キスの日
前の座席の揺れで目を覚ました。数人がバスを下りていく。一番前のデジタル時計を目を細目ながら見ると、午前二時二十六分。サービスエリアのトイレ休憩のようだ。
右隣でぐうぐうと眠る燐の肩をつつくと、燐はものすごく嫌そうな顔をしてから(寝ているときの燐は本当にとんでもなく態度が悪い)目をつぶったままで微かに口を動かし、なに、と言った。
「お手洗い大丈夫?」
「んー……」
「次はもう朝ごはんやけど」
「んー……」
「首とか痛くない?」
「んー……」
「ほな、おれ一回下りるから足ちょっと畳んで」
「んー……」
見事なまでに「んー……」しか言わない燐に思わず笑みがこぼれる。微妙な音の上がり下がりでなんとなく察して会話が成立してしまえるあたり、自分の燐への献身っぷりはなかなかのものなのではないだろうか。
ごめんねぇ、と小さな声で謝りながら燐の体をなんとか乗り越える。外に出ると思いのほか冷えていた。風が強いからだろうか。というよりも、薄着が過ぎたかもしれない。バスの中はとても暑かったのだ。おまけに狭いし。
別段トイレに行きたかったわけではなかったが、とにかく体を動かしたかった。まっすぐ背にもたれていたはずなのに、起きてみるとほぼ直角に曲がっていた首が痛い。凝り固まった首をゆっくりと回す。燐は今この瞬間も首をこてんと倒しながら眠りこけているわけで、このままだと取れてしまうんじゃないだろうかとかなり本気で心配になる。ふわぁと大きなあくびをした。ばかげたことを考えているなあと思うあたり、頭は寝ているのと起きているのが五分五分というところだろうか。
いざ具体的にどう京都に向かうか相談する段になって、夜行バスに乗りたいと言ったのは燐だった。聞くと、一度でもいいから乗ってみたい! と目を輝かせて言っていた。
数年ぶりの里帰りで緊張するから、一緒に来ぃひん? と頼んでみたのはもうだいぶ前だったと思う。燐は少し姿勢を正してから、わかった、と言った。おう、と言わなかったあたり燐も少しは緊張していたのかもしれない。
それから日付を調整したりバスの予約をしたり、ついでに燐の行きたいところに連れていってあげたいとネットで色々と調べてみたり。そういう手続きや調べものは面倒くさがって人に押し付けようとうまく立ち回るのが志摩だが、燐が絡むと話は全く別だった。全く苦ではなく、むしろ楽しくなってきてしまって夜更かししたこともしばしば。思わず愛やなぁ~とこぼして燐にどつかれたこともある。
楽しみやなあ、なんて考えながら肩を回したり伸びをしたりしているうちに、座席に戻るころにはすっかり目が冴えきってしまっていた。まだ朝までには数時間あるというのに、もう一度眠れるだろうか。
再びものすごく嫌そうな顔をする燐の体を跨いで窓際の席に戻る。もぞもぞとしっくりくる体勢を整えてから足を伸ばせる範囲で伸ばし、カーテンをちょっと上げて窓の外を見た。時折、遠くの高速道路を走っていく車のライトが見える。
数分後、静かにバスは走り出した。
周りの人々を見渡すと、さっき下りた人も再び眠っている。ごとっ、と左肩に重みを感じた。燐がまた志摩の肩に寄りかかってくれたらしい。
普段寄っかかってもええよとどんなに言ったところで燐はその言葉に甘えてはくれないので、この手のデレは意識のないときに限る。というか、致しているとき以外にデレてくれることはかなり貴重で、そのたびに志摩は世界中のありとあらゆるものに感謝したいような気持ちになるのだった。(その旨を酔った勢いで燐に伝えたら、とてもかわいそうなものを見るような目で見られた)そもそも、普段の邪険な扱いでさえも心を許してくれている証拠だと喜んでいるので、燐ももはや諦めの境地に入りつつあるが。
燐の寝息がよく聞こえる。それと、エンジン音しか聞こえないようだ。この夜に二人しかいないような気さえしてくる。
静かにカーテンを開けて、隣車線を見た。ばらばらの速度で追い越していったり、はたまた追い抜かされたりしていく車。テールランプがオレンジの尾を引く。
時間が止まっているような、ものすごくゆるゆるとしか動いていないような感覚。眼鏡を外して、ぼやぼやと輪郭がゆがんたおかげで数段きれいに思えるライトを眺める。
普段は煩わしいのでコンタクトをしている志摩だが、今夜は眠ることを見越して眼鏡で乗り場へ向かったのだった。手を振っても、いつもは振り返してくれる燐がなぜか怪訝な顔をしている。歩み寄るとぽつりと志摩、と自分を納得させるように呟いた。
「眼鏡じゃん」
「コンタクトで寝たらあかんからね」
「……授業中は?」
「それは言ったらあかんやつやで!」
ふうん、とおかしそうに燐が笑う。あ、やっぱり笑った顔かわいい。
「変な感じする」
「えっ似合ってへん!?」
「や、そういうんじゃなくて、いつも眼鏡じゃないやつの眼鏡って落ち着かない」
「んー、じゃあ今度から眼鏡もかけるな?」
「別にいーよ。そのうち慣れるんじゃん」
いまいち意図が汲み取れずにきょとんとしていると、燐が少し照れたようにはにかむ。瞬間火花を散らすようにシナプスが繋がったような気がして、思わず頬が緩むとだらしねえ顔! と燐に笑われた。
数時間前のことを思い出して、また幸せな気分になる。スピードを出した車をまえに見送ってから、志摩は目蓋を閉じた。ちかちかと光が飛んでいる。さらさらの髪をゆっくりと数回撫でると燐がわずかに身じろいだ。ごめんなと音にはせずに謝ってから、燐の頭に少しだけ寄りかかる。くっついた太ももから伝わる体温を感じながら、ああ、いまものすごくキスしたいなあなんて思ったのだった。
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