六限の終わるチャイムが鳴った。授業開始早々に睡魔に負けた奥村燐は、その音を夢うつつのなかで聞いていた。
まだ開ききらぬ目をこすりながらかろうじて立ち上がって礼はするものの、またすぐに座って机に突っ伏す。
ざわざわと、帰りにつくクラスメイトたちの話し声がしている。そのちいさな喧騒が心地よい。ふうっと再び眠りに誘われる。あたたかい窓際の日だまりの席。ずっとここで眠っていればいいよと囁く誘惑に包み込まれるように、燐はまぶたを閉じて、いつのまにかすうすうと寝息を立てていた。
そんな少年がひとり残された教室の扉を、そっと音を立てないように開く者がいる。
「おくむらくーん」
足音を忍ばせ机の間を縫うように進む少年、志摩廉造は、ゆるんだ燐の寝顔を見て心底いとおしげな微笑みを浮かべた。
「奥村くん、かえろ」
そうやさしく言って、志摩は燐の髪に触れる。柔らかい猫っ毛だった。ずっと日だまりのなかにいたから、あたたかい。
「ん……ぁ、しま……?」
「そうやでー、志摩くんですよー」
「うえぇ、ねみい……」
大きく口を開けて欠伸をする。その間抜けな様子を見て志摩がふふっと笑い声を溢す。
「奥村くんは夜更かしさんやねえ。いったいなにしてはったん?」
「えっと、昨日は……あれ? きのう、なにしてたんだっけ……?」
志摩に問われて記憶を手繰るが、なぜだろう、ぷつりと糸が切れたように思い出せない。いつものように弟のぶんと自分のぶんと飼い猫のクロのぶんの夕食を用意して、宿題をやろうとしたけれど三分も持たなくて、弟の漫画雑誌を読んで眠ったような気がする。そんな気はするけれど、なにか別のことをしていたような気もするのはなぜだろう。
「ええ? 奥村くん、昨日の夜のことも忘れてしもたん?」
「そ、そんなことねーよ! 雪男の漫画読んでたら遅くなっちまったの!」
くすくすと志摩に笑われたのが癪で、ムキになってそう返す。志摩はよかったあ、と言って、安堵の溜め息を漏らした。
「よかったって、なんで?」
「ん? や、いつもの奥村くんでよかったなって思っただけ」
「いつもの俺って、毎日学校行って、授業で寝ちまって、学校のあとにーー」
学校のあとに?
あれ、まただ。なぜだろう、頭ではわかっているのに、頭ではどんな日常を送っているかちゃんとわかりきっているのに、この違和感は一体なんなのだろう。
「……奥村くん?」
「なあ、志摩、おれたちなんでここにいるんだろう」
困惑した瞳で燐が志摩を見つめた。考える前にするすると言葉が出てくる。志摩の表情からはなにも読み取れない。
「なんか、いままで普通って思ってたものが全然違うみたいな気がする……すっかり変わっちまったみたいな。いや、でも、もしかしたらそんなことなくて、変わったのはむしろ俺……みたいな」
変かな、変だよな、そう曖昧に笑ってみせて、そうやで、変な奥村くん、そう志摩が軽く返すことを想定して、どこかで期待すらしていたかもしれないのに、志摩はなにも言わないままだ。
「しま?」
「ずっとこうしてられたらいいのに」
授業終わって、爆睡してる奥村くん起こして、下らない話しながらまた明日って帰って。そんなふうに、してられたらええのに。
「言われてみれば、なんかすげえ久しぶりな気がする。こうやって、志摩とふたりで教室で話してんの」
なんでかな、と燐が苦笑すると、なんでやろね、と志摩も笑った。その笑顔を、どこか苦しそうだと燐は思った。無理をしているようなその笑顔は、どこか懐かしく感じられた。
「ね、奥村くん、こわい夢見たんや。奥村くんがいなくなってまう夢。奥村くんが、俺ともう一緒におらんようになってしまうんよ」
「なんだそれ、別に俺はどこにも行かねーよ」
「ほんまに? じゃあ、奥村くんはこの世界が大事だと思う? 秩序のままに、あるべき姿やないといけないと思う?」
なにばかなこと言ってんの、そう口を開きかけた燐は、志摩の真剣な眼差しにはぐらかすことなんてできないと悟った。はぐらかすというのも変な表現ではあるが。志摩の質問の真意も彼がなにを考えているのかもわからないが、真摯に答えなければならないと思った。
「うーん……、本来こうじゃなきゃ、ってのと違うのはやっぱり良くないんじゃねーの、かな……。よくわかんねえけど、でも、そういう、秩序とかってのも大事だと思うし」
「……それが、君を傷つける世界でも?」
誰も傷つけない世界なんてあるわけないじゃんか、と燐がふっと笑う。
「俺にだけ都合がいいなんて思ってないし、世界なんてそういうもんだろ?」
「……やっぱり、奥村くんは奥村くんやねえ」
志摩は少しだけ俯いて、これだから敵わんわ、と呟いて微笑んだ。
「奥村くんなら、世界のために戦ってしまいそうや」
「世界のためなんて、そんなガラじゃねえって、志摩もわかってんだろ?」
「そうやねえ、じゃあ誰かのためにって感じやろか」
その誰かとは個人ではなく、複数であることを志摩はわかっている。自分が燐にとっての「誰か」個人になれればよかったのに、そう思わないわけではないが、その個人になりえないからこそ自分は奥村燐という人間に惹かれるのだろうな、と志摩は少しの諦めとともに思った。
「……ほなら、やっぱり、いつか奥村くんと俺は敵同士になるんかもしれんなあ」
押し付け、ただの自己満足、そうであるとしても、燐には幸せでいてほしかった。ただのありふれた一人の少年でいてほしかった。それを燐自身は望まないのだとしても。燐という存在の一端を、自分は絶対に捕らえられないからこそ、それらをすべてわかった上で、自分は自分にできるすべてのことをするまでだ。
「しま……?」
「それでもええよ、俺は、奥村くんのことがすきやから」
鼻の奥がツンと痛んだ。その痛みと、それを燐は知らないということを、とてもいとおしく感じた。
ああ、きみの、本質は変わらないのやなあ。
「やっぱり、笑ってるほうがええね」
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