四
「嘘だろう……」
疲弊しきった赤井の声が、頼りなさげに部屋に響いた。どさりとベッドに倒れこむ。シングル、一泊、朝食つきで四千三百八十円。日本全国どこでだって同じクオリティのビジネスホテルは本当にありがたい存在だとしみじみと思う。値段は土地柄によってそれなりに上下するのは当然で、それで都心よりは三千円以上安いのだから本当にありがたい限りだ。やけくそになりつつ帰ってきたその足で宿泊予定を一週間に伸ばしてしまったが、後悔は一ミリたりともしていない。
まったく冗談じゃない、と思った。人違いですだと? ふざけるな、いったいどの口が言うんだ。だってきみはどこからどう見たって降谷零じゃないか! まっすぐ伸びた背筋も、日光できらきら輝く髪も、青い瞳も、いたずらっぽく笑ってみせる横顔も、親しみやすい話し方も、全部慣れ親しんだ彼のものだった。降谷が本気で消息を絶ったとすれば簡単には見つからないだろうことくらい当然のこととして覚悟はしていたが、まさかこんなことになるとは思わなかった。予想の斜め上後方といったところか。つい先刻白々しく繰り広げた会話をあらためて思い出して頭がおかしくなりそうになる。「ご友人はどんな方なんですか」? きみがそのご友人じゃないか、薄情なのは他でもないきみだろうとテーブルを叩いて立ち上がり叫びださなかった自分を盛大に誉めてやりたい。
と、どんなに思ったところで、現実は受け入れなければならない。
正直なところ、今日一日でよくわからなくなってしまったというのが本音だった。だってまさかこんな風になると思わなかったのだ。別人を演じているのならそれはそれでいい、降谷も赤井もそんなことはよくある世界で生きてきた人間だ。しかし、と赤井は思う。それなら変装なりなんなりするべきではないのか。他人のことに口出しはしない主義だが、姿を一切変えずに名前と中身だけをころころと変える降谷のやり口に対しては異論を唱えたい。だいたい、名前のすげ替えだけでトリプルフェイスを貫いたのだって、万事が最後まで上手くいったからいいものの本当に危険な綱渡りだったのだ。
変装もなにもせずに、赤井から隠れもせずに、名前だけは変えて、そのくせ赤井の視線と言葉はまっすぐ正面から受け止めた彼の真意が理解できない。あまつさえ、あんなのんきな世間話まで。言葉の端だけをつかまえた別段身のない会話をにこやかに交わすなんて、まるでずっと前から親交のある親しい友人とか、数年ぶりに会ったとしても当時の空気をすぐさま思い出せるかつての級友とか、そんなものになったような気分だった。友人か、と問われてそうだとすぐに頷くことはできなかったくせに。
そんなことよりも、と赤井はため息を吐きながらもぞもぞと体を動かした。まずは降谷がまったくの別人として生活している現状、そしてその理由について分析しなければ。うつぶせの状態で顔だけは横を向いているという体勢でいたから首の後ろが痛い。仰向けになり、ぼんやりと天井のかすかな汚れの数を数える。ひどく長いように感じた今日一日のことを思い出し呆然とするよりも、なんでもいいからとにかく頭を動かすほうがはるかに有意義だと思った。だからといって、その果てになにかの正解にたどり着くわけではないのだけれど。
当然のことながら、ドッペルゲンガーも本人としか思えないような他人の空似も赤井は信じてはいない。となれば考えられるのは降谷の演技、または記憶の混濁あるいは喪失、とでもいったところか。長い案件がようやく終わった後に心身のバランスを崩すことや記憶に混濁が見られることは別段珍しいことではない。かといって全員が例に漏れずそうなるわけでもないが、常人離れした生活を数年も続けていた彼の精神に対する負担は相当なものだっただろう。その点を考えてしまうから、本当に「降谷零」でなくなってしまったという可能性を切り捨てることができない。
とはいえ、常連らしき少女と仲良くなる程度にはこの地での暮らしは長いようだったから、演技説のほうが有力ではある。もし自分が何者かもあやふやな人間であったなら他人と積極的に交流することはしないだろうし、周囲からももっと遠巻きにされているはずだ。地域共同体が機能している町で、外からきた者がそれなりの人脈を築くことは難しい。その点をふまえれば、やはりあれは降谷零演じる別人だと考えるのが妥当だ、というのが赤井の出した結論だった。
では、なぜ?
もう別の仕事が始まっているのか、だがもしそうであれば降谷零失踪などという大仰なことになるはずがない。それともなにもかもが嫌になって行方を眩ませたのだろうか。しかしあの降谷がそんな無責任なことをするとはとても思えなかった。
お元気で、と言ってささやかに笑い声をあげた、あの夜最後に会話を交わした降谷と、今日会った男の姿が結びつかない。
「……、」
天井を見つめ、腕で顔を覆う。どさりと落ちた自分の腕が重い。赤井は幾度目かのため息を吐いた。時刻はまだ夕方だが、とてもなにか食べる気にはなれなかった。
結局浅い眠りを繰り返し、迎えた翌朝。カーテンを開ければ転がり込んでくる、朝の健全な日射しの眩しさに目を細めた。頭の中は眠る前から相も変わらず混沌としているくせに、いつもとなにも変わらない朝の光景がうらめしい。だがしかし、世界とは往々にしてそういうものである。だから、ろくにものを入れていない赤井の胃がかわいそうに悲鳴を上げているのも至極当然のことだった。
昨日の今日でまた彼に会う気はない。そう思いつつ赤井はただ、エレベーターのボタンの上、デジタル数字で表示される階数と自分の後頭部が写った防犯カメラの映像を見つめている。一階に到着してフロントの前を通り過ぎ、奥のスペースに進むと、スーツ姿の男性が十人弱程度ばらばらに席について朝食をとっているところであった。壁際には料理台がぎっしりと並んでいる。
ずいぶんと種類の多いそれらを見渡しつつ、今日の行動について考える。件の喫茶店で手渡されたレシートには彼と赤井自身の指紋しかついていないのでは、と思い至るが無駄なことだ。確実に降谷のものだというものを赤井は持っていない。指紋、DNA、比較対象がなければ科学捜査だって為す術はないのだ。それなのにそのレシートを捨てることのできない自分は一体なにをしたいのか。赤井はゆっくりと瞬きをして、頭のなかの余計なものを振り払う。
焼きあがったトーストと、まずくはないが特別おいしいわけでもないコーヒーを持って席に着き、赤井は周囲をさりげなく見渡した。非日常な状況に身を置いているはずなのにイレギュラーを抵抗なく受け入れていて、そのくせ現実味がまったくないという、そんな不思議な気分だ。
ああ、いつだったか降谷と並んで飲んだ缶コーヒーのぬるさが懐かしい。
思い返せば、もうずいぶんと長い間、降谷とは不思議な関係を続けている。山あり谷あり峠あり。紆余曲折を経すぎたあまり、はい、では仲直りしましょう、これからは友人としてよろしくやっていきましょう、そんなふうに区切りをつけることもできなかった。というよりも、気付いたときにはもう、あらたまってそういう手順を踏むのが面倒になってしまったのだ。
もちろん、すぐにその境地に達したわけではない。その域に至るまでにはかなり時間がかかった。ぎこちなさのようなものはいつだって二人の間に横たわっていた。氷が溶けるように少しずつわだかまりは小さくなっていき、ある日の降谷の言葉を最後に、それは完全に消失した。あの日がまあ、区切りといえば区切りだったのかもしれない。
どんよりと曇った重苦しい空から、今にも雪が降ってきそうな冬の日だった。
「知ってました」
左手で頬杖をついて右手人差し指でスチール缶の縁をなぞりながら、やけにすっきりとした顔で降谷は言った。雪降りそうだな、うそ、本当だ、どうしよう困る、帰りの道路結構混むかな……、そんな会話の延長線上で呟かれた言葉だったから赤井の時間は一瞬止まった。しかし、赤井を見つめるまっすぐな視線を受け止めれば、それがなにを指して発せられたものかを理解するのは容易だった。
「知ってました……、違うか。本当のことやっと知りました。あの場であったこと。あなたがなにを隠したか。いろいろと、すみません。ずっと誤解してた。……赤井のこと、なにも知らなかった」
人差し指はくるくるとスチール缶のうえで円を描いている。時計回りで三周、それから逆回りに四周半。また時計回りになって、半周。正解の反応を探して、赤井はただ降谷の指先を目で追いかけている。
降谷はふっと笑い声を漏らした。
「今更ってかんじですよね」
「いや、そうじゃない。すまない」
「はあ、またそうやって謝る……。なんでそうすぐ謝るんですかね」
アメリカ人は自分が本当に悪いときしか謝らないんじゃなかったんですか、と降谷は不満げに言ったが、実際のところ目は笑っていたから、なにを言えばいいのかわからず赤井はとりあえず口をつぐんだ。
「都合が悪くなると黙るの、よくないと思うけど」
まあいいや。そう言って降谷は缶コーヒーに口をつけた。椅子とテーブルの並ぶ無機質な会議室、窓の外の暗さと蛍光灯の明かり、廊下を歩いていく誰かの早足な足音を聞きながら、赤井も沈黙を埋めるようにコーヒーを飲み下す。ほう、と息をゆっくりと吐き出した降谷が背もたれに体重をかけると、ガラ、と椅子のキャスターが平和な音を立てつつすこし後ろに動いた。そうしている間にも、時計の短針はどんどんてっぺんに近づいていく。
逃げていただけかもしれない。意地になって、今更認められなくて、向き合って突き詰めるのが怖くて、でも、それにももう疲れちゃって。だって、立ち止まってはいられないじゃないですか。怒るとか悲しむとか、ずっとそうしてはいられないじゃないですか。それって、ものすごいエネルギーがいるじゃないですか。
静かに零れ落ちていく言葉を聞きながら、赤井はくるべき時がきてしまったと思っていた。エゴを貫き通せるはずがないのだ。赤井だって気づいていたし、知っていた。真実なんてどこにもない。
「時間の問題だってわかってたくせに」
「……ああ」
赤井には頷くことしかできない。当然だった。
八つ当たりも、疑心暗鬼も、ぎこちなかった空気も、わだかまりも、探り探りの気まずさも、もうそこには欠片もなかった。あったのは降谷の穏やかな横顔と、赤井の諦念と、とっくにぬるくなった缶コーヒーと今にも雪が降りだしそうな冬空だけである。
「赤井には謝りません。あなただって悪い……というか、そんな話は的外れか。まったく別の話ですよね」
赤井は左手のなかのスチール缶をテーブルに置いた。カン、と呑気な音が響く。降谷が赤井を見上げた。青い瞳が、ぱちぱちと数回瞬きをする。
「それでも、選んでそうしたことだったから」
かつての赤井なら、迷うことなく謝罪の言葉を口にしていただろう。それが中身のないがらんどうの言葉だとしても。しかしそうしなかったのは、まっすぐに言葉を尽くそうとしている降谷に自分も正面から向き合いたいと思ったからだった。続く言葉を探している赤井を、降谷は見つめながらじっと待っている。
「きみを侮ったり、愚弄するようなつもりはまったくなかった。そこは信じてほしい」
赤井がそう言うと、降谷は目を丸くしてじいっと赤井を見つめたあと、急にふいと俯いた。突然のことにぎょっとしながらも、赤井は表情のうかがえない降谷の横顔を見つめる。背中が、ふるふると小刻みに震えている。
「降谷くん?」
「……っはは、いや、すみません、そういえばあなたってそういうひとですよね」
あはは、と笑いながら降谷は目元にわずかに滲んだ涙をぬぐった。笑いすぎちゃった、と降谷が言ったのだから、きっとそういうことなのだろう。
はーあ、と声を出しつつ大きく伸びをする。その瞬間にガラ、とまたキャスターが動いて、降谷は後ろへと動いた。それを追いかけるように赤井も体の向きを変える。手持ち無沙汰の両手を組み合わせつつ。
「この期に及んでまた謝ってきたらボコボコに殴ってやろうと思ってたのに」
「やめてくれ。きみが言うと洒落にならん」
「殴りませんよ!」
そう言ってまたけらけらと笑う。
「もう、殴りませんよ」
ふう、と息を吐いた降谷はどこか憑き物の落ちたような顔をしている。
真実なんてどこにもない。でも、だから人は前を向ける。生きている限り前進しなければいけない。いつまでも留まってはいられない。それは残酷でもあり、しかし同時にきっと救いでもあるのだ。グレーのスーツ、ダブルカフスの袖口からすらりと伸びた手の男らしい指先、親指と人差し指と中指の三点に支えられている百九十グラム。ああ、降谷は自分が思っているよりも何倍も強い人間なんだなと思った。
「いつか、一緒に墓参りに行かせてくれ」
「ああ、いいですねそれ。あいつもきっと安心する」
降谷は笑った。結局その日は雪は降らず、帰り道は渋滞ひとつなかった。大切な人をうしなっても、わだかまりが溶けてなくなっても変わらず夜はきて朝がくるし、なにも食べなければ腹が減って無理が祟れば体調を崩すし、その口約束は、いまだ果たされないままである。
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