明日きみの話をしよう - 10/11

 窓にうつるスーツ姿の自分を見て、丹野まどかはふうと息を吐き、空を見上げた。久しぶりに見る東京の空だ。高層ビルが多いからか、やはり空がせまいように感じる。空港までの道中、赤井が本当に広いんだなと呟いた、あの空とはやはり似ても似つかない。
 赤井が帰っていった二か月後、カンナのアルバイトをやめた。そろそろ東京に戻れと連絡があったからだ。店長の島田と常連はかなり寂しがっているようだったが、予想とは裏腹に葵はそこまで驚かなくて、それが意外だった。
「いつかまたどっか行くのかなって、そんな気はしてたんです。なんとなくだけど」
 それから葵は、ちょいちょいとジェスチャーで丹野を呼び、小さく耳打ちをした。
「レイって、ペンネーム? あの人とはそのあとちゃんと会えたんですか」
 体を離して、冬服になりブレザーを着るようになった彼女はにっこりと口角を上げた。まさかこの子にそんなことを言われるとは思わなくてつい声をあげて笑う。葵はこてんと首をかしげてから、図星ですか? と笑ったのだった。
 久しぶりのネクタイなのに、結ぶとき手はいっさいまごつかなかったし、首周りの感覚はむしろ懐かしい。やはりこちらのほうが性に合っているな。そう思う。平和で平穏でありふれた街で過ごすのは楽しかった。国のために仕事をする、そういう人生を選んだけれど、その漠然とした「国」の後ろには普通に暮らして普通に生きていく人たちがいる。やっぱりこの国が好きだなあと思った。それが再確認できてよかったと思う。
 そして、もう二度と会うことはないと思った赤井と、思いがけずもう一度会うことができた。まるでボーナストラックのような数日間だった。もし仮に今後、赤井とすれ違うことがあったとしても、きっと自分は振り返らないし、赤井だって見向きもしないだろう。
 もはや、降谷零はどこにもいない。
 でも、なにも失ったわけではなかった。むしろ手に入れたもののほうが多かったといってもいい。それは自由であり、これからを生きる原動力でもある。彼を彼たらしめる核の部分は、なにも損なわない。なにものにも損なわれない。
 たぶん、と彼は背筋を伸ばして歩きながら考える。赤井の言う通りなのだ。やったことはいつの間にか消えていき、自分の成果が大々的になる日は一生こない。これからだって散々なことばかりで、どんなにがんばったところでひどい最期が待っているのかもしれない。本名を捨てるなんて、それだけですでに十分ひどい話だ。それでもいま、こうしてまっすぐに立っている。それだけでいい。なにも変わらない。
 ここで生きていく。こうして、生きていく。

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