二
赤井が日本にきてから、もう一週間が経っていた。取得した休暇は二週間、ちょうど今日が折り返し地点だ。一年経っても行方が掴めないということはつまり、めぼしい場所は既に捜索されたあとであり、それでもなお見つかっていないということを意味している。以前仕事の関係で話す機会のあった公安の人間にそれとなく聞いてみたこともあるが、なんの情報も得られなかった。となれば再度聞いてみたところで無駄足になるだろう。そのため赤井は日本で暮らしている誰にも連絡を取ることなく、一人で降谷探しをしているのだった。
だが、降谷探しといってみたところで行き先の前に彼自身についての情報もほとんどないに等しい。改めて考えてみれば赤井は降谷のことをほとんど知らないのだ。会話の中でぽろりとこぼした昔の話くらいしか知らない。それで以前彼の口から聞いたことのある地名をたどって彼を探してみてはいるものの、結局のところただの日本横断弾丸ツアーで終わる可能性が非常に濃厚である。
東京駅から新幹線に乗った。後ろに流れていく風景を見つめながら昔のことを思い出した。ゆっくりと氷がとけていくように軟化していった態度と、徐々にこわばることなく向けられるようになった笑顔のことを考えていた。まず最初に仙台に行った。大学の卒業旅行で行ったのだといつか聞いたことがあったからだ。彼おすすめの、全国展開もされているという店で牛タンを食べた。とろろごはんがうまいんですよ、と言っていたのを思い出した。同じポーズをして写真を撮ったという伊達政宗像も見た。これだけの数の人間が暮らしている街で、あまつさえ一年もぱったりと行方をくらませている彼を偶然見つけられるなんてありえない。頭ではわかっているのに、道行く人のなかにその姿を探すのをやめられなかった。ウイスキーの蒸留所にも行った。降谷の居場所にはどう考えても関係ないのに、行かずにはいられなかった。潜入捜査官三人でなんとなくお互いの腹を探り合いつつ動いていたころはもうはるか遠い昔だった。かつての彼もこんな気分だったのだろうかと考えたりもした。遠目に見た磐梯山の稜線がうつくしかった。緑と青のコントラストが眩しかった。適当に入った店でもどこも食事が本当においしくて、一人でなければもっといいだろうにと思った。それから金沢へ向かった。彼がいつか行きたいと話していた金沢二十一世紀美術館にも行った。定規を空にかざして雲をはかろうとしている屋根の上の銅像の写真を撮った。もしここにきたら彼はやっぱり同じポーズで写真を撮るのかなと思った。有名な、スイミング・プールの下にも入った。水面の下から見上げた空の鮮やかな青は瞳の色に似ていた。それに気づいたとき、ああ、降谷くんに会いたいと思った。
いなくなってしまった降谷に会いたかった。
心配しているし、もちろんなぜこんなことをと理由を聞きたいとは思う。でもそれだけではない。たったそれだけの理由で、二週間の休暇と小さな旅行鞄を手に海を渡ったわけではなかった。胸がざわついていた理由がわかった。これのせいだ。降谷に会いたいというその一心がきっと赤井を駆り立てた。たったそれだけのシンプルな理由だった。そんなことにも気づかなかったことと、それなのにこうしてあてもなく日本をふらふらとしていることがなんだかおかしかった。降谷にこの旅の話をして、ばかじゃないですかと呆れた声で言われたかった。きっとこの二週間の間に降谷が見つかることはないだろう。それでもいい、どんなに時間がかかってもいつか必ずまた彼を見つけ出そうと思った。今度は自分の番だと。
そう思うのに、やはりどこにも降谷はいない。
じりじりと容赦なく脳天を焼く日射しが恨めしい。見上げれば太陽が熱を撒き散らしている。なんとも能天気な眩しさである。電車を降りると、日光を遮るものがなに一つないホームに放り出された。途中、車窓から見えた海は駅からはもう見えないようだったが、そのかわり木々の濃い緑が目に染みる。
この駅で降りたのはただの気まぐれだった。
本当はこのまま電車を乗り継ぎ琵琶湖のほうに向かうつもりだったが、風に吹かれながらきらきらと日の光を反射する海を眺めているうちに、ふと途中下車の四文字が赤井の脳裏をよぎった。ちょうど昼頃だし、昼食はどこか適当な店に入るのもいい。それで赤井は電車を降りたのだった。もとより計画もなにもない旅なのだし、気の向くままにふらふらとどこかへ行くというのは赤井が思っていたよりも楽しかった。
改札を抜け、街路樹の陰を伝ってゆったりとした歩調で歩く。さすがにアスファルトから熱気立ち上るひなたを歩く元気はなかった。とはいえ湿気は少なく、日陰で風が吹けばそれなりに気持ちがいい。等間隔に植えられた銀杏の根本、アスファルトでない土の部分にはみっしりと雑草が生えている。土の色など見えやしない。背の高いものは赤井の腰のあたりまであって、そのあまりのたくましさに思わずふっと笑ってしまった。
ラーメン屋と定食屋が並んでいたが、なんとなくそういう気分ではなかったので通りすぎた。全国チェーンの弁当屋、コンビニ、ファーストフード、ここまできて入るところではないなと汗を拭いながら歩を進め、交差点の赤信号で立ち止まってどちらに行こうかはたと考える。数秒ののち、駅回りから離れて適当に歩き回ってみることにした。こういうときに一人は気楽だと思う。よさそうなところがあれば入ればいいし、なければ別に食べずに済ませたっていい。
ゆったりとした歩調で歩く。まだらになった木漏れ日と木陰を抜けた瞬間飛び込んでくる明るさで目がちかちかした。のどかというほかない、真昼ののんびりとした時間と空気が辺り一帯に流れている。平和だなあ、と思った。ここで暮らす人ひとりひとりに別々の暮らしがあり人生があるのだと考えると不思議な気分になる。のんびりとウォーキングをしている帽子をかぶった男性、買い物袋を肩にかけ日傘をさしている女性、逆側の歩道を歩いていく高校生くらいの少女たち。いつだったか降谷が言っていた言葉を思い出す。日本はいいところですよ。ごはんはおいしいし、電車はすぐくるし、駅のトイレも最近はきれいだし。夏はえげつないくらい暑いし雪降ると勘弁してくれって思うけど、季節が変わるのも悪くない。そう言った、あのときの横顔がハレーションを起こしたまぶたの裏によみがえる。目の奥が痛むのは夏の日射しのせいだ。きっと、そうに違いない。
もうどこか店に入る気はすっかりなくなってしまって、そのまましばらく歩いていると川沿いに出た。ここにくるまでの電車から海が見えたことから考えても随分と下流のほうらしく、広い川幅をゆったりとゆっくりと流れている。右手にもう一本、さらに奥にもう一本橋が見える。その向こうにはたいして高くないビルやマンション、赤と白の電波塔。何隻か小さいボートが泊められている。よくあるような、いわゆるテンプレートのような川沿いの風景だ。穏やかな水面がきらきらと日光を反射している。ゆるやかな風に吹かれながら歩いているうちに、そこまで長くもない橋を渡りきってしまった。川と街並み、ただそれだけなのに国が違うだけでここまで違った印象を抱くのか、とそんなことを考えながら立ち止まり、風で乱れた前髪を直す。
その瞬間、ふと目の前の光景に既視感を覚えた。どこかで見たことがあるような気がする。どこかで……。そして優秀な赤井の脳は瞬時にその答えを導き出した。すぐさま右手にある近いほうの橋に向かって走る。普段なら絶対に息が乱れないような距離でしかないのに、赤井の呼吸はせわしなくなり、心臓はせっかちに脈打っていた。
「気まぐれですよ」
これは? と降谷から届いたポストカードをひらひらさせながら赤井が問うたとき、降谷はさらっとそう答えた。二年前、梅雨明けがすぐそこまできていた、ありふれた夏の日の午後のことだった。文字の一切書かれていない裏面、きれいな字で書かれた宛名。差出人は当然のように書かれていなかったけれど、こんなことを自分に対してするのは降谷くらいしかいないと赤井にはわかっていた。だから、次に会ったときに降谷に聞こうと思っていたのだ。
降谷もそんな赤井の思考回路をわかっていたのか、なにが聞きたいんですかとかどうして僕からだと思ったんですかとか、そういうようなことは一切言わなかった。そのかわりに赤井の手からポストカードを取り上げ、写真を見て満足そうに言ったのだ。
「この写真、僕が撮ったんですよね。……やっぱりよく撮れてる。よかった」
その、世界に一枚しかないポストカードの写真と寸分たがわず同じ光景が。いま、赤井の目の前に広がっている。
いまこの瞬間に降谷がわざわざ作ったあのハガキが手元にないことが悔やまれた。前にかざして見比べたかった。手元になくても、ここがその場所であることを確信していることに変わりはないのだが。
「気まぐれですよ」
さらっとした、でもどこか茶目っ気にあふれた声だった。だから本当にただの気まぐれだなんてことはないはずだ。たったそれだけで、降谷がこんなことを自分にするわけはないのだから。
この街に降谷零はいる。赤井はそう確信していた。理由なんてあってないようなものではあったが、直感的に、そう思ったのだ。
そこからの行動は速かった。すぐさま駅前のビジネスホテルをホームページから一週間おさえ、一旦荷物を置こうときた道を戻り始めた。なんとしてもこの一週間で見つけてやるぞ待ってろよ、とずんずんと速足で歩く。数日前のどんなに時間がかかってもなどというしおらしい気持ちはきれいさっぱり消えてなくなってしまった。それからなにか腹に入れなくてはならない。運が向いてきている、と赤井は思った。うまくいくときというのはそれまでが嘘のようにとんとん拍子で事が運んでいくものだ。確実に運が向いてきている。うまくいけば今日中に降谷を見つけられるかもしれない。そう思った矢先のことだった。
からんからん、と軽やかな音が聞こえて赤井はあたりを見回した。手を振りながら喫茶店らしい店から出てきた老夫婦が目に入る。店は道路の逆側にあり、赤井の側から見るとちょうど正面に銀杏があるために気づかなかったらしかった。店のある逆側にも渡ってみるかと数歩先にある横断歩道のほうへ足を踏み出した、その瞬間だった。ありがとうございました、という声が聞こえて、赤井は勢いよく振り返る。
それは、まるでスローモーションのようだった。
赤井が振り返る。男性がドアから手を離す。からん。からん。閉まりかけたドアが再び開く。隙間からするりと店員が出てくる。ざあっと風が吹く。枝からちぎれた葉が目の前をはらはらと落ちる。指先に電流が走る。老夫婦が信号に向かって歩いていく。その後ろ姿をやわらかいまなざしで見つめている。両手の指を、ゆるく組み合わせて。
車の影はない。左手も右手もどちらも赤信号。なにか思うより先に足が動き出していた。一年前、最後に会ったときの横顔が、電波越しに聞いた声が、鮮やかによみがえる。こんなにも覚えている。大股で数歩、道路を突っ切る。横断歩道を渡って角を曲がった老夫婦が見えなくなる。視線を正面からドアに戻す。ドアに右手をかける。ゆっくりと引く。からん。店のなかに戻ってしまう。からん。まだらになった日の光で、髪が、きらきらと輝いている。
「零!」
――そんなふうに呼んだことなんて、一度だってなかったくせに。バーボン、安室くん、降谷くん。いろいろな名前を呼んできたが、初めて口にしたその二音はいままで呼んでいたどれよりも呼びやすかった。確かにとっさに口に出すには降谷くんよりも零のほうが言いやすい、なんせ文字数が五分の二だ、たったの四十パーセント。そうはいってもやはり不思議な気分だ。音になった自分の声を聞きながらそんなとりとめのないことを思う。肩に手をかける。振り返って赤井を見た青い瞳が揺れ、ぱちり、ぱちりと瞬きをした。やっぱり空の色に似ている。鮮やかなブルー。空と夏の水の色。そう思う。
道路で二人、大の大人が間抜けに顔を見合わせていた。
いったい一年もずっとなにしてたんだ、探したぞ、なんでこんなことを、もう見つからないかと思った、あの日のハガキがヒントなんてわかりにくいにもほどがある、俺との電話を最後にいなくなるなんて心臓に悪いことをしないでくれ、帰ろう、いや帰らなくてもいいからまずは事情を知るみんなに連絡してくれ、きっと安心する、元気そうでよかった、ほんとうに、よかった。言いたいことはやまほどあった。でも、そんなことよりも。
「会いたかった……」
赤井はもうほとんど、目の前に立つ彼を抱き締めんばかりの勢いだった。それはただ勢いだけの話で、実際はそんなことできるはずもなく、肩においた手は所在なさげにずるりと落ちて、二人の間で行き場を失っている。
ぱちり、ぱちりともう一度、大きな丸い瞳が瞬きをした。それから困ったように笑い眉を下げる。なにか言ってほしかった。一度目線を下に落とし、それから赤井を見つめてゆっくりと口を開く。
「あの、すみません、人違いです……」
レイ? と、こてんと首をかしげながら、よく知った声が戸惑いながら呟いた。
それは、まるでスローモーションのようだった。いや、時間が止まったようだと言ったほうがいいかもしれない。音すべてが遠退いていく。法定速度で二人の横を通り過ぎていくトラックのエンジン音が、薄い膜を隔てたように、平和そのものの街並みに反響している。ただひとつだけ、妙にクリアに耳元で聞こえたざあっという音は血の気の引く音だろうか。頭のなかではあの夜の降谷の声がしている。そういうの、どうかと思う。こっちの台詞だ、と思った。思うだけで口から出てはこないけれど。ばたんと音をたててドアが閉まる。風が吹いて、彼の前髪を照らすまだらの木漏れ日が揺れている。
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