ストーム・ボーダーの管制室から近く、しかし動線の関係か人の通ることが少ないその廊下に、リツカの毎朝の日課の場所はある。時間は日によってまちまちらしく、その場に居合わせたことは数えるほどだが。
伏せられたまぶた。朝日に照らされる横顔は、今日もどこか神々しい。祈りの言葉が終わるのをじっと耳を傾けながら待つ。最後の一節を終えると、リツカはゆるく組み合わせていた指をほどき、顔を上げる。目が合う。先ほどまでの空気が一瞬で霧消して、いつもの明るい彼女へと切り替わる。
「おはよう、キャプテン」
白い制服と燃えるような色の髪が、今日も、朝日に映えている。
彼女にその日課があることは前から知っていた。しとしとと降る霧雨のなか、一緒にほの暗い夜明けを迎えた朝のことだった。少しずつ明るんでいく空を見つめながら、きれい、とリツカが呟いた。それきり何も言わないので、眠ってしまっただろうかと隣に視線をやる。彼女はちゃんと起きていて、静かな瞳でじっと東の空を見つめていた。
夜と朝のはざまの時間が終わったころ。先ほどまでの静かな気配はどこかへ霧消してしまって、リツカはいつものように、ありがとうと太陽のように笑った。
「そうだ、キャプテン。今日はここでお祈りしてもいい?」
「お祈り?」
問い返しつつ、どうぞと目で促した。彼女は意図を正しく受け取り、渡していた毛布を肩から外して丁寧に畳みながら答える。
「毎朝やってるんだ。別に、めちゃくちゃ敬虔な信徒とかってわけではないんだけど、なんとなくね」
ぶるりと肩が震えた。やっぱり寒いねー、と小さく苦笑いして、それから立ち上がる。戦場を駆ける黒い礼装、ぴんと伸びた背筋。ゆるく指を組み合わせて目を伏せる。決してボリュームが大きいわけではないのによく通る声が、朝に溶けていく。
――あとから、この日課を彼女自身は特段隠しているわけではないということ、大抵のサーヴァントは長い付き合いのなかでこの日課の存在を知っていること、そのうえであえて口にはしていないのだということを、知った。
祈り終えて、リツカが大きく息を吸い込み、吐く。つられて深呼吸。ゆっくりと開かれる瞳。薄曇りの夜明けに朝日は見えないが、その代わり、彼女のその瞳が朝日のようだと思った。
そのまま自室に戻るかと思ったが、リツカは再び腰を下ろした。もうしばらくここにいるつもりらしい。毛布を手渡すとありがとうと小さく笑い、肩にかけた毛布に指先までしまってくるまった。
「いつから、って聞いても?」
「第一特異点のあとくらいだったかな……、特にきっかけとか、あったわけじゃないんだけどさ」
ほら、一番最初に応えてくれたのマルタさんじゃない? それに、オルレアンにはジャンヌさんもいたし、あのお祈りって昔から馴染みもあったし。さいごの場面で、運とか、そういうものが拮抗したときに、何か少しでも助けてもらえるならって思って始めたんだったかな。
淡々と話し、笑う。
「こんなこと言ったら怒られちゃうけどね」
「そんなことはないよ。きっかけがなんであれ、きみはずっとちゃんと続けてるんでしょ」
「やめたせいで、って思いたくないからだよ」
「ちゃんと祈っているという行動がすべてで、そこに、理由とかは関係ないと思うけど」
何気なく言った言葉だったが、リツカの表情が一瞬揺れ動いた。あれ、と思う間に彼女は顔を伏せて膝につけてしまう。そうかな、とくぐもった声がした。
「……わたし、ちゃんとできてる?」
それはきっと、祈りについてだけの問い掛けではなく。でも、もし。もし自分がそれを言ってしまったら、この先この子は、いったい誰に弱音を吐けるのだろう。
一瞬の逡巡を打ち消す。いまのカルデアには人も英霊も数多くいる。長く時を重ねてきたものも、まだ日が浅いものも。バランス感覚に優れたリツカは、きっと上手く話す相手と話す内容を選んで吐き出して、そしてちゃんと自分のニュートラルへと帰ってくるだろう。
「ちゃんとできてるでしょ。言葉に詰まることもないし。さすが毎朝やってるだけあるね」
だから、自分がその問いの奥にあるものを察したうえで答えをずらすのは、彼女のためなんかではなく、ただ、自分がそうしたいから。そういう積み重ねで、彼女が何かを話したいときの最適な聞き手の選択肢の一人として、自分があれたらいいなと、思う。
リツカの肩がぴくりと跳ねる。それから、ふふっと柔らかい笑い声。
「ありがとう、キャプテン。優しいね」
顔を上げたリツカは、いつも通りの快活な彼女だった。そのことがむしろ、胸をぎゅっと締め付ける。軽い調子で返そうとして、言葉が見つからなくて、開けた口を再びつぐむ。
どんな窮地にあっても前線に凛と立ち続ける彼女は、強くて、眩しくて、それでいていつも一人の人間の等身大の存在で、そういう在り方がきっと自分たち英霊を惹き付けてやまないのだけれど。それでもこの子の背負うものは、ひと一人には重すぎる。だからせめて、という思いが、代わりに言葉になって溢れ出す。
「僕が、どこまで残れるかわからないけど……、きみの航海が終わるその時まで、こうして一緒に海を見よう。きみは僕が必ず守るよ」
豆鉄砲を食らった、という言葉そのままのリツカの顔。ぽかんと空いた口が、見開いた瞳がじわじわと揺れて、照れているようにも泣きそうにも見える表情でなんとか笑顔をかたちづくる。締まりのない、情けない顔。それがいちばん、神聖さを宿した横顔よりもなによりも、きれいだと思った。
あれから時折、早朝や夜半の彼女ととりとめのない話をすることがある。そういったときは大抵、眠れないか早く目が覚めてしまったかのどちらかなのだろう。ナース曰く、細切れ睡眠のくせに一瞬で深いところまで落ちていったり、寝落ちる日と全く眠れない日が日替わりであったり、とにかく彼女の睡眠はめちゃくちゃらしい。ただ、本人はけろっとしており、かつ身体疲労もそれなりに回復できているようなので、心配とともに見守りつつも医療班サーヴァントには告げずにいる。念のため彼らにも伝えておいたほうが、と言ったこともあるが、「あの方々が『様子を見る』なんてできると思いますか? ベッドにくくり付けられて監禁されてしまいますよ」とナースにぴしゃりと返され、確かに……以外の言葉が見つからず黙ってしまった。
「キャプテンはむしろ、彼女の話し相手になってあげてください。話しているうちに安心して、眠気が戻ってくることもありますから」
にっこりとそう言われてからは、眠れない彼女に気づいたときだけ、ただあの朝のように、何も聞かずに夜明けまでの時間をゆるゆると共有している。
ドバイでの夏休みを終えて帰ってきたのは一昨日のことだった。例年通り様々なトラブルに見舞われ、でも楽しかったー! と満ち足りた顔で言いつつ、彼女たちは帰還した。久しぶりに思いっきり羽根を伸ばせたなら良かったと思っていたのだが、夜も深まった頃、ドアの外を通りすぎる控えめな足音に、思わず眉根を寄せてしまう。夏休み明け二日でさっそく不眠か。
ネモ・シリーズの自室は管制室からすぐそこにある。眠れないときの彼女は、管制室に顔を出したり、あとは食堂に行ったり、ぼんやりと窓の外を眺めていたりするらしい。らしい、というのは、直接話をするのは管制室に来たときくらいだからだ。その他は、マリーンたちや他のサーヴァントによる密かな目撃情報によるものである。みんな、彼女が異常を正常の範囲に収めてなんとか乗りこなそうとしていることをわかっている。だから表立っては口にしない。きっとそれすらも、本人には筒抜けなのだろうけれど。
自室のドアの外を通るということは行き先は管制室だろうかと思い覗いてみたが、リツカはいなかった。となると、どこにいるだろう。夜の見回りのていを取りつつ、うろうろと船内を歩く。ほどなくして、大きな窓にもたれて座っている彼女を見つけた。椅子と同じくらいの高さにある出っ張りにうまく腰掛けて、手足を投げ出すように脱力しながら、ぼんやりと夜の空を見つめている。
彼女がゆっくりとこちらを向いた。ゆるゆるとした瞬きのあと、微笑。唇が最初の一音をかたちづくる。
「こんばんは。じゃなくて、もうおはようかな?」
「……こんばんは」
こんなところあったんだ、と下手にもほどがある言葉が口をついた。会話の隙間を埋めるにしたって、もっと他にあるだろうに。ただ、当のリツカはたいして気に止めなかったようで、そうなんだよー、と間延びした声で答えた。
「座らないの?」
「いいの?」
「なんで? いいよ」
おかしそうに笑う。リツカの右側に腰掛けると、彼女は視線を外し、再び窓の外を見上げた。
「カルデアにも、あ、南極のほうね。ここみたいなところがあってね。よく雪山眺めてたの」
「海は暗すぎて何も見えないよね」
「うん。あっちのほうがあかるかったな、夜でも……」
一面の白銀は、きっと夜でもぼうっと浮かび上がっただろう。いまここで浮かび上がるのは、彼女の白い頬のみだ。
会話が続かなかったので、そのまま二人でただ夜の海を眺める。しばらくそうしていた頃、足音が近づいてくるのが聞こえた。振り返ると、角から曲がってきたのはリツカと同じくドバイ帰りのサーヴァントの一人、バーソロミューだった。
ばちりと視線がぶつかる。驚いた顔。バーソロミューは視線を奥にいるリツカに移し、それから曖昧に首をかしげてにっこりと笑う。
「……逢い引きのお邪魔をしたかな?」
冗談めかした口調、しかし実際のところがなんであれ、どうとでも返せるようにという思慮も含んでいるのだろう。さすが伊達男。そんな感心をよそに、リツカがふふっと声を漏らして笑った。違う違う、と手を振る。
「ちょっと起きちゃって。ここでぼーっとしてたら見回りのキャプテンに会ったから、おしゃべりしてたの」
ね、と微笑みかけられ、頷く。本当にそう思っているのか、探しにきたことをわかったうえでそう言ったのか。わからないけれど、なんとなく後者のような気がした。
「カップルに挟まろうとする男にならなくてよかった」
「くろひーみたいなこと言ってる」
「は? 死にたい」
「そこまで?」
伊達男の目が一瞬で死んだので、ついリツカにつられて吹き出してしまった。二人して体を小さく揺らし笑う。バーソロミューはそんな二人をきょとんとした顔で見ていたが。
「よかったら一緒におしゃべりしよう」
リツカの言葉で、いつものにこやかな笑みが戻った。
「ではご一緒させていただこうかな、夜更かしさん」
そして彼から一番近く、つまり自分の右側に腰を下ろし、長い足を組んで微笑む。相変わらず、こういう仕草が絵になる男だ。本当に、それなのになぜこうも残念さが拭えないのだろう。
「バーソロミューはどうしたの」
探りめいた口調にならないようにと思いつつ聞く。バーソロミューはたいして気に留めない様子で、夏が終わるのが惜しくてね、とうたうような調子で言った。その直後、ふっと瞳を和らげて微笑む。
「リツカは? 眠れなかった?」
「まあ、ね」
「実をいうと私もね。ドバイで時折、既視感めいたものを覚えることがあって、戻ってからもずっと気になっていたのさ」
「バーソロミューも?」
ぱちぱちと、リツカが目を丸くして瞬きをする。
「二人とも? 変だね」
「キャプテンは? なんともない?」
「僕は別に……」
「まあ、既視感というほど確かなものでもないんだが。なんとなく引っ掛かる瞬間が一度ではなかった、というだけで」
「わかる! わたしもそんな感じだった!」
そう言ってリツカがぶんぶんと頷いた。体を投げ出すように窓にもたれていた先程より、いくぶん前のめりになっている。
「ほかにドバイに行った人たちは何か言っていた?」
「私は特に聞いていないな」
「わたしも。マシュも何も言ってなかったし……、あ」
はたと何かに思い至ったらしい。口元に手を当ててわずかにうつむき、瞳が左右に揺れる。ちらとバーソロミューを振り返り、彼女の言葉を待てばいいよねという意味を込めつつじっと彼を見る。アイコンタクトは正しく通じたようで、バーソロミューは小さく、しかししっかりと頷いた。
別に長い時間だったわけではない。しかし、彼女が何かを言うにしても言わないにしても、じっと待つのは長く感じられた。小さく開いた口が一度閉じて、それから少しかすれた声で、呆れ笑いみたいに、言う。
「ごめん、それ、またわたしのせいかも」
「きみのせいって?」
柔らかい声でバーソロミューが続きを促す。また、とは。そう思いつつ彼女の言葉を待った。
「夏休みの話をするって呼ばれた日ね、長い夢を見た気がして。長くて、何かが欠けた夢。マシュとそんな話をしたのに忘れてた」
前からね、よく夢を見るの。サーヴァントのみんなに関わる夢。特異点に関わる夢。下総のときとかもそう。前は、断片的でも覚えてることのほうが多かったんだけど、最近は覚えてないことのほうが多い気がする。覚えてないのに、夢を見た気がするってことだけは覚えてるのも、変な話なんだけど。
組み合わせた指先を遊ばせながらぽつりぽつりと話す横顔は、困ったようで、寂しそうで、呆れたようで、諦めたようで。どれでもあって、どれでもないように思えた。
「だから、今回もわたしの夢にみんなを巻き込んじゃったかも」
ごめんね、と軽い調子で言って笑う。こういう顔、前はもっと下手だったんだろうか。自分が出会ったときにはもう、こういう線の引きかたが板についていた。
でも楽しい夢だったんでしょ、と言いかけて、言い直す。
「せっかくの夢なら、覚えておきたいよね」
「……うん、そう。そうだね。覚えておきたいよ、やっぱり」
ゆっくりと噛み締めるようにリツカが頷く。
「夢なんて、本来支離滅裂なだけのものなのに。むしろ申し訳ないな、サーヴァントの身としては」
空気を変えるように、バーソロミューがあっけらかんと言った。そんなことないよ、とリツカがいつもの調子で首を振る。
「夢のおかげで、何かわかるかもっていうことだってあるし。まあ、前は、へんてこりんな夢とかよく見るほうだったんだけどな」
「へんてこりんな」
「ふふ、そう、変な夢。山の奥に遊園地があるんだけどそこに行く手前の坂道のアップダウンが激しくて、もうそっちのほうがアトラクションじゃん! みたいなやつとか」
「そのとき揺れてる車にでも乗ってた?」
「いや、普通に家だったと思うけど。あとねえ、ゴミ捨て場にゴミを捨てに行って、顔を上げたら十字路の道が全部同じになってて、帰る道がわからないとか」
「ホラーじゃないか……」
「サバ柄の猫は元々みんな白猫で、アジが好きでたくさん食べてるうちにサバ柄になるんですよ~って教えてもらう夢もあったな」
「え、アジ? サバじゃなくて?」
「そう、わたしも起きてしばらくしてから、そこはサバじゃない……!? て思った」
つらつらと楽しそうに、変な夢の話をするリツカ。よくそんなに覚えているものだと思うほど、どんどん出てくる。それに対して、バーソロミューと共に短い相槌やらコメントを挟んでいく。随分顔が晴れてきたのでよかった、なんて、ちょうど思ったとき。あとね、とそれまでと同じトーンで前置きをして、遠くを懐かしむ瞳をして、彼女が言った。
「マーリンが聖杯とドクターを奪って行こうとして、ドクター行かないで、聖杯ならぜんぶあげるからって泣きながら必死に追いかけるのに、全然追い付けない夢も見たことあったな」
ひゅっと詰まりかけた息を、無理矢理飲み込んだ。バーソロミューが固まったのを背中越しに感じる。リツカの表情は変わらない。淡々と、変な夢を語る延長線のまま。
彼女が夢について話すのを、そういえばかつて一度聞いたことがある。インド異聞帯の攻略を終えたあと、マーリンをカルデアに召喚したときのことだ。あの頃の自分はまだ、彼女の日課を知らなかった。
まばゆい光があたりを包む。それに紛れて、花びらが散る。無論、本物の花びらではないのだけれど。
「こんにちは、カルデアのマスター君。私はマーリン……なんてね。お久しぶり」
ようやく現地にこられたよ、などと笑う花の魔術師を、隣に立つリツカとマシュがぽかんと見上げていた。召喚時の電力量の一時増加を問題なく終えて、エンジンがふう、と息をつく。
「そちらはキャプテン・ネモに、ネモ・エンジンだね。君たちのこれまでの航海は勝手に見させてもらってたよ」
「……それはどうも」
「警戒するのも無理もない! これから打ち解けてくれれば嬉しいな」
なんだコイツ、と脳内で引き気味のエンジンの声がする。アーカイブの記録で人理修復の旅路を読んでいて、この魔術師が第七特異点攻略に大きく貢献したことを頭で理解はしていても、個人の感覚としては同感。ただ、リツカとマシュは自然と受け入れているので、彼はこの馴れ馴れしさが通常運転なのだろう。
マーリンは直近のインド異聞帯の旅も勝手ながら応援していたと興奮気味に話し、二人は複雑そうな顔を奥に押し込めつつそれを聞いて、適当に……ふさわしいという意味でも、真正面からは取り合わないという意味でも、適当に相槌を打っていた。
「ごめんごめん、つい興奮してしまった。これからは当事者意識を持って、ちゃんと君たちの旅路を応援するとも」
「あはは、そうしてくれると助かるよ」
「それと、リツカくんにはもうひとつ」
苦笑を引っ込めて、なに、とリツカが不思議そうにまばたきをする。マーリンがスッと目を細める。なんだか嫌な予感がした。嵐のほんの微かな前触れを感じ取ったときのような、直感。
「『あの』夢は、私が見せたものではないよ。もちろん彼が見せたものでもない。正真正銘、きみのなかから出てきた、ただの夢だ」
隣の空気の温度が一気に下がった気がして、思わず横目で彼女の様子を伺った。そこからは一瞬だった。横顔から表情が消える。ぐっと力を籠めた腕を、きっと理性が押し留めた。そして、何事もなかったかのように、いつものように笑う。作り笑いなんて言葉の存在しない、完璧な微笑みで。
「そうだったんだ」
「……先輩?」
「気分を害したかな?」
「まさか。あらためてよろしく、マーリン」
返答を聞き、マーリンがにっこりと笑う。彼女の表情は変わらない。
「それじゃあ、私はこの立派なノーチラス号とシャドウ・ボーダーの中を見せていただくとしよう」
ひらひらした裾を翻してマーリンが召喚室を出ていく。リツカはふうっと息を吐き、ようやく張り詰めた空気をほどいた。
「ごめん、わたしも一回部屋に戻るね」
「先輩、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。ちょっと疲れちゃっただけ。少し寝てくるよ」
ひらひらと手を振ってから歩き去る背中を見送る。ほどなく入れ違いで、召喚に伴う電力節約のために霊体化してもらっていたマルタが入ってきた。
「マーリンだったのね!? このタイミングでくるんだったらもっと早くきなさいよってさっき廊下で会ったから言っておいた……リツカは?」
「先輩はお疲れになったからいったんお部屋に戻ると……、あの、マルタさんは何かご存知でしょうか」
きょろきょろと見回すマルタに、困惑気味のマシュが答える。彼女も、先程のただならぬ様子を感じ取っていたらしい。
「どうしたの?」
「先輩とマーリンさん、何かあったみたいなんです。その夢は自分が見せたものじゃない、って、マーリンさんが。何のことか、私にはわからないのですが」
「うーん……」
マルタが首をひねる。彼女にもまた、思い当たる節はないらしい。
「……いまのカルデアで、一番リツカと付き合いが長いのは二人だ。二人にもわからないなら、誰にも言ってないんじゃないかな」
「……もっと何か、釘を刺しておいたほうがよかった? 今からでも行ってくる?」
そう言いながらぶんぶんと振る拳が若干どころか割と物騒で笑ってしまった、のだが。隣でずっと沈黙を守っていたエンジンが、いや、と小さく呟いた。
「今後次第ではそうかもしれねえぞ。あのとき、ビンタするかと思ったもん」
――あの時、あの魔術師が言っていたのは、このことだったのか。
リツカがこちらを見る。二人がそんな顔することないのに、と困ったように小さく笑って、言う。
エンジンの言った通りだった。あのとき、心のままに一発殴ってしまったってよかったのだ。いや、リツカはリツカ自身のために、本当はきっとそうすべきだった。彼女がそうできるように、そうできるような彼女で、いさせてやるべきだった。
自分たちはみな、「人類最後のマスター」という役割を彼女に背負わせている。きっと、彼女自身すらも。
不意に、ジャンヌの言葉が耳の奥によみがえる。あの子は聖女なんかじゃない、聖人になんかならなくていい。ただのひとりであってくれればそれだけで、と、確かにそう思っているのに。あの子はあまりにも、と。
管制室での突然の昏倒、意識を取り戻した直後再び自ら眠りに潜り、そしてアヴェンジャーの一斉退去とともに彼女は目覚めた。その傷はまだまだ瘡蓋にもなっていないだろう。それなのに、あの傷もこれまでの傷も、それら全てを飲み込んで彼女は笑っている。太陽のように、英霊たちの中心で。
「あんな夢だったからさ、わざとじゃないにせよ、マーリンが見せた夢かなと思ったんだけど。違うんだって」
「それは、マーリン自身が?」
「うん。正真正銘、わたしの中から出てきたただの夢だって言われちゃった」
言葉を選んでバーソロミューが問うた。対するリツカは、雨が降ってやだね程度の苦笑混じりの口調で、そのことがかえって、痛々しかった。
「最後に見た『ただの夢』がそれ。けっこうな悪夢だよね」
瞬間、その顔が歪む。すぐさま右手で顔を覆い、前に体を折りながら大きく息を吐く。
「特異点を巡っていたころは体のほうが先におかしくなったのに。あの頃の生理不順なんかとっくに直って、今はもうほとんど狂わない。代わりに夢を見ては忘れていくの。覚えてないことも忘れていることも、きっとたくさんある、辛くても苦しくても、あったことはちゃんと覚えていたいって、本当に思ってるのに。眠りも夢も、ちゃんとメカニズムがあるくせに、わたしのは……。慣れるんだったら、ちゃんと慣れてくれればいいのに。こんなのばっかり。嫌になる……」
段々と声のボリュームが落ちていき、最後の部分はほとんど消え入りそうだった。自分たちが掛けられる言葉は何もない。わかると言ってあげることも、何かを問うことも。励ますなんてもってのほか。不用意に何かを言えば、彼女はたちまち「マスター」としての顔に戻ってしまうだろう。そのことに、歯がゆさを感じないわけがない。
過去に遡ってこっそり彼女の制服に仕込んだドリームキャッチャー、悪夢の目覚めが一秒早くなる程度の『幸運』。それは自分たちにとっては十分な、本当に十分な報酬だったけれど、だからといって彼女の悪夢を取り払うことができたわけではないのだ。それに、制服が変わった今となってはもう、そのわずかな効果もない。
それでも、ほんのわずかであっても、こうして過ごす時間がこの子にとって胸の奥から呼吸できる場であれたなら。そう思いながら、いつものように背中をゆっくりとさすってやる。彼女の心は冷えているのだろうに、裏腹にその背中は、彼女の体温であたたかい。皮肉なほどに。
浅い呼吸が次第に落ち着いていくのを、手のひらで感じる。そのとき、沈黙を守っていたバーソロミューがゆっくりと口を開いた。
「……そうとは限らないんじゃないかな」
リツカの背がぴくりと跳ねた。一体何を言うつもりかとバーソロミューのほうを勢いよく振り返ると、彼はわずかに俯き、思ったより遥かに真剣な顔で何かを考え込んでいた。剣呑な目を向けてしまっていたのだろう、目が合うとバーソロミューはすぐさま、言葉が足りなかった、と重ねて目礼した。
「どういう意味?」
リツカの背中から手を離し、体を彼のほうに向けながら問う。責める目をしてしまいすまなかった、という意を込めつつ聞くと、謝意を受け取ってくれたようで小さく頷いた。リツカは自分の膝に伏せるように体を折ったままだったが、バーソロミューは真剣な表情を和らげ、代わりに安心させるように微笑む。
「本当に『ない』のなら、既視感を覚えることすらないのでは、と思ってね。忘れてしまったと思うのも、覚えていないと思うのも、きみのなかにちゃんと在るからではないのかな」
ぐす、と鼻をすする音が後ろから聞こえた。体を起こしたらしい。振り向いた先のリツカは、涙こそ流してはいないが、泣き顔と言って差し支えない顔をしていた。
「わたしのなかに……」
「そう」
バーソロミューがはっきりと言い切る。迷子のように揺れる目をリツカに向けられたので、バーソロミューと同じように、しっかりと頷いてみせた。
「……こわいの」
リツカが呟く。ただでさえ色白の頬が白い。彼女の姿を見つけたときに、キッチンでも管制室でも、連れていけばよかった。やわらかい毛布やあたたかい飲み物、そういうものがある場所に。こんなうすら寒い、廊下の一画ではなく。
普段の快活な彼女が見せることのない、弱々しい声が続く。
「記憶の整理に見る夢じゃない、亜種特異点みたいなものでも、夢として片付けられるんだったら。この白紙化を解決したら、どうなると思う? みんなと過ごしたわたしの数年は? 綺麗さっぱりなかったことにされて、忘れたまま生きていくの? そんなの、……」
考えたことがないわけではなかった。時間旅行を繰り返して、様々なイフの世界を渡り歩いている自分たち。勝手に狂ったり直ったりする人理定礎。英霊は消えればそこで終わりだけれど、のこされた者たちは、今を生きる彼女たちは。そこまで考えて、いつも蓋をしてきた。考えたからといって答えが出るわけじゃない。考えても仕方のないことは考えない。無責任なことは言えない、だって、何を言っても他人事になってしまうのだから。それよりも、自分が為すべき目の前の航海の安全を。
そう確かに、思っていたのに。
「それでも、夢を見ても、見なくても。覚えていなくても、思い出せなかったとしても。ちゃんと、きみのなかに残ってる」
考えるより先に言っていた。言ってから、はっと我に返る。リツカも、先ほどまでの不安に揺れる顔はどこへやら、きょとんと驚いた顔をしていた。
「め、ずらしい、ね? キャプテンがそういうこと言うの……」
「きみ、意外と情熱的なんだね?」
「待って」
「断言できないことは言わないタイプと思っていたけれど」
「待って!」
「どうして? いいじゃないか、やっぱりキャプテンは熱いものを持ってなくちゃ」
「らしくないこと言ったって自分が一番わかってるから待って! ていうかバーソロミューはもう完全におもしろがってるよね!?」
悲鳴じみた制止は聞き届けられることはなく、案の定調子に乗ったバーソロミューがけらけらと声を上げて笑う。それに紛れてだんだんと聞こえてきたのは、控えめなリツカの笑い声。振り返ると、いつかのように締まりのない顔で、体を小刻みに揺らして笑っていた。
「ふふ、はー、笑ったほうの涙になっちゃった」
大きく息を吐いて、指先で目元を拭う。きっかけがなんであれ、笑ってくれたならいいか。そう思うことにしよう、そうしよう。バーソロミューには非難の気持ちを込めた目線をじとっと送りつけたが、軽く受け流され、肩をすくめながらウインクをされた。
「バーソロミュー、ウインク似合うね」
「様になってるところが余計に……」
「お褒めの言葉として受け取っておこうかな?」
空気が和らぐ。その流れでそのままリツカが自室に引き上げてしまいそうに思えたので、意図して真剣な声で彼女の名前を呼ぶ。なに、と微笑んだ顔が向けられる。きれいに微笑む、マスターとしての彼女。だからこそ、これだけははっきり言っておかなければ。
「らしくないことを言ったとは、言ったけど。でも、全部本心だよ。時間は戻らないし、過ぎたことは返らない。だからこそきみの旅だって、なくなったりはしないよ。これまでも、これからもね」
「……覚えてなくても?」
「覚えてなくても。思い出せなくてなっても」
それに、と背後からバーソロミューが言葉を重ねた。リツカは何も言わない。ただ、真剣な眼差しを向ける。
「『ただの夢』をしばらく見ていないとしても、この先一生なんてことはあり得ない。何かの折に急に、昔の経験から生まれた夢を見ることだってあるかもしれないよ」
なるほど確かに、そういうこともあるかもしれない。既視感の正体を夢で見た人物や物事に求めるとき、本当はただ、無意識下で勝手に、元々知っている形に当てはめているだけなのだという。科学がこれだけ進歩しても解明されない、睡眠と夢。それならば、逆もまたあり得ると思ったっていいはずだ。
「そうしてまたいつか出会えると思えば、そう悪くはないさ」
「夢の中で……」
リツカの言葉を継いで、それはいいね、と呟く。
「キャプテンもそう思うの」
「絶対にないと断言はできない以上は、夢を見るかもしれない。それはつまり、可能性が存在するってことだ」
「そしてそれは、希望でもあるのではないかな」
「そういうこと」
バーソロミューに重ねて頷く。リツカは目線を落としながらじっと言葉を飲み込み、それからようやく、こわばった頬を緩めて、そうだったらいいな、と小さく笑った。
気持ちを落ち着けるように、リツカが大きく息を吸い、背中を丸めながら吐いた。俯いてぱさりと落ちた前髪で瞳が隠れる。いつの間にか窓の外が白んでいる。よし、と自分を鼓舞するような声。顔を上げる。
「ありがとね、ネモ」
白み始めたと思ったらもう、朝まであっという間だ。刻一刻と変わる夜明けの空の色も映して、瞳がきらきらときらめく。
「それは僕よりバーソロミューに」
「ううん。いつもこうやってただ聞いてくれるから、安心して弱音を吐けるの。バーソロミューもありがとう」
ようやく彼女の表情が、ニュートラルへと戻った。それをみとめてバーソロミューもまたにっこりと笑う。
「私はただ夜更かしに付き合っただけだよ。おかげで素敵なお嬢さんとうつくしい朝焼けまで見られた」
「またそういうこと言う。船乗りってみんなロマンチストなの?」
「おや、まだ見ぬ宝と浪漫を求めて海を征った海賊にそれを言うのかい?」
リツカの目線がちらりとこちらを向く。あの朝彼女に告げた言葉を思い出しているのだろうか。必ず守る、なんて。まあ、あれもらしくないことではあったけれど、本心だったことには変わりない。
嬉しそうに表情を緩めたまま、彼女は何も言わなかった。立ち上がり、くるりと窓のほうを向く。指を組み合わせて上に返して、ぐっと背伸びをする。それから一気に脱力。向けた顔はマスターとして立つときの表情だったが、取り繕うものではなく、彼女本来の強さが表れた良い顔をしていた。
「きっと私は、これからも夢を見て、魘されたり覚えてたり忘れたりするんだろうけど。それでも大丈夫って、おかげで思えた。まあ、また不安になることもあるかもしれないけどさ、きっと大丈夫。必ず嵐の向こうの目的地まで送り届けてくれる頼れるキャプテンが、カルデアにはこんなにいるんだもの」
戦い続ける彼女は凛としてうつくしい。でも、決してそれだけではない。だからこそ。
「部屋まで送りましょうか、レディ」
バーソロミューが微笑む。
「ううん、大丈夫。ありがとう。眠れないかもだけど、もう一回寝てくる」
「そうしておいで。おやすみ」
「おやすみ」
しっかりとした足取りで、自室へと帰っていくリツカ。その背中が角を曲がったのを、見送ったのだが。くるりと踵を返して戻ってきた。
「あの夢の話、これまで誰にも言えなかったの。だから内緒ね」
おやすみー、と間延びする声で言って今度こそ歩いていく。遠ざかる足音にバーソロミューと顔を見合わせ、それから同時に息を漏らして笑った。
「我らがマスターは大物だな」
「本当にね」
愉快そうに笑っている彼の様子に、さきのやり取りなどはもう気に留めていないかもとは思ったが、やはりきちんと謝りたくて頭を下げた。
「先ほどはすまなかった。失礼な目を向けてしまった」
「とんでもない。私こそ、まさか彼女がああいうふうに悩んでいるとは思わなかったから、不用意に口を開いてしまった。リツカは、いつもあんなふうに?」
「いつもではないよ、ただ雑談して帰るだけのほうがほとんど」
「きみがああして寄り添ってくれるから、あの笑顔が曇らずにいられるのだろうね」
「買いかぶりだよ。僕は何も言えなかった……バーソロミューが、きっぱり大丈夫だと言ってくれてよかった」
そう返すと、バーソロミューは嬉しそうに照れたように笑った。空気が和らいだ流れで、ふと気になったことを聞いてみる。
「そういえば、さっきのリツカの前髪で顔が隠れてた角度、ぐっときたんじゃない?」
「それは確かについうっかりメカクレチャンスとは思ってしまったけれども!!」
さすが食い気味の回答。ただすぐに、でもまあ、といつもの穏やかな調子に戻って言葉を続けた。
「私はあくまで光のメカクレを愛しているからね。彼女はあの明るい顔をしているほうがいいよ」
そのうえでもう少し前髪を伸ばしてほしい……とうっとりと呟く。あくまで愛でる対象であって、手に入れたくなるのとはまた別なのだろうか。その疑問が口に出ていたらしい。別だね、とバーソロミューがきっぱりと答えた。
「わざわざ星をただの石に落とすなんて、もったいないにもほどがある」
「『ただの石』、か。科学者連中に言ったら詰め寄られそうだけれど」
「でもそうだろう?」
きれいなものはきっと、遠く手の届かないところにあるからこそきれいなのだろう。それ一つでまばゆく輝く恒星がフランシス・ドレイクのような英霊だとするなら、彼女は北極星のような存在だ。星は空に輝いているのがいちばんうつくしい。船乗りにとっては、特に。
「そうだね。そうに決まってる」
微笑。そして、グラデーションの空へと視線を移す。ここではない、遠くを見ているような横顔。バーソロミューもまた、思い出せない記憶を夢に見ることを願っているのかもしれない。
「……海賊とは、奪って奪って、最後には結局奪われるものだけれど。それでもあの笑顔だけは、誰にも奪わせないままでいたいものだね」
バーソロミューの言葉は、自分自身に言い聞かせるようなものだった。他者の答えを必要としない独白。返事のかわりに、同じように空を見る。
「人たらしだね、全くあの子は」
「本当にね」
晴れた朝に、彼女の声が響いている。伏せられたまぶた。朝日に照らされる横顔は、今日もどこか神々しい。祈りの言葉が終わるのをじっと耳を傾けながら待つ。最後の一節を終えたリツカは、ゆるく組み合わせていた指をほどき、顔を上げて、微笑む。
「おはよう、キャプテン」
「おはよう、リツカ」
白い制服と燃えるような色の髪が、今日も、青空に映えている。
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