスを置き、男性はゆるゆると丹野と視線を合わせた。葵は無意味にポロシャツを引っ張り背筋を正す。理由なんてない。女の直感が言っているのだ、これはなんかとんでもない場面に遭遇しているぞと。指先に緊張が走る。
「またきますと言ってくださったのに、ここ数日見えなかったので」
「いろいろとやることもありまして」
「そうですか……。でも今日いらしてよかったです。明日だったら入れ違いでしたよ」
「明日?」
「ええ。明日から三日間お休みです」
 にこりと笑った。フラスコからカップにコーヒーが注がれる。そしてそれが男性の目の前に置かれ、立ち上る湯気とともに男性がもう一度丹野をまっすぐに見つめる。
「オーダーはしていませんが」
「この間の会話、もう忘れちゃったんですか?」
 コーヒーの話したじゃないですか、と丹野がどこか寂しそうに言う。葵はそれを聞いてはいないからきっとまだ二人だけだったときの会話のことだろう、と当たりをつける。残り五分の一のメロンソーダ、うまく配分しつつ飲まなければいけない。葵は内心かなり興奮していた。初めて垣間見る丹野のプライベートらしきもの、それにきれいな男性二人がすぐそこでなにやら裏のありそうな会話をしているのだから仕方ない。
「せっかくなので、飲んでいただけませんか」
 男性はすこし戸惑ったように見えたが、ではありがたく、と言ってカップを手に取った。
「コーヒーの花って見たことあります?」
「えっ、あ、ないです」
 男性が口をつけるのを見届けるや否や、丹野はくるりと体の向きを変えて急に葵に問いかけた。突然自分のほうに飛んできた会話に動揺しつつも答えると、白い花なんですよ、となにかを思い出すような目をしながら言う。
「小さい花で、コーヒーの花が咲くと農園に雪が降ったみたいになるそうです。そして、たったの二日で散ってしまう」
「ずいぶん短いんですね……」
 そうなんですよ、とどこか満足げに丹野は頷いた。それからまた男性のほうに向き直る。
「いかがですか?」
「おいしいですよ」
「よかったです。今日あたり見えるかなと思って淹れたので」
「それはありがたい。ずいぶんお詳しいんですね」
「ええまあ。たったの二日ってロマンチックじゃありません?」
「雪ですか、それは見てみたいものだ」
「そうでしょう。この話持ちネタなんですけど、この間するのを忘れてしまったので。次いらしたときにでもと思っていて、とはいえいらっしゃる確証もなかったですし。まあ、ただの気まぐれですよ」
 ぽんぽんと飛び交う言葉の応酬を聞きながら、思わず葵はぽかんと口を開けつつ丹野を見つめた。もしかしてこの人が今日あのタイミングでくるのがわかってたの、でもそんなことって。わけがわからない。ちらりと隣の男性を盗み見る、今度は彼もまじまじと丹野を見つめていた。はたから見たら相当間抜けな顔をした二人を前に、丹野だけがにこにこと笑っている。

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