二十歳
目の荒い網戸から風が吹き込む。蝉の声が少し大きくなった気がするから、やつは木を移動でもしたのかもしれない。
適当に壁に寄せられた低いテーブルと、ぞんざいに広げられたキャリーバック、大きさの全然違う肩掛けの旅行用鞄。はみ出た、明日から用のバスタオル。備え付けのハンガーにかけられ干されている昨日までの寝間着。
ここへきたのは四日前なのに、八畳の和室はもうずいぶんと所帯染みていた。
「げ、なんか茶色くなっとる」
なあこれなんやと思うー? と志摩がシャツの襟元を燐に見せた。シャツのローテーション的には明後日洗濯するはずだったそれは、昨夜のあれそれに巻き込まれたのだ。燐は一応のポーズとして文句を言ったけれど、本気で抵抗する気などほとんどなかったし、今日の昼に隣の部屋にも客が入ってから思った以上に壁が薄いことがわかったので別に良いのだが。なんだかんだで楽しんだし。
そして、被害者たち、主に二人の寝間着を階下の洗濯機に突っ込みにいったのが朝食前で、日中はずっと部屋で干していた。壁の木枠のようなものに引っかけて。
「茶色?」
「ほらぁ……これなんやろ」
「あー、木の色うつったんじゃねえの? 濡れてたわけだし」
「あーそれや……」
サイアク、と呟いた志摩の嫌そうな顔にぞくぞくした。眉をぐっと寄せて嫌悪感を露にする志摩の表情は、大変そそるものがある。と、燐は思っている。志摩がそれを知っているかどうかはわからない。
「奥村くんのもついてるんちゃうの?」
「そうかも。志摩とって」
「立ち上がるくらい自分でせぇよ。はい」
「どーも」
窓の下で壁に寄りかかってうちわをあおいでいた燐に彼のぶんを手渡す。立ち上がらず、右手だけをぴんと伸ばしてシャツを受け取る姿に、志摩は横着やなとため息をもらした。
「やっぱ俺のもついてるわー」
「えー、これ嫌なんやけど……もっかい洗う?」
「いいや、次洗うときに部分洗いすりゃ落ちるんじゃね?」
そう言いながらするするとシャツを裏返す。その様子をじっと見つめられて、燐はなんだよと、少し居心地の悪そうな声で問うた。
「そういや、奥村くんって洗濯物裏返して洗うし干すよね」
「え、おまえ、同棲何年目だと思ってんの……? 自分だって裏返してんじゃん」
「君に言われてやけどね」
志摩はぽいと扉の近くにシャツを投げて座りこみ、あぐらをかいて後ろに手をつく。投げられてくしゃくしゃになったシャツを見て、燐は呆れたような気持ちになりながら、自分のぶんを畳みはじめた。
「こうしとけば、汚れてもとりあえずは裏側だからなんとかなるじゃん」
「それでやったんかー」
「わかってると思ってたよ……」
「あー俺もちゃんと裏返しときゃよかったあ」
「そうしろそうしろ。俺の言う通りにしときゃ間違いないんだから」
いつもみたいに軽口を叩いて、その場かぎりの会話の応酬。ふっと途切れた会話の合間を、夜の風が通り抜けていく。
「ほんま、きみの言う通りにしておけば間違いはないんやろね」
ぽつりと志摩が呟く。目を細めて燐を見つめて、燐のことが大切で大切で仕方がないとでもいうように。
「……そうだろ?」
「うん」
「今更だな」
「今更やね」
二秒くらい無言で見つめあって、ぷっと吹き出してくすくす笑いあう。いつの間にか、言語外のコミュニケーションが随分と発達していたらしい。気付けば付き合いは六年目に突入している。あと半年とちょっとで、七年目に突入。
「気になるなら、今夜もう一回洗濯機回すか?」
「うーん、じゃそうしようかな」
よいしょっと声に出して立ち上がった志摩がぐうっと伸びをする。
「ほら、奥村くん立って。スタンダップ」
「ケツに根っこ生えた。立てねえ」
「もお、冗談言わんと。ほら抜いたるから手ぇ貸し」
「はーい」
「よいしょっ」
「抜けた」
「手のかかる大根やな」
志摩に引っ張りあげられた勢いで、ぽんと両腕を肩に乗せて首に回す。完全にプライベートゾーンがリンクした距離感で、燐が笑う。
「しま、おじさんみたい」
「よいしょってつい言っちゃうん、奥村くんといるときくらいやで」
「じゃあいいや」
穏やかに笑いながら、戯れみたいなキスをする。志摩の鼻先をかすめた燐の前髪は、少しだけ汗のにおいがした。涼しいといっても八月の夜だ。
「きみがおじさんになっても、泳ぎにつれてったげるよ」
「派手な水着はとても無理よってやつ?」
「あ、このネタ通じるんや」
「親父に感謝だな」
前髪がおでこに触れあう距離で交わすなんでもない会話が好きだ。ありふれているようで、すごく貴重な感じがして。
「大根食べたいなー。久しぶりに」
「帰ったらなー」
「はぁい」
ぽいと放られたシャツを屈んで拾って、燐が廊下に出てからドアを閉める。
ここの洗濯機は年季が入っていて、そのせいか機嫌を損ねやすい。昨日は二人してシャツやらタオルやらを入れすぎたせいでなかなか終わらなくて、結局一時間近くかかってしまった。ちょっと先を歩く燐のきれいなかたちの後頭部を見つめる。
「? なんだよ」
「ん? ああ、」
奥村くん、家電をなだめるのうまそうやなって思ってただけ。そう言うと、なんだそれ、と燐が振り向きざまに笑う。その笑顔はやっぱり志摩の二十年の人生で一番きれいなもののひとつなのだった。
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