一
降谷零が失踪した。煙のように、いっさいの手掛かりを残さずに、ぱったりと。
それを赤井秀一が知ったのは、失踪から実に三ヶ月後のことだった。事件は往々にして解決後の諸々のほうが何倍も時間がかかる。長い戦いのあとのそれらがすべて終わったとき赤井は三十六になっていた。降谷は三十一になり、そして赤井と電話をした日の翌日、姿を消した。そしてその三ヶ月後、大多数を巻き込んだ伝言ゲームの末に降谷零失踪の知らせはようやっと赤井の元へとたどり着いたのである。
当初の赤井はといえば、彼のことだいつかまたふらっと姿を現すだろうとどこか楽観的に考えていた。失踪、失踪と言うが、それが事件的なものだとはどうしても思えなかったというのもある。しかし半年が経ち、九ヶ月が経ち、そしてもうすぐ一年になる、それなのに依然として降谷が行方不明であるという段になってやっと赤井は焦り始めた。このままもう二度と誰にも会うつもりはないのではないか? それでもなお、海の向こうの俺がどうこうできる問題でもあるまいと自分を納得させようとしていた赤井だったが、どうやら最後に会話をしたのは自分との電話らしいと聞いてしまえばさすがに血の気も引く。もしや自分でも気づかぬうちに地雷を盛大に踏み抜いたか……。そう考えたら電気が走ったように指先がわずかに震えた。なにせ前科持ちだ。自分の言動がことあるごとに降谷の感情を荒立てているという自覚はずっと前からあった。
一年前にはもう当分くることはないと思っていたはずの成田空港で、赤井は深いため息を吐く。
いざアメリカに帰るとなったとき、搭乗口に立つ赤井の胸中を占めていたのはどこまでも現実味のない「もう日本でしなければいけないことはない」という事実と、それからわずかばかりの空しさであった。事後処理も同じくらい大切であることくらい重々承知の上だが、向き不向きはどうしたって存在する。どちらかといえば危機的状況を切り抜けるときの切迫感のほうが赤井には向いていたし、それはもう今更致し方のないことだった。慣れない仕事を終えたあとに得られた達成感はおよそ赤井にとって達成感といえるものとは程遠く、ただ漠然と、ああもう終わったのだなと客観的に感じた程度だった。人に言えばあれだけ身を削っておきながらそんなものかと驚かれるのだろうが、身も時間も人生も削ったからこそ、終わりをここまで呆気なく思ったのかもしれない。実感としてではなく、客観的事実として捉えてしまった。
見送りになんて行きませんよ。僕はこのあとも当分休みなしです。
おそらくもう顔を合わせるのは最後だろうという日、降谷はいつも通りの、しかし以前に比べればどこか柔らかさの滲む声で言った。それはそうだろう、と赤井は言った。まるで降谷の言葉はおはようとかさようならとか、そういう返しの決まりきった言葉と同じ類いのものであるかのような赤井の態度に、それでも降谷は言葉を重ねることはなかった。赤井はそういうやつだよな、という、さびしげなようにもおかしそうにも聞こえた呟きの真意を尋ねられるほど、二人の距離は近くはなかったのだ。
赤井からしてみれば、そんなものは最初から全く想定していないものだった。彼には彼の仕事があるのだから当たり前だ。むしろ、降谷の口から「見送り」なんて四文字が出てきたことに感動したくらいだったし、そんな言葉が出てくる程度には二人の間を流れる空気が穏便になったということを実感した。それは確かに赤井にとっては喜ばしいことだった。もう何年も前から赤井は降谷のことを人として好ましく思っていた、過去はさておき、いつだって二人は生き方という点において同志だった。
自分のことよりも、自分のなすべきことに向かってなりふり構わずに進んできた。傷だらけになりながら。
だからこそ、自分がアメリカに帰ればそれを最後に、この先降谷と会うこともきっとないのだろうなと思ったし、こういうさようならの仕方が自分たちらしいような気がした。
その日は、眠り、朝になったら赤井はアメリカに向かって飛ぶという、日本で過ごす最後の夜だった。ベッドに寝転び天井を見つめてゆっくりと息を吐く。多くのものをうしない、人生の何分の一かを犠牲にして、それでも辛く苦しいことしかなかったのかと問われれば決してそうではなかった。どんなことがあっても人間腹は減るし眠くもなる。楽しいことや思わず笑ってしまうようなこともあった。目を閉じ完璧な腹式呼吸を繰り返しながら、これまでのことを思い出しつつそんなことをつらつらと考える。
とりとめのない赤井の思考を止めたのは、控えめに響いたコール音だった。むくりと起き上がりながらベッドサイドに手を伸ばし、表示された数字の羅列をぼんやりと見つめる。眠っていたわけでもないのに夢を見ているようだった。夢の中にいるようだと言ったほうが正確かもしれない。降谷からの着信を知らせるスマートフォン左上の小さなライトの点滅を、赤井はどこか遠い世界のもののように見つめていた。
受話器のマーク、緑の丸を右にスワイプして、携帯を右耳に押し当てる。かかってくるはずのない電話になぜだか妙に緊張して、息を詰めた。
「……」
「……あの、」
赤井ですか、と。そう尋ねたいつもよりもどこか険のない声は、当然のことながら降谷のものだった。そんな当たり前の事実が、これ以上ない衝撃と共に赤井の目の前に迫ってくる。
「……ああ」
「こんばんは」
「こんばんは」
なにを呑気に挨拶なんてしているんだろう、と思った。なあとかおいとか、そういうぞんざいな言葉で始まる会話くらいしか、したことがなかったくせに。
「……」
「……」
「……」
「……なんか、しゃべれよ」
沈黙の末に発せられた降谷らしい言葉から、眉をひそめて不満げに呟いているのだろう表情が思い浮かぶ。自分でも驚いたことに降谷の表情が想像できるというそのことについて、赤井はばかみたいに安心したのだった。だって、どんな顔をしてどんな心境の変化で、降谷がこの電話をかけたのか全くわからない。
「……どうしたんだ」
「っはは、やっぱりそうくるか」
耳をくすぐる笑い声に思わず眉をひそめる。それは電話の向こう側の降谷にも伝わったらしく、いや悪い、と謝られた。
「赤井はなんて言うのかなって考えてたんですよ。きっとどうしたとかなにかあったかとか言うんだろうなって思ってたから、その通りだったなと」
「……、そうか」
どこか楽しげな声の調子から察するに本当に他意はないのだろう。ふう、と控えめに息を吐く音が聞こえる。それからギシ、となにかが軋む音がしたから、椅子にもたれかかったのかもしれない。
「で、なにかあったのか?」
「さあ、どうでしょう」
「さあって」
またきみはそうやって煙に巻くようなことを……と思いつつ言い募るが、いや、と同じ声のトーンで遮られた。
「別にはぐらかしてるとかじゃないです。本当に。ただ、なんとなく」
そう言われてしまったらもう黙るしかない。なんと言えばいいかわからなかった。特に理由もなく降谷から電話がかかってくるという、そんなありえるはずのない状況に、赤井は少しだけ、けれど確かに混乱していた。
「きみからかかってくるなんて思わなかった」
やっとのことで発した言葉はどこまでもつまらない。けれど降谷はそれを笑い飛ばしたりすることはなく、丁寧に受け止め、それから「そうでしょうね」と小さく呟いた。
「かけるつもりはなかったんですよ」
「……」
「なんでかな」
「降谷くん自身にわからないことが、俺にわかるはずないだろう」
こてん、と首を傾げながら言っているとしか思えないような声で形作られた疑問。わかるわけがないと思いながら答えたら、困惑が色濃く声に出てしまった。ああたぶんいま返答を間違えた、と赤井は自分の額を押さえる。降谷の機嫌が急降下する気配が、電話の向こうからびしびしと伝わってくる。
「そういうの、どうかと思う」
不機嫌な声と短いため息、それから呆れたような声。まあいいですけど。
「理由があったほうがいいですか?」
「え? ああ」
「そうですか。じゃあ、見送りの代わりだと思ってくれればいいです。どうしようか迷ったんですけど、けどまあ迷うってことは後悔が残るかなって思ったので。ってところですかね? あえて理由をつけるとすれば」
すらすらと流れるように述べられた言葉にはいちぶの隙もなく、赤井の手元に残された返事のカードは「ありがとう」ただ一枚しかない。真摯に発せられたありがとうに対して降谷は、僕がしたくてしたことだったので、と言ったあと、少し笑った。それにまた赤井は胸が詰まるほどの安堵を感じた。
「……それでは」
ちらりと時計に目をやる。もう遅い。長電話をできる時間ではないだろう。
「明日も仕事なんだったな」
「ええ」
降谷は言葉につまったように口をつぐみ、気を付けて、と言った。そして付け足すように、お元気で、と。
「降谷くんも」
「はい」
「無茶するなよ」
「……はい」
電話ありがとう、と赤井が言うと降谷はやっぱりかけてよかった、と嬉しそうに言った。
「……じゃあ、切りますね」
「おやすみ」
「おやすみなさい。……」
なにか言いかけた気配を感じて耳をすます。ためらったような沈黙がまばたきするぶんの時間だけ流れて、降谷の息を吐く音がノイズとなって赤井のもとに届く。
「……お元気で」
迷った末にさっきと同じ言葉を選ぶのがなんだかおかしかった。目を閉じ、元気で、とできるだけやわらかい声になるようにと思いながら言う。電話の向こうの降谷に届くといい。
ささやかな笑い声と、じゃあ、のあとに電話はぷつりと切れた。画面を見ると通話時間はたったの五分十三秒だった。体感ではもっと長く話をしていたような気がしていたものだから、赤井はその数字をしばらく見つめていた。再びスマートフォンを充電器に繋ぎベッドサイドへと置く。気分が良かった。見送りの代わりだと言って降谷が電話をかけてきてくれたことが嬉しかった。
そして、あの会話を最後に。つまり、赤井が曖昧でぼんやりとした感傷とともに海を渡ったのと日を同じくして、降谷零はぱったりと消息を絶ってしまったのである。一切の痕跡も手掛かりも残さずに。
わけがわからなかった。一年経ったいまでもやっぱりわからない。自分の言動が引き金になったという可能性についても嫌というほど考えたが、赤井としてはあの夜の電話が原因だとはとても思えなかった。多少彼の機嫌を損ねる返しもしたが――でも、最後降谷は笑っていたし、思い当たる節もない。そのくせこうして日本まできてしまった理由を、困ったことに自分自身つかみあぐねていた。焦りと心配、それからなぜという疑問。それですべてだと言ってしまえばそうなのだが、それにしては妙に胸がざわつくというか。
むわりとアスファルトから立ちのぼるような熱気と湿気。それらを孕んだ日本の夏特有の空気を吸い込み、赤井はもう一度ため息を吐いた。とにもかくにも、降谷零を探し出さなければならない。
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