ランナーズ

 いつもなら見ないタイプの番組にもかかわらず、チャンネルを回そうとした志摩の手が止まったのは、そこに見覚えのある靴が映っていたからだった。左右で色の違う、オレンジと緑の靴。初めて会ったあの日に、伊吹が履いていた靴。
 一斉にスタートする二十人ほどの選手たち。彼らの大半が同じ靴を履いていることに気づいて、志摩はシンプルに驚いた。伊吹と同じ靴の選手たちもいれば、ショッキングピンクの靴の選手たちもいる。靴のことはよく知らないが、色違いのように見えた。
 あの靴、本当に足の速い人たちも履くような靴だったのか。
 パリオリンピックが終わって数ヶ月、スポーツ関連のトップニュースが入ってくる頻度は一気に低下した。それでも、オリンピックがあろうがなかろうが、ファンたちの熱量は大して左右されないらしい。液晶の向こうでは、陸上競技、なかでも箱根駅伝のコアなファンであるらしい俳優や芸人たちが、過去の印象深いシーンや注目する選手について心底楽しそうに熱く語り合っている。東京箱根間往復大学駅伝競走、通称箱根駅伝。正月の風物詩。冬がすぐそこまできていた。
「このときのことめちゃくちゃ覚えてます! 黒い弾丸!」
 アイドルとおぼしき女性のはしゃいだ声とともに、映像が切り替わった。いま映っている選手は、志摩のイメージの中の陸上選手の靴と同じような、底の薄い靴で走っている。文字通り風を切って走っていく。弾丸とは穏やかじゃないと反射で思ったが、そのあまりの速さについ笑ってしまった。
「あ~僕も覚えてる! 九区直後なのにまた走ってへんかった?」
「このまま大手町まで戻っちゃったんでしたっけ?」
「そうそう、自分で荷物持って。二十キロ以上走ってきた直後、しかも区間賞ですよ!」
「いや何度見ても置いてけぼりのアナウンサーおもろすぎるわ」
 伊吹が走る姿を見るたび、いまでも毎回新鮮に速いなと思うが、彼らはああいう速さで二十キロ以上走っていくのか。想像もつかない。
「え、だいたい四区とか九区のランナーってゴール直後のインタビューいなくないですか?」
「そうなんですよ普通は。でも蔵原くんはなんか間に合ってて。びっくりしたし笑いましたよね、ほんと速すぎ」
 ほどなくまた映像が切り替わり、別の選手の話題へと移っていった。同じ黒いユニフォームの選手。ゴール地点での胴上げ。彼らが繋いで勝ち取った瞬間に、彼も間に合って良かったな、と思う。

「勝俣が学生の頃って、どんな靴履いてた?」
 翌日。なんとなく気になり、うどんを茹でていた勝俣に声を掛けると、不思議そうな視線を返された。
「くつ、ですか?」
「シューズ。陸上の。厚底だった?」
 問いを重ねると合点したようで、ああ、と大きく頷く。流し台で網を持って志摩が待ち構えると、勝俣はぺこり会釈をしてから一気に湯切りをした。ぼこっとシンクが音を立てる。立ち上る湯気。
「自分が高校の頃は普通でしたよ。厚底が主流になったのってここ数年じゃないですか」
「へえ」
「なになに、なーんの話?」
 いつものように軽い足取りと口調で、皿を取って戻ってきた伊吹が会話に加わった。一瞬、五年以上前のことを覚えているのかと引かれるのではと思ったが、なんでもないことを変に誤魔化し取り繕うのも嫌だったので、素直に答える。
「昨日たまたま箱根駅伝の特集番組見てたら、伊吹と同じ靴ばっかだったんだよ」
「俺の? これ?」
「いや、初日に履いてたやつ。緑とオレンジの、左右色違いの」
 伊吹はわずかに目を丸くしたが、ふうんと頷くのみで特に何も言わなかった。上がる口角を抑えようとして変な顔にはなっていたが。
「で、いつの間に厚底の靴ばっかになったのかと思って、聞いてたとこ」
「なるほど、それでだったんですね」
 特段言葉を交わすまでもなく、いつものルーティンで昼食の準備を進める。勝俣がうどんを盛り、伊吹が箸とコップを並べ、志摩がそこに作り置きの麦茶を注ぎ、電話につかまっている陣馬の代わりにサラダを取り分ける。誰がうどんを作るかはローテーションだが、それを基準にいつの間にか各自の分担が決まり、今では特に会話も指示もいらない。
「あ、陣馬さん、おかえりなさい」
「わりい、午前引き渡した件でつかまってた」
「自分何か不足がありましたか」
「あぁ違う違う。ちゃんとカツが説明したのに聞いてねえあいつらが悪いんだよ」
 志摩は勝俣がほっと表情を緩めたのを確認してから、ちょうどですよ、と食事のほうに目線をやった。それぞれの定位置に座り、口々にいただきますと言ってから勢いよくうどんをすする。大きな一口を飲み込んでから、勝俣がすみません、と眉を下げた。
「ちょっと茹ですぎましたね」
「そうか? いつも通りうまいけど」
「てか陣馬さんが上手すぎんだよね。どこのやつかによって茹で時間違うのに、いつも絶妙じゃん」
「そりゃ作ってきた数がちげえからな」
「それもう親方の台詞じゃないですか」
 いいんだよ、と大きく陣馬が頷く。
「うどんを茹で過ぎようが、ひっくり返そうが、大した問題じゃねえよ。だんだん慣れていきゃあいいよ」
「ひっくり返すのは勘弁してほしいですけど。もったいないし掃除も大変だし」
「志摩っ、おまえはまたそういう、そういうことじゃねえんだよ」
 三人は会話の合間も止まることなく食べ進めていく。勝俣も、はい! と大きな返事をするとようやく勢いよく食べ始めた。その様子を横目で見届けてから、伊吹がそういえばさ、と口を開いた。
「志摩ちゃん、よく覚えてたね? 俺のシューズ」
 戻された話の矛先になかば気まずさを感じつつ、志摩はうどんを追加で口にする。隣では勝俣が、二人が組んだ初日に伊吹さんが履いてたランニングシューズが昨日番組に出てたんですって、と陣馬にあらすじを説明していた。
 うどんを飲み込む。これは気まずさではなく気はずかしさだな、と思い直した。
「駐車場で会っただろ。あのとき、派手な靴だなぁと思って、そのままなんか覚えてたんだよ」
「いやね、やっぱ初日じゃん? 気合い入れねーとなーってヴェイパーにしたから、それを志摩も覚えててくれて嬉しいわけよ」
「えっ!」
 その言葉を聞いて、勝俣が声を上げた。
「緑とオレンジって、ヴェイパーフライですか! ああ~そうかその頃ですよね、すごいですね伊吹さん……!」
「そうなの?」
「そんなに?」
 志摩と陣馬が同時に聞き返し、勝俣が大きく頷く。
「厚底のシューズって、反発力があるのでめちゃくちゃ速く走れるんですけど、その分バランス取りにくかったりとか、慣れてないと怪我しやすかったりするんです」
 にこにこと饒舌に語る姿が、志摩が昨日見た番組の出演者に重なった。陸上が好きで一生懸命だった、普通の高校生だった勝俣。いま、自分たちと機捜うどんを食べながら、こうして楽しげに陸上の話をできるようになったということ。
「確か、厚底のシューズが出てから、マラソンとかいろいろ、相当記録更新されてたはずですよ」
「靴ひとつでそんなに変わるもんなのか、すげぇな」
「パリのリレーもさ、新記録ばっかですごかったよなー。志摩見た?」
「それは俺も見た」
「十年待たなくても、どんどん変わっていくな~。人間は人間のまま、どこまでいけるんだろうね」
 伊吹のその明るい声に、志摩の箸が一瞬止まる。それから、また動き出す。
 記録はどんどん塗り替えられていく。どんなにすごい記録が出て、これはもう当分超えられまいと思っても、そのうち必ず上回る誰かが現れる。絶対に。
 果てがないということは選手にとっては呪いのようなものだなとこれまで志摩は思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。前提として、当人たち以外には本当のところはわかろうはずもないが。それでも、伊吹の言葉が志摩に別の観点を与えたことは確かだった。根本の部分で自分とは全く違うからこそ、思いもしない角度からぱっと投げ掛けられるスポットライト。
 伊吹と出会わなかったら、自分はランニングシューズのことを気に留めることはなかっただろう。
「そんなすげえ靴ならよ、みんな履けばいいのにな」
「まあ、合う合わないとかもあるらしいですから」
 異動を控えた伊吹が、あの靴を履いてひとりで走っている姿を思い浮かべる。四機捜に来たから間に合ったもの。……四機捜に来ることにならなかったら、間に合ったかもしれないもの。結局、その時の何かがどう転ぶか、誰にもわからない。そもそも行動のひとつひとつには意味はないのかもしれない。ただ、それらがより合わさって、絡まり合って、後から振り返ったときに意味を持つだけで。
「慣れるために走ったりしたか?」
 志摩が聞くと、伊吹はまあね~といつものように軽い調子で答えた。
「俺らもさ、一秒を競う選手とかには全然敵わねえけどさ、それでも、やっぱ少しでも速く走って追い付きたいよね。足でも車でも、自転車でも」
「……そうだな」
 過去は戻らない。時間は不可逆である。常に、良いことも、悪いことも。志摩だって、きっと伊吹に出会う以前のほうが刑事として優れていた部分もあった。同時にそれは人としては欠落だったのかもしれない。正解はわからない。これからも、誰にも。答えがないことは苦しいが、同時にきっと希望でもあるのだろう。
 かつて、強くなければと思ったことがあった。伊吹に正しいままでいてほしいと思ったことも。でも、伊吹と出会って数年が経ち、自分の本心はそういうことではないのかもと思うようになっている。強くなくても、正しくなくてもいいから、ただ伊吹がこの先もただあるがままにいるなら、それだけで。
 志摩が伊吹と出会って五年が経った。順風満帆なわけではない。かえって煩わしいことも増えたし、ぶつかることだってある。戸締りは伊吹のルーティンに組み込まれたが、手袋は今も半々。それでも、伊吹と過ごす日々のなかで解像度が増したことのほうが、遥かに多い。そして、この場所を通じて出会った人々によってもたらされたものも。
 他者と生きていくことは、ときにとても面倒で窮屈だ。ただ、それも存外悪くはない。悪くないと思えるのが、いまの志摩だった。

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