胸焼け ※嘔吐描写あり
トイレ、と言い置いて燐が部屋を出てからもう五分が経った。溜まってたんかなあ、やったら言うてくれればいくらでも協力するのに、と下世話な考えが志摩の頭をよぎる。
なんとなく気が咎めて、けれどもうトイレの燐を突撃する気満々なのだが、足音を潜めながら志摩も部屋を出た。旧男子寮の古い床が、ギシ、と不穏な音を立てる。そろりそろりと数メートル歩くうちに、志摩の耳に届く、燐の呻き声。
(あれ?)
えづくような音が聞こえる。それからゼェ、ゼェ、と荒い呼吸、不規則に咳き込む音。燐は吐いているらしかった。
「奥村くん? 大丈夫? 吐いとるん?」
ドアの外から思わず声をかけた。うん、と苦しそうな返事が返ってくる。それから、大丈夫、と。
大丈夫なわけがないだろう、と志摩は思い咄嗟にドアノブに手をかけて、しかしそのまま開けることはしなかった。ドアの外でできることなどなにもなく立ち尽くす自分と、ドアの内で跪いて便器に顔をうずめて呼吸を荒げながら吐いている燐。なぜだろう、心配なのに、少し興奮している。
燐はどうやって吐いているのだろうか。こみ上げるように吐いているのか、それとも無理矢理吐いているのか。胃液が喉を焼く痛みを感じているのか。右手の人差し指と中指を喉の奥に突っ込んでいるのか。食道を逆流する感覚を捉えているのか。数時間前に咀嚼したはずのものはもう原型を留めていないのか。それともまだ僅かにその形を留めているのか。
最低だな、と思った。燐は落ち着いたのか、水を流す音がする。
志摩は急いで踵を返し、台所に降りた。やかんに一杯ぶんの水を入れ、数秒火にかける。コップに注いだ水に口をつけると、まあ少し温いが薬を早く効かせるにはちょうどいいくらいだろう。幸い、吐き気止めの薬は持っている。ゴムと同じところに入っている。
ゆっくりと階段を上がると、歯磨きをしている燐に出くわした。
「奥村くん、大丈夫? まだ気持ち悪い?」
燐はふるふると首を横に振ると、無言のまま洗面所へと戻っていった。蛇口を捻る音、口をゆすぐ音、ふたたび蛇口を捻る音と、手を振って払った水滴が金物に当たる音。
「ごめん、もうへーき」
「ほんま? 熱とかあるんかな」
「いや、たぶんない」
それなに、と燐が志摩の手元に視線を落とす。吐き気止め持ってるから一応飲んどき、と言うと燐は素直にうんと言った。
「奥村くんなんか変なもの食べた?」
「そんなことねえと思う。たぶんむねやけ? しただけ。なんかもやもやって気持ち悪くて」
「そっかあ、よかったぁ」
そんな会話を交わしながら二人で部屋に戻り、はい、とコップとかばんから出した薬を手渡すと、燐はありがと、と呟いてからコップに口をつけた。
「奥村くん、」
「?」
水をごくり、ごくりと飲み下しながら、目線だけで燐が返事をする。
「キスしようか」
静かな部屋に声が響く。その言葉は揶揄するようにも聞こえたし、もしくは全く感情を覗かせないような声でもあった。燐は、ふう、とコップを最後まで煽って息を吐き出し、しねーよばかと吐き捨てるように言った。
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