明日きみの話をしよう - 4/11

 自宅では気が散って課題ができないタイプの女子高生である葵が数ⅡBの問題集を携えいつものように学校帰りに制服姿でカンナのドアを引いたとき、最初に感じたのは店内の空気の妙な緊張感であった。いつもの穏やかでゆったりとした雰囲気とは程遠く、重い、というか、どこまでも張りつめていた。いつものように店内にはおしゃれな洋楽が流れているというのに、それがどこまでも場違いに聞こえて気まずい。ドアにつけられたベルの軽やかな音が空気の読めない一言のように響いて気まずい。ドアを開けたあと中途半端にそこで立ち止まってしまって、気まずい。
「いらっしゃい葵さん」
 葵のフリーズを解いたのは、このいつもと違う雰囲気のなか一人だけまったく変わらない丹野の声と笑顔だった。すうっと息を吸い込んでから、肩の力を抜きつつ吐き出す。混乱した頭の中をリセットするときの葵の癖だ。
「……、こんにちは」
 いつもと変わらないようにそう言い、なるべく足音を立てないようにローファーのかかとをわずかに浮かせながらお気に入りの席へと向かう。そのときにこっそりと先客の様子をうかがうのは忘れない。
 この時間帯は客入りは少なく、先客はカウンターに座っている男性一人だけだった。カウンター席の椅子はそれなりに高い。高校生女子の平均身長くらいしかない葵は座るときに苦労するくらいである。重い鞄をかけられてアンバランスになった椅子にスカートのプリーツをきれいに折ったまま座るのは難しいのだ。その高い椅子に悠然と座っていることから、男性がかなりの長身であるということは容易に見て取れた。おまけに組まれた足はスキニーパンツに包まれており、椅子の高さよりも明らかに余っている。
(足なっがい……ていうかほっそ、モデルさん?)
 さすがにじろじろと見ては失礼なのでささっと男性の後ろを通り過ぎ、ソファ席に鞄をおろしてからスカートのうしろを整えゆっくりと座った。水を持ってきてくれた丹野にぺこりと頭を下げ、カフェオレお願いしますと心なしかいつもよりも小さな声で言う。丹野はにっこりと笑って頷き、それからいつだってぴんとのびている背をわずかに屈めた。笑顔がすこし困ったようなものになる。
「ごめんね」
 まさか謝られるとは思わず、驚いて丹野の顔を見上げた。自分の目が丸くなっているだろうことくらい簡単にわかる。しかし丹野はそれ以上はなにも言わず、またいつものように背筋をしゃんと伸ばしてから悪戯っぽくウインクをし、さっさと彼の定位置に戻っていってしまった。
 さすが顔のきれいな人はウインクも様になるのだなあと感動をおぼえつつ、ひんやりと冷たい水に口をつける。カウンターに立つ丹野と、彼を見ている男性のきれいなかたちの後頭部を悟られない程度にじっと見つめた。すこし癖のある黒髪だ。汗に濡れたのか襟足の辺りだけ他のところよりもうねっているけれど、首筋にはもう汗はまったく浮いていない。どちらかといえば色白であろう肌の色と髪の黒のコントラストがきれいだなあと思った。きれいな人は男の人でも女の人でも、汗をかいても見苦しくならないからうらやましい。ついでにいえば、美人は強い風が吹いても髪がぐしゃぐしゃになって変になったりなんかしないという印象がある。
 丹野さんもお客の男の人もイケメンっていうよりは美人さんってかんじだなと思いつつ、葵は鞄の中から黄色い表紙の問題集とキャンパスのノート、赤い無地の透明な下敷きを取り出した。それからスマートフォンのロックを解除しラインを開く。ここにくるまでの間じゅうずっとぽこぽこと続いていた数十の会話の吹き出しを流し見てから簡単な返事を送って、通知をオフに。合唱曲なにがいいかな、ピアノは誰だろう、また山崎じゃない、去年も弾いてたし、エトセトラ、エトセトラ。動いているのは、クラスの全員が入っているわけではないがそれなりの人数が男女混合で入っているグループライン。正直言ってしまえばどうでもいいし、今話さないといけないようなことでもないし、明日会って話せばいいんじゃないの、そう思うけれど、結局当たり障りのない返事をしておくのが後々一番面倒にならない。ラインってすごく面倒だ。便利だけど煩わしい。たくさん話したい人たちだけでやってくれ、と思う。
 スマートフォンを鞄の奥にしまって、代わりに細いペンケースを取り出す。中学生のころは、みんなもそうだからという理由で大きい筆箱にやたらめったらたくさんのペンが入っていた。でもそんなにたくさん持っていたところで使うわけもないし、荷物は重くなるし、必要なものは必要なときに限って見つからないし。結局面倒になって嫌気がさして、余計なものすべて取り払って必要最小限のものだけにした。その結果が、いま。細いシャープペンシル二本と消しゴムとリフィル式の三色ボールペンと赤の蛍光ペンと透明な定規とカッター。どんなときだって身軽なほうがいいに決まっている。
 ぱらぱらと指で問題集のページをめくって指数対数の章を開く。やりかけの問題の続き、目当てのページに行きついたらぐっと真ん中あたりを手で押さえ、ペンケースを重石にしてノートの左ページに重ねた。シャープペンシルのノックを三回、七ミリ幅の行にさらさらと数式を書き連ねていく。
 ことり、と心地いい音を立ててテーブルの空いているところにカフェオレが置かれた。ありがとうございます、と葵が言うと、丹野はいつもとまったく同じ声のトーンでごゆっくりどうぞと言った。
 店の扉を開けたときに感じたような気まずさと妙な緊迫感は、いまやきれいさっぱりなくなっていた。聞きなれた洋楽といつもみたいな穏やかな空気が流れている。それは店主が不在の日でも変わらない。小説家志望のアルバイト、モデルみたいにスタイルのいい長身の男性客、店主のいとこの娘の……、つまり、親戚の中でも一言で言い表せる名前のない位置づけの、どこにでもいるような女子高生。店主が休みの小さな喫茶店で、なんとも不思議な取り合わせだな、と葵は並べられた三つの数の大小関係を求めながら考える。四とか五とか六とか、累乗根の大小を答えられたら将来何の役にたつの? 使い古された疑問がポップアップみたいに頭の中にぽんっと現れる。とりあえずシステマチックに計算ができるっていうのはいつかいろいろと役に立つんじゃないでしょうか。自分で自分の疑問に答えて雑念をさばきながら、法則と問題の指示とよくある解法のテンプレートに従って解答を導きだす。
 三人しかいない、不思議な空間の沈黙を破ったのは丹野だった。
「先ほど、レイって言ってましたけど、女性の方ですか?」
 やわらかく発せられたその声に思わず顔を上げたのは、葵だけではなかった。ふいとノートから上げられた葵の視線の先で、男性は組んだ腕をテーブルに乗せ、じいっと丹野を見つめていた。
「いえ、男性ですよ」
「そうですか」
 その人の声は、なんとなく想像していたよりもずっと穏やかだった。レイ、と葵は頭の中でその二文字を反芻する。いったい誰なんだろう。男の人。玲、怜、それとも澪だろうか。そんなことを考えながらカフェオレの上の部分、ほとんどがミルクの細かい泡に口をつける。
「なぜ女性だと?」
 丹野を目で追いつつ問いかけた男性は苦笑していて、その目元にはどこか寂しそうな雰囲気が滲んでいた。しかし丹野は一瞬ちらりと顔を上げただけで、すぐに自分の作業のほうに目線を戻してしまう。
「そうですねえ、あんまり切実な声だったので」
「……そんなにでしたか」
「ええ」
 そうか、と小さく呟いて、男性はテーブルに置いていた両肘を離し、前に傾いていた背を垂直に戻した。丹野の視線が自分を向きそうな気配を感じて、葵は慌てて意識を手元のノートに戻す。対数は一行の中に書くには狭いから二行をまたいで余白を贅沢に使う。ページを上から下にどんどん埋めていく証明問題。真数は必ず零より大きいので、よってこれらの条件を満たす解は存在しない。証明終わり。
「後ろ姿が、あなたにそっくりだったから」
 その、声が。和やかに流れるジャズにまぎれて呟かれたその声が、あんまり悲しそうで、寂しそうで、それなのに妙に明るくて、どこか諦めているようで、苦笑まじりだったけれどでも確かに笑っていたものだから、葵はただただ固まってしまって、顔を上げることすらできなかった。この人は誰かを探していて、その相手がたぶんレイさんで、そのレイさんは丹野さんに後ろ姿がそっくりでそれで間違えて声をかけてしまったとかそんなところだろうか。レイさんとこの人はどんな関係なんだろう。大切な人なんだろうな。それがありありと思い浮かぶような、そんな声だった。
 イントロの気持ちよく伸びるトランペット、ピアノとドラムに乗ったのびのびとした歌声。流れている曲は葵が特に好きな曲だったけれど、今このタイミングでこの曲はあんまりだと思った。ゆったりとしてどこか軽快なメロディーにのせて、どこか諦めじみた未練を淡々と歌っている。
 葵は、ほとんど泣きそうだった。鼻がつんと痛んだのでそれをごまかすようにカフェオレに手を伸ばし、くるくるとカップを揺らして、ミルクとまざってだんだん茶色の割合が増えていく表面を見つめていた。人の、一言では言い表せないような感情が滲みだした声を実際に会話の中で聞いたことなんて初めてだった。
「人探しですか?」
「まあ、そんなところです」
 丹野の声がいつもよりも穏やかな気がして、それがまた葵を揺さぶる。悲しいとか切ないとか感動したとか、そんな単調な言葉では表せるような気持ちではない。今まで十六年と半年と数か月しか生きていない自分の人生なんて、どれだけ狭いところで生きているんだろうと思った。
「急に連絡が取れなくなってしまったんですよ」
「そうですか……。ご友人ですか」
「さあ……、どうなんでしょう。仕事仲間というか、腐れ縁というか。付き合いはかなり長かったが……、果たして友人だったのかどうか」
「そうなんですか? 自分を探してくれる相手に対して、ずいぶん薄情な方なんですね」
 冗談めかした丹野の言葉に、小さくではあったが、やっと男性は少しだけ笑った。
「そのご友人はどんな方なんですか?」
「そうだな……、自分の芯がしっかりある人、というのが一番かな。でも思い込みも激しいほうでした。あとは気まぐれでこちらをからかったり。それから、猫顔ですね」
「猫顔」
 猫顔なんだ、と葵も心の中で呟いた。ちらと目線をやると、丹野もなるほど……という、わかるようなわからないような顔をしていて、それがなんだかおかしかった。ついつい緩みそうになる口元を隠すようにカップに口をつける。と、その瞬間。
「あなたも猫顔ですね」
「っ……!」
 男性がそんなことを言うので、思わず葵は口の中にあったカフェオレを飲み下すのを失敗した。ごく少量だったにもかかわらず。やばい変なところに入った、どうしよう、そう思えば思うほど気管はきりきりと痛み思わず苦しげな咳が出る。慌ててポケットの中のタオルで口元を押さえるけれど、店内には三人しかいないのだからやり過ごせるはずがない。おそるおそる顔を上げると、丹野は心配そうに、男性はどこか楽しげな表情で葵を見ていた。
「大丈夫?」
「すみません!」
 反射で勢いよく謝ると丹野はきょとんと目を丸くし、振り返っていた男性は対照的にふっと小さく吹き出した。
「別に謝らなくていいのに」
「いえ、あの、すみませんつい聞いちゃってて、あの」
 謝りながら頬が熱くなっていくのが自分でもありありとわかる。恥ずかしい、どうしようどうしようと思うほどに顔の温度は上昇していく。盗み聞きなんかしてたからだ自業自得だ、そう思うとどこまでもいたたまれない。
 しかし、この窮地を招いたのもその人ながら、救いの手を差し伸べたのも男性だった。動揺のさなかに合った目はきれいな深い緑色で、扉の窓から差し込む西日が当たっているからか、右目だけわずかに明るい色に見えた。
「長毛種ってかんじしませんか?」
 葵に向けられたその言葉が、丹野のことを指していると瞬時にわかってしまったものだから、つい葵はああ、と感嘆の声を上げてしまった。しかし慌てて口をつぐむ。丹野は不思議そうに首をかしげて、そうかな? と葵に問いかけた。自分たちの会話をこっそり聞いていた子供に対してつくづく優しい大人たちである。さりげなく会話の軌道を修正してくれた二人に内心ものすごく感謝しつつ、ありがたく葵はその流れに乗ることにした。
「確かに、ペルシャとかってかんじ、わかります」
「葵さんから見てもそうなんだ……」
「あ、でも、個人的にはシャムっていうほうがしっくりきます」
「ああ、確かに」
「シャム……」
 葵の言葉を受けて男性は楽しげに笑い、丹野は何とも言い難いような表情で顔をしかめた。
「ちなみにどのあたりが」
「髪とか……雰囲気が……?」
「あと、シャムはみんな目が青いですから」
「あ、はい、そこも」
 男性の言葉に葵が頷くと、丹野の顔がより一層険しいものになった。はあ、と重苦しいため息が吐き出される。
「一応、三十二なんですけど」
「でも、猫顔とか犬顔とかって、年に関係なくそういうのありませんか?」
「うーん、確かに。それもそうか」
 でもやっぱり納得いかないなあ、と明るくぼやきながら丹野はカウンターから奥のほうへ消えていった。ついさっきまで葵のほうに体を向けていた男性は、今はもうカウンターのほうに向きなおってその背中を見送っている。
 すぐに奥から戻ってきた丹野の手には、チーズケーキの乗った皿。クッキーを砕いてタルトのようになっていて、カンナのメニューのなかでも葵が特に好きなもののひとつである。てっきり男性の注文だと思っていたそれは、しかし静かに葵の前に置かれた。チーズケーキを頼むとはお目が高い、それすっごくおいしいですよなどと思っていたところに注文していないケーキが出され、葵の頭上でははてなマークが飛び交っている。
「え? あの、これ」
 慌てて顔を見上げると丹野が恭しく頭を下げる。どこか芝居がかったそんな仕草も様になる、いやそうじゃなくて、と葵の頭上のはてなマークにびっくりマークがいくつも追加された。わけがわからない。
「むせさせてしまったお詫びです」
「いや、そんな」
「葵さんこれ好きでしょう」
 そう言われてしまっては思わず言葉に詰まる。もとより常連客の多い店ではあるが島田も身内ということでなにかとサービスしてくれるし、よく入り浸っている以上あまりにいろいろしてもらうのは申し訳ない。でもここで頑なにお断りしても、と思い直し、葵はありがたくいただくことにした。ちゃんとあとで島田さんにも伝えておかなきゃと思いつつ、大好きなチーズケーキに対する嬉しさを前面に押し出した笑顔を浮かべる。
「じゃあ、お言葉に甘えていただきます。丹野さん、いつもすみません、ありがとうございます。チーズケーキ大好きだから嬉しい」
「あはは、それはよかった」
 そう言って笑った丹野の、向こう側で。カウンター席の男性の横顔が悲しげに伏せられたのを、誰も見てはいない。

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