そうして前を向く

 本当にひとつしか年が違わないのか不思議になるほど、手嶋にとって、それから青八木にとって田所は尊敬する先輩だった。「オレがおまえらを強くしてやる!」と大きく胸をはりながら大きな声で言った、よろしくお願いしますと九十度のお辞儀をした自分たち二人の頭をがしがしとかき混ぜて、大きく口を開け大きな声で嬉しそうに満足そうに笑った田所をきっと自分は一生忘れないだろう。あの日のことを思い返すたびに手嶋はそう思う。体格以上に心と懐が大きい田所はすぐさま手嶋の憧れの先輩になった。そうして自分もまた、後輩ができたら田所さんのような大きくてかっこいい先輩になりたいと思うようになるのも至極当然のことだったのである。
 入学式の数日後、廊下で今泉の姿を見たとき、手嶋は自分で思ったよりもはるかに動揺しなかった。ウェルカムレースから帰ってきた三年生が期待以上だった今泉と鳴子の実力や小野田の驚異的な追い上げについて興奮ぎみに話すのを聞いたときも、同じく。学年が変わった途端にめまぐるしく変わりはじめた、自分をとりまく状況を、いつだってどこか冷めた頭で聞いていた。それは自分たちにどうにかできることなんてないのだとある意味達観していたからなのかもしれない。インターハイのメンバーを決めるのは三年生だ。そう思おうとしているくせにぼんやりと目の前にぶらさげられた「インターハイの椅子」という運と努力と実力を対価にもらえる景品はいつだって視界の端に捉えていて、しかしそれもどこか現実みはなく、手嶋にとって現実みがあったのは青八木と走っている瞬間、それから田所や金城、ときおり巻島から指導を受けているときだけだった。
 そんな数ヵ月も、もう完全に過去になってしまったのだけど。
 よいしょ、と体を起こして足を走り抜ける痛みをごまかしながら手嶋は窓を見た。カーテンは閉めきられているので当然外は見えない。けれど妙に寒々とした空気とわずかに耳に届く音から雨が降っていることはすぐにわかった。
 体は泥のように疲れているのに頭が冴えているせいで眠って現実逃避することもできず、こうしてもう何時間もぐるぐるといろんなことを考えている。隣の布団に早々に潜りこんだ青八木と言葉を交わすこともない。青八木も青八木できっとなにかをずっと考えているのだろう。話す気分にはなれなかったからちょうどよかった、と手嶋は膨らんだ布団に視線を落としながら思ったが、それは彼もまた同じだったのかもしれない。ずきずきと痛みをうったえてくる部分を手慰みのようにさする。さすって痛くなくなればいいのに、なんてぼんやりと思った自分にふっと笑いまじりの息がもれた。痛いものは痛いんだから今更しょうがないのになあ。
 インターハイに向けて二人でひたすらに走り込む日々、後輩に接する時間はそこまで長くはなかったが、その短い時間のなかでも手嶋はいい先輩であったと思う。少なくとも、自分としてはそうであろうとしていた。今泉、鳴子、杉元は放っておいてもそれなりに自分でなんとかするし、わからないことがあれば向こうから尋ねてきた。小野田ひとりが例外だった。声をかけて他人の手を止めてしまうことにひどく躊躇するらしく、あたりを見回してはなんとか自分ひとりで対処しようとして、しかしできずに立ち尽くす姿を何度見ただろう。そんな彼の面倒を見ていたのは基本的に三年生だったが、彼らがいないとき、小野田の肩をぽんと叩いていたのは基本的に手嶋だった。テーピングの置き場がわからなかったときも、指示された機材がどれを指しているかわからなかったときも、外れたチェーンを直そうと周回の途中で慌てふためいていたときも。
「てっ、手嶋先輩、ありがとうございます!」
 多少挙動不審になりながらも笑顔で言う小野田に、なんでもないことのように「気にすんなって。またなんかあったらすぐ言えよ」と返しながら、本当はとても嬉しかったのだ。
 いい先輩になりたかった。だから無茶な走りをする小野田を見ていて体力マネジメントの苦手な青八木みたいだとひとり笑って、そのうち四十秒しか全力スプリントが続かないことに気づいた。かっこいい先輩でいたかった。だけど自分が弱いせいでかっこわるく策略を練って嫌がらせのように進路を塞ぐしかなかった。尊敬されるような、かっこいいと思ってもらえるような先輩になりたかった。田所さんに恩返しがしたかった。青八木と二人で、田所さんと一緒にインターハイに行きたかった。悔しい、今泉が、鳴子が、小野田が、インターハイに行きたいなんて思わなければいい先輩でいられたのに。ずっと優しくしてやれてたのに。違う、そうじゃない、自分の力が足りなかったからだ。文句のつけようもないほど強ければ、速ければ、こんなことする必要最初からなかった。逆恨みにもほどがある、なに考えてんだオレ。かっこわるい。でもそうでもしないと勝てる可能性すらなかった。インターハイに行きたかった。いい先輩でいたかった。嫌なやつだと思われるようなかっこわるい先輩にはなりたくなかった。でもしょうがなかった。それでも勝てなかった。だけど、それでもまだ、いい先輩でいたい。かっこわるい嫌な奴だと思われたくない。もう遅い。だけど、だけど、だけど。
 ざあっ、と流れている雨の音があふれる前の涙を飲み込んでゆく。ままならない。強さがなければやりたいことをやりたいようになんてできない。そんなこと、ずっと昔からわかっているのに今もなお、頭のなかではだけどとでもがぐるぐるとめぐっている。これ以上ないほど泣きたい気分なのに、涙腺はぴったりと栓が閉まっているらしい。どこまでも不毛だ。
 そんな思考回路を無理矢理ぶったぎって終わらせるようにばたんと背中から布団に倒れる。天井に向かって手を伸ばして、ふと、ここ数週間であっさりと四十秒の限界を越えていった小野田はいったいどこまで行くのだろう、と思った。それを皮切りにまた不毛な連想ゲームが顔を出しそうになって慌てて目を閉じる。やっぱりどこまでも不毛だった。

 翌日夜、午前零時直前、小野田が千キロを走破したことを手嶋と青八木の部屋まで伝えにきたのは杉元だった。
「遅くにすみません。小野田がさっき、千キロ走りきりました。……あの、一応伝えたほうがいいんじゃないかなーと思って……えっと……夜分にお邪魔してすみませんでした……ははは」
 少し開けた扉から顔と上半身だけをのぞかせた杉元は、尻すぼみになりつつ気まずさを笑ってごまかしあっさりとまた扉を閉じた。一分もいなかったと思う。閉じた扉の向こう、足音が遠ざかって聞こえなくなるとほぼ同時に二人は顔を見合わせた。
「……杉元ってさ、いいやつだな」
 こくり、青八木が頷く。
「これで、決まった」
「そうだなあ。オレたちもサポートがんばろうぜ」
 震えそうになる声を、わざとらしく荷物を整理する音でごまかす。そんなことをしたって青八木はたぶん気づいているはずだったが、昨日のうちに踏ん切りをつけたはずの不毛な連鎖を青八木の前に晒すくらいなら死んだほうがましだった。
「……オレ、ちょっと外出てくる」
「わかった」
 そう言ってのろのろと立ち上がり、一歩一歩に時間をかけながら廊下を進む。出てくるとは言ったものの行く宛も別にない。なにより誰にも会いたくなかった。
 けれど、そういうときに限って誰かにーーしかも一番会いたくない人間に出会ってしまうように世界はできているのだから、神様もいい加減性悪だ。角を曲がったとたんに出くわした小野田はひどく驚いた顔をしていて、今日もまた挙動不審になっていた。タオルを抱えているところを見ると今から風呂らしい。
「てっ、てっ、手嶋先輩!」
「おーおつかれー。いまから風呂? ちゃんと筋肉ほぐせよー」
「あっ、あの、手嶋先輩、ボク!」
「千キロ走りきったんだってな。さっき杉元から聞いたよ。すげえじゃん。アドレナリン出てるから今は眠くないだろうけど、疲れてんだから早く寝ろよ」
 じゃあ。
 先回りして言いたいことだけを一方的に言い、すっと隣を通りすぎる。いまはまだ小野田とは話したくなかった。もう少し、心の整理がちゃんと完全に終わるまでは距離を取りたかった。もっと速くなる小野田を見たいと思ったのも、クリートを貸そうと思ったのも、そのとき小野田に言ったこともすべて本心だ。だけど。がしゃん、と、濡れた地面に落ちた音が耳の奥によみがえる。大事に使っていたビンディングペダルとシューズ、ずっと一緒に戦ってきた戦友をぞんざいに地面に落としたことが喉の奥に刺さった骨のようにずっと引っ掛かっている。大事に扱ってきたそれらを、本当はちゃんと手渡したかった。でも、昨日の今日ですべてを割りきれるほど、手嶋はまだ大人ではなかった。
「てっ、手嶋先輩!」
 そして、大人ではなく、かといって自分のことだけを考えていられるほどの子供でもなく、聞こえないふりをして歩き去るほど冷淡でもないから、呼び止められて手嶋は振り返ってしまう。
「あ、ありがとうございました……! 手嶋先輩が、クリート貸してくださらなかったら、ボク、絶対間に合ってませんでした。あ、ありがとうございます、大切なもの、貸していただいてありがとうございました!」
 九十度のお辞儀をした小野田の背中が霞んだ。大切なもの、そう、大切なものだったんだ。ずっとずっと、大切にしてきたものだったんだ。
「小野田、」
「はいっ!」
 がばっと体を起こして返事をする。元気のいい返事に、ふっと自然と笑いが漏れた。
「まだ慣れねえだろうからさ。帰ったら、あれ、おまえのママチャリにつけてやるよ。そしたら通学で乗ってるうちに慣れるだろ」
「えっ、え、いいんですか!?」
「おう」
「ありがとうございます!!」
 嬉しそうに目を輝かせ、また勢いよくお辞儀をする小野田に、だから今日は早く寝ろよ、じゃあなーとひらりと手を振り歩き出す。もう一度、背中からありがとうございます! という声が聞こえ、それからぱたぱたと足音が遠ざかっていった。いい時間だし自分もはやく寝よう。足が部屋へと向く。今日は正しく眠れそうだった。ぶんぶんと左右に振れる尻尾が見えそうな小野田を思い出し、くすくすと笑いながら、田所さんにお願いしたときの自分たちもあんな目をしてたのかな、そんなことを思った。
 部屋に戻ると青八木がぼんやりと外を見ていた。首をめぐらせおかえり、と言う彼にただいまと返す。壁際に寄せられた布団に手を伸ばすとほぼ同時に青八木も立ち上がり、二人して無言で三つ折りにされた敷き布団を広げた。
「小野田に会ったよ」
「……」
「いまから風呂だって」
「……そうか」
「オレさあ、田所さんみたいな先輩になりたいな」
「……じゃない、」
「ごめ、なに? よく聞こえなかったわ」
「なりたい、じゃない」
「え?」
「なる、だろ」
 行きたいじゃねえ、行く、だろ。しっかりと言いきった先輩が脳裏にうかぶ。
「そう、そうだったな、……」
 いい先輩に、かっこいい先輩になりたい。じゃなくて、なる。
 学年が変わり、後輩ができて、めまぐるしく変化した周囲の環境はいつだってどこか現実味がなかった。上から俯瞰しているような、冷めた頭で聞いているような感じがしていた。それは自分たちにどうにかできることはないとある意味達観していたからかもしれなくて、でも、走っているときもそうでないときも常に全力だったことだって、間違いのない事実なのだ。
「帰ったら、小野田のママチャリにクリートつけてやることになったんだ」
 その一言でいろいろなことを察したらしい青八木は、少し目を見開いて、それからどこか得意気にも思える笑顔をうかべる。
「手嶋は、いい先輩だな」
「は? いや、そんなことねえよ。だって、ほら、あんな煽るようなことばっか言ったし……てかさ、オレらすっげえ真剣に煽り方考えてたけど、今から考えるとチョコレートココアってほんとなんだよまじで……ティータイムとか……雑すぎだろ……」
 青八木がそれは……と言いたげななんともいえない顔になったのを見て、手嶋もなんともいえない気持ちになった。
「いや、まあ、それは置いとくとしてもさ。そこまでしても勝てなかったし、かっこわりいし、気に障るようなことばっか言って……あいつらからしたら、オレすげえやな奴じゃねえ?」
「大丈夫だ」
「大丈夫って……いや、大丈夫な要素どこにもねえだろ」
「田所さんみたいな先輩になるんだろ」
「……おう」
「じゃあ、なれる。手嶋がほんとはそんなやつじゃないって、一年もすぐにわかる。手嶋はまわりのことよく見てるし、よく気がつく。絶対田所さんみたいになれる。オレが保証する」
 そう自信満々に言いきる青八木に、言いたいことはいろいろあるのに。
「ぷっ……ふふ、あははは」
「手嶋?」
「な、なんで、青八木がそんな胸はってんの……っ」
 なんでおまえが自信満々なんだよ、先のことなんてわかんねえだろ、そう笑い飛ばして、それから、ありがと、元気出たわ、青八木の肩を小突きながらそう言いたいのに、今日に限って爆笑しながらもぼろぼろと涙が出てきてしまう。
 いつだって、こうなりたいと思う自分になりたかった。
 たぶん、まだもう少し引きずると思う。一年を懸けてきたのだから当たり前だ。なにかの折りにこのやりきれない気持ちを思い出して苦しくなるだろうけれど、でも、そうしていつまでも同じ場所に留まってはいられない。
「青八木、走れるようになったら、またがんばろうな」
「当然だ!」
「よし!」
 勢いよく濡れた目尻をこすったらひりひりと痛んだ。ひりひり、ずきずき、痛む体のあちこちはすぐに治る。まだもう一年ある。クリートを小野田のママチャリにつけ替えてやる前に、ぞんざいに扱ったこと、ちゃんと戦友に謝らないといけない。そうしたらまた顔を上げて進んでいける。自分のできることを全力でやっていける。午後に雨が止んだからか、今日は星がよく見える。明日はきっと快晴だ。

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