遅い。いくらなんでも遅いと思いながら、腕時計に目を落とす。入国手続きを終えた先で振り返り、人波の奥を見つめる。いくら預けた荷物が出てくるのが遅かったとしても、もう出てきたっておかしくないのに。
いい加減連絡しようかとスマートフォンを立ち上げたそのとき、ようやく自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、顔を上げた。
「黒須さーーーん!!!」
遠くから、半泣きの後輩が大きく手を振りながら駆けてくる。大型スーツケースを後ろ手に引きながら走るものだがら、それなりの重さだろうにガッタンガッタンと大きく左右に揺れている。すごい揺れ方だなと黒須はつい笑ってしまった。
「お待たせしました……っ!」
JKT資源開発営業部の後輩、後藤は息も絶え絶えになっていた。額に汗が浮いている。直前まで何事かと心配していたのに、いざ目の前に姿が見えるとそんなに走ってこなくてもよかったのにと思う。
「すごい時間かかってたけど、何かあったの? 大丈夫だった?」
安心させるように言うと、彼女は息を整えるように大きく肩で息をして、そしてものすごい勢いで話し始めた。
「それが、黒須さんに追い付こうと思って小走りしてたんですけど、なんか預け荷物を引いてたらゲートの直前で引き留められて別室に連れていかれて……なんか怪しい? ものが入ってる? 的なことを言ってるみたいだったんですけど、英語じゃないからわからない、って言い続けて、怪しまれてるみたいだったから黙ったら負けだと思って、とにかく英語で仕事の出張でこれは取引先への手土産だって説明し続けたらなんかよくわからないけど解放してもらえました! なんとかなって本当によかったです!」
そう言って後藤が満面の笑みを浮かべるので、黒須は思わず吹き出した。後藤の年齢は太田と同じか、少し下くらいか。新興国初出張の洗礼エピソードは社内のあるあるネタではあるが、彼女はなかなかに引きが強いようだ。
肩を震わせて笑う黒須を不思議そうに見つめながらも、修羅場を乗り越えた安堵のほうが強いのか、後藤は変わらずにこにこと笑っている。
「いや、災難だったね。何事もなくてよかったよ」
「それは本当に……お待たせしてしまいましたが本当によかったです。というか黒須さん歩くの速くないですか!? 気づいたら見失ってて焦りましたよ」
肩からずり落ちそうな鞄を抱え直しながら後藤が言う。通常の範囲内の振る舞いで歩いていたつもりだったが、確かに人波に紛れて流されていくのが上手いのは半ば癖のようなものだろう。
「後藤さんも慣れたら普通に出てこられるようになるよ」
「早く慣れたいです、こんなの毎回だったら心臓持たないですもん」
後藤はハンカチで汗を拭い、鞄に戻したその流れで地図の書かれた行程表を取り出した。すでにこの一帯の地図は頭のなかに入っているが、一介のエンジニアの顔で一緒に地図を覗き込む。
「まずは空港線ですね」
折り目にそって丁寧にメモを畳み、ポケットにしまった後藤が辺りを見回す。すぐに標識を見つけたらしく、ほっとしたように息を吐いた。そして歩き出した後輩の数歩後ろをついていく。お行儀よく引かれているスーツケースに、先刻の荒ぶり方を思い出して笑ってしまった。
今回の出張は、珍しく完全に社業としてのものだった。会社としてさすがに若手を一人で送り出すわけにはいかない。黒須は本人の根回しの甲斐もあり単独出張の立ち位置を確立してはいるが、稀に後輩についていってやれと言われることもある。今回もそのパターンだった。言ってしまえばお守り役なので行動の自由はほとんどないが、どこにどう情報が転がっているかはわからないので黒須としても悪くない話ではある。
そんなわけで降り立った地は、数週間前から若干情勢がざわついていた。初出張の合間の自由時間を楽しみにしていた様子の後藤は残念そうだったが、こればかりは仕方ない。
「用事が終わったあと、もしかしたら出掛けられるかもと思ってたので残念です」
「仕方ないよ、安全第一だから」
「まあまた機会もありますもんね。おみやげ話は思いがけずもうできましたし」
そして完全な偶然ながら、宿泊先が乃木の別班としての仕事先とも近接しているのだった。会話の流れでそれが判明したときには、さすがに乃木も目を丸くしていた。
「帰りに空港でうまいもん食べてから帰ろう」
「はい! 楽しくご飯食べられるようにまずは仕事頑張ります」
後藤は鞄をしっかりと体の前に抱えながら大きく頷いた。電車を待ちながら、初めて目にするすべてを焼き付けるように、しきりに周囲を見回している。楽しんでいるのを隠しもしない後輩の様子は微笑ましい。一定の正しい用心はしながら、平穏に出張に行って帰ってくる同僚を間近に見ると、心が落ち着く。こういう「普通」を守る一助を担っているのだと再確認するたびに、誇らしく思う。
「後藤さんは今は誰と組んでるんだっけ」
「管理職は江田さんですけど、基本は三島さんについてます。三島さんに、黒須さんにご迷惑をおかけしないようにって念押しされました」
後藤のニ年前に入社した三島は陽気でいて気配りのできる男なので、後藤が話すことも織り込んでそう言ったのだろうと容易に想像がついた。ちゃんと話のタネになってるよ三島さん、と内心で苦笑する。
「あの人陽キャだからなー、やりにくくない?」
「全然そんなことないです。お客様と打ち解けるのも話を進めるのも早いのでとても勉強になって……、本当はもっと組んでいたいんですけど」
「そういえば来期異動らしいね」
相当三島と馬が合っていたらしい。彼の異動先について話す後藤はしょんぼりと項垂れて見えた。
「黒須さんには、この人! っていう上司とか先輩の方はいらっしゃいますか?」
不意に話を切って、後藤が問い掛けた。思い浮かべるのはもちろん一人の顔。それを表層には出さず、後藤さんみたいなのはないなあと当たり障りのない答えを返した。
四泊五日の出張はそれなりに予定の詰まった行程ではあったが、つつがなく終了した。まあ、一般企業の出張がつつがなく終わらなかったらそれこそ大問題なのだが、それはさておき。
緊張から解放されたらしい後藤はラウンジの軽食を嬉しそうに頬張っている。さすが上司に仕込まれているだけあり、後藤は愛想も交渉力も申し分なかった。話し好きなのか道中の雑談は多かったが、一度も荷物から手と目を離さなかったし、オンオフの切り替えも普通の会社員としては問題ないと言って差し支えないだろう。身を置いている場所が場所だけに、普通の、などという前置きを置いてしまうのも一種の職業病だなと思いながら黒須はコーヒーを口にした。
「黒須さんはおみやげ何になさいますか?」
「ばらまき用の?」
こっくりと頷く。入社したばかりの頃は職場に上手く溶け込む目的もあり買っていたが、そういえば最近はめっきり買っていなかったなと気づいた。飛び回っているので際限がないのと、何より単純に荷物になる。
「もうめっきりだな……そもそも買っていく頭がなかった」
「あはは、確かに、黒須さん出張多いですものね」
「途中からもういいかと思って……もう当たりはつけてるの? 搭乗前に見に行く?」
「ありがとうございます、はい、ぜひ」
時計に目を落とす。ラウンジを出るには多少早く、搭乗まで待つかもしれないが、許容範囲だろう。残った一口分のコーヒーを飲み込む。乃木はもう任務を終えて帰国しただろうか。万が一などそもそも起きない人ではあるが、怪我なく、残る疲労も少ないといいなと思う。
後藤は手当たり次第に店に入っては手にした箱をひっくり返しては戻していたが、結局どこの店にも置いてあった、定番の菓子に決めたらしい。指折り部署の人数を数え、二箱をかごに入れた。
「三島さんにも買っていこうかな……」
ぽつりと呟いてから、うろうろとさまよい出した。特にすることもないので彼女のあとをついていく。こうして土産物店をじっくり見て回るのは数年振りだった。なんとなく、黒須もそれらを手に取っては眺めてみる。
「黒須さんもどなたかに?」
くるりと振り返った彼女が聞いた。乃木におみやげを買っていくということ。ないな、と思い一瞬浮かんだ考えを打ち消す。第一、次にいつ会うのかもわからない。
「いや、ちゃんと見るのは久しぶりだから。これなんかどう?」
茶葉の箱を手渡すと後藤はまじまじと見つめて数秒考え込み、それから、大きく頷いた。
「うん、こっちにします。お菓子とお菓子よりいいかも。お茶いいですね、ありがとうございます。買ってきます」
ぺこりと頭を下げてレジに向かう彼女を見送り、店を出たところで待った。周囲で交わされる会話はありふれた空港の会話だ。平穏で平和。それが何よりも尊い。
お待たせしました、と袋を手に後藤が出てきた。連れ立って搭乗口に向かう。スーツケースを預けて身軽になった後藤が、黒須の引く小型のスーツケースに視線をやった。
「黒須さん、本当に荷物少ないですね。四泊なのに機内持ち込みサイズ……しかもそのなかでも小さいやつ……」
「仕事の荷物、全部後藤さんが持ってくれたからだよ」
「それにしてもですよ。私が荷造り下手すぎるのかな……」
首をひねる姿を見ながら苦笑した。その気になれば手持ちの鞄ひとつに収まると言ったら彼女は卒倒しそうだ。荷物が少なすぎると疑問を持たれるから、怪しまれないようにスーツケースだけ大きくしてるんだよね、と乃木が悩ましげに言うのを聞いたのは組み始めたばかりの頃。そのときは一体何をと思ったが、自分も同じ道を辿っている。実際、スーツケースのなかはだいぶ余裕がある。
ほどなく搭乗開始のアナウンスが流れた。そろそろですね、と後藤が腕時計に目を落とす。往路と同じく、復路の座席も数列離れている。帰国後は流れ解散にしても許されるだろうか、この場合どこまでついていくのが正しい振る舞いなのだろうか。そんなことを考えながら動き出した人波をぼんやりと眺めていると、後藤は改まった様子で黒須に向き直った。
「荷物の引き取りでお待たせしてしまってもいけないので、こちらで先にご挨拶を。今回の出張では大変お世話になりました。色々と至らないところもあったと思うのですが、黒須さんのお仕事を間近で見られて大変勉強になりました。ありがとうございました」
丁寧なお辞儀を見つめて、かすかに目を見張った。とりわけ表の仕事において、予想外の事態が起きることは限りなく少ない。イレギュラーがないのではなく、あらゆる事態を想定して、枝葉のように分かれる分岐の先の対応をいつだって考えているからだ。潜り抜けてきた修羅場の数と深刻度が違いすぎて、ほとんどが黒須の想定の範囲内に収まる。それでも、ごく稀にこういうことがある。
考えを先回りされたことへの小さな驚きと、良い意味で裏切られたことへの喜び。朗らかで快活。上司たちが期待感をもって彼女を育てているのも頷けると思った。
「こちらこそ、五日間お疲れさまでした。帰りまで気をつけて。明日は休み?」
「いえ、午前だけ出社です。午後はお休みをいただきました」
「じゃあほぼ三連休だ」
「はい」
優先搭乗の列が動き出すのを見て、ありがとうございましたと改めて後藤が一礼した。
「じゃあここで。スーツケース、空港から着払いで会社に送っていいから」
「そうします。ではこちらで失礼いたします」
「お疲れさまでした」
会社員らしくお互い会釈を交わしてから、するりと列に溶け込んだ。機内に向かうまっすぐの通路を進みながら、ほっと息を吐く。大変ということはないが、それなりに気を遣ってはいたので、気疲れはあった。普段は持たないスーツケースが邪魔だ。早く帰って、身ひとつになりたい。
日本まで眠ろう。背もたれに体を預けて瞳を閉じる。よく懐く後輩を持つというのはこんな気分なのか。彼女が懐いているのは自分ではないが。でも、乃木さんは俺が何を言ってもやっても予想外ってことはなさそうだな。
ふと、前回櫻井に対面で報告を行ったときの、去り際のやり取りを思い出した。
「黒須さん。あなた、もしほかの人と組むように言われたらどうするの」
「変わらず自分の責務に全力を尽くします。……何か不始末がありましたでしょうか」
「いいえ。そういうことではないのだけれど、まあ、ならいいわ。引き続き乃木さんと組んでもらうからそのつもりで。一層の成果を期待します」
櫻井の穏やかなのに真意の見えない視線と、一瞬滲んだ、わずかな呆れ。なぜそんなことを急に聞かれたのかはわからない。わからないが、それ以上の会話はなかったし、乃木との連携はそのあとも継続している。
離陸に向かう飛行機がガタガタと揺れる。加速するエンジン音が耳をつんざく。思い出した櫻井の声が、それに紛れて消えていく。
自分を育ててくれた相手。自分の根幹に深く食い込んでいるひと。それでも、会社も別班も、組織であることに変わりはない。いつか自分も乃木のもとを離れる。この数年、その日がいつきても後悔のないように、という思いだけがある。
その子も災難だったねえ、と苦笑いする乃木の声が、左耳をくすぐった。定位置のように助手席に収まっている乃木は、いつも目元を和らげて控えめに笑う。
「旅に不慣れそうな若い子だから目をつけられたんだろうね」
「でしょうね。賄賂狙いだったんじゃないかと言ったら絶句してから、渡してたら経費で落ちますか? って言ってました」
「ふふ……っ、稟議上は運搬費名目にするのかな」
愉快な声色を聞いて、自然と黒須も声を漏らして笑ってしまった。乃木の任務のサポートの指示がくだったのは、帰国から一週間もたたないうちだった。内容としては、高級料亭で行われる密談現場に潜り込んでの情報収集のみだったのだが、いかんせん場所が場所なので一人では入れない。お互いスーツを着ていればなんらか仕事の間柄だろうと見られる。そこで、堂々と正面玄関から入ることにしたのだった。
「ああでも、手土産で引っ掛かった人の話は聞いたことあるな」
「預け荷物ですか?」
「そうそう。取引先に羊羹を持っていこうとしたら、金塊と間違われたって」
「えっ、実話ですか」
「実話。もう十年以上前だけど。ほら、形が似ていてエックス線で真っ黒になるから」
「はあー、いやそれもすごいですね」
金塊って、とつい笑って肩が揺れた。こうして互いの会社のなんでもない話をしていると、ただの一般の知り合いのような気分になる。会社の先輩と後輩、仕事上の知人、はたまた友人。会話は弾むがバックグラウンドまで踏み込むことはない。一般の知り合いのようだとしても、友人には程遠い。
信号。なんとなく会話が途切れる。アイドリングストップが作動して、乃木の息づかいが一層クリアに聞こえるようになる。こんなに早く会うのだったら、やっぱりおみやげのひとつでも買っておけばよかったと、過ぎたことを思った。
「髪、」
「はい?」
「少し直したんだね。眼鏡も。もさもさしててかわいかったのに」
かけられた言葉に思わず左を向くと、いたずらっぽく笑う上司。今度は黒須が苦笑する番だった。
いずれまた使うとも限らない場所が現場のときには、多少なりとも他者に与える印象をコントロールする。念には念を入れていつもよりも髪を乱し、伊達眼鏡もかけてぱっとしない見た目にしていたが、そこをほめられても。というか、そんな小手先に頼らず何もせずとも、目線で、仕草で、立ち居振る舞いで、軽々と別人の印象を与える乃木には未だ遠く及ばない。
「尊敬する先輩の前では少しでも格好つく姿でいたいですよ、そりゃ」
青に変わる。発進。アクセルをゆっくりと踏み込む。印象操作のためにいじった外見なのだから、こうして車に二人で乗るときにそのままでいいわけがない。当然のことなので、そんなことはわざわざお互い口にしない。
先の言葉も、乃木はきっと、取るに足らない軽口のひとつとして受け止めているのだろうなと思う。これもまた本心なんだけどなあ、と心のなかで呟く。でも、それでも別に構わない。
乃木のことを尊敬している。今の自分を形成する大きなひとつであるひと。どれだけ一緒に過ごしても底が見えなくて、全く追い付けなくて、それでもいつかこうなりたいと思う。自分の人生に挟まる要所には、大抵、その姿がある。
乃木のことをすきだというのは、もう、そもそもの前提として日々のなかに当然に横たわるものとなっていた。
「お酒、僕だけ。悪いね」
「いえ、それは全然。さすが高級料亭、うまかったですね」
「うん。役得しちゃったな」
「同じ任務なら、ドンパチよりこういうやつがいいですよね」
冗談めかして言うと珍しく乃木が吹き出す。任務としての実入りは少なかったが、おいしい和食を堪能して乃木はいつもよりも上機嫌だ。そもそもテントを追っていたときのほうがイレギュラーで、本来、情報収集とその操作が主な任務だ。小競り合いすらも未然に防いでこそ。その過程では、偶然こういった役得が差し込まれることもある。
「最近はいいよね、密談にもコンプライアンスが徹底されてて」
「乱痴気騒ぎじゃなくなって?」
「そうそう。いい時代だよ、おいしかったなあ」
乃木の嬉しそうな横顔に視線を送った。冷たい刃のような凛とした表情にはもちろん見とれるが、緩んだ顔を見るとこちらまで嬉しくなる。
任務に差し支えのない範囲であれば、こういう雑談ができるようになった。バルカでの一件に、乃木も思うところがあったのだろう。これまでの余裕の無さが多少緩和されたこともあるのかもしれない。
「乃木さんは仕事でもああいう料亭行くんですか?」
「まさか。使うにしても、もうちょっと価格帯が下のところなんじゃないかな。そもそも僕は呼ばれないけど」
「それは乃木さんがそう仕向けてるからでしょう」
「だって面倒じゃない、時間だけ取られて」
「それはそうですが」
街灯のオレンジが流れていく。今夜は雨かもしれないと言っていたが、分厚い雲はあるものの、なんとか乃木を送るまでは持ちそうな空模様で安堵する。
役得だな、とつい口からこぼれた。
「黒須はどれが一番好きだった?」
「あの刺身うまかったですね。いや、それはそうなんですが、そっちじゃなくて」
「うん?」
「乃木さんと会食。役得です」
そう言うと、視界の端で乃木が一瞬視線をさまよわせた。薄く開いた唇から言葉が出てくる前に、だって、と言葉を続ける。
「仕事で乃木さんに会うことは基本ないし。もちろん任務は任務ですが、安心しておいしい食事ができて、話せて、めちゃくちゃ楽しいです。しかも帰りも送らせてもらえて」
にっこりと言い放ち隣を向くと、君ねえ、と乃木が呆れ混じりに笑った。どこかほっとしたようにも見えて、よし、と内心頷く。自分はちゃんと正しく、乃木との間に引かれた白線のすぐ手前をまっすぐ歩けている。
乃木のことはすきだ。すきだが、だからといって、どうしようもないことはある。
「会社の出張のおみやげ、乃木さんに買ってくればよかったな」
「いいよそんなの、無事に帰ってきてくれれば。楽しい話も聞けたしね。先輩やってる黒須かあ」
「気を遣ってたんで普通に疲れました」
「まあ、慣れるまではどうしてもね。でも、黒須は気が利くし、それでいて細かすぎるわけじゃないから、その子もきっと伸び伸びやれたと思うよ」
「……自分の先輩に、先輩してる自分を見られるの恥ずかしいんですが」
「そう? 黒須は教えるのも上手いし説明も的確だから、教育係向いてると思うよ、」
瞬間、乃木の空気がかすかに揺れた。それはほんの一瞬で、もう跡形もなく乃木の横顔にも変化はなかったが、黒須は確かにその揺らぎに気づいてしまった。
ああ、司令に急に聞かれたのはこれか、とシナプスがつながる。確かに、組み始めた頃の乃木の年齢に近づいてきていることを思えば、いずれ後進の育成も自分のするべきことに加わってくるのだろう。そうなればきっと、乃木と会うことはもうなくなる。年度末の異動のようにご丁寧にこの日が最終日ですよと教えてくれるはずもなく、突然、ぷつりと糸が切れるようにこのひとは自分の人生から姿を消すのだろう。
その日がいつきても後悔のないように、いつ手を離されても大丈夫なように。心の準備だけは、いつもしておこうと思っている。
「うちのエンジニアは個人主義なんで、あんまり先輩後輩みたいなのないんですよね。一緒に出張した子もですけど、営業とか渉外とか、そっちは結構繋がりは深いみたいですよ。どこもそういうもんなんですかね」
乃木の雰囲気から踏み込まないほうがいい気がして、あえて、回答の方向をずらして言った。司令との会話に言及して差し支えないのか、乃木が何を考えているのか、これから自分たちはどうなるのか。様々なことが刹那の合間に脳裏を駆け巡り、結局、それらには触らないことを選んだ。ただの時間稼ぎかもしれない。
少し饒舌になりすぎたかもと思ったが、乃木もそれに乗っかる形で相槌を打ってくれて安心した。いつかゼロになる時計がそこにあることはとっくにわかっているのだから、だったらせめて、不用意なことはせず、自然とゼロになるまで見守りたい。砂時計を滑り落ちていく砂を見つめるように。
会話が途切れた。気まずさはなく、むしろ沈黙すらも許容する空気が心地よい。協力者の運転する車に乗るときは基本、後部座席に座る。助手席に乗り込むことはない。姿や印象を残すべきではないからだ。それゆえに、横顔をいつでも見られる助手席が乃木の定位置となっているのが、いつからか黒須の密かな自慢だった。
点滅する歩行者信号を横目に、交差点を通りすぎる。対向車のライトが眩しい。
「今の車ハイビームじゃなかった?」
「でしたね。車も格好悪いし」
「口が悪い……」
乃木が小さく笑った。緩いカーブに差し掛かる。乃木の体がわずかに右に倒れる。ふと目が合う。街の光に照らされた頬。漆黒を思わせる瞳が、きらきらとひかる。
(きれいだな)
やわらかい微笑みも、怜悧な眼差しも、乃木のものだから目が離せない。あ、となんの前触れもなく思う。天啓のように。きっと今ならいけると、第六感のようなところで。
乃木が隙のようなものをのぞかせたことは、黒須が自覚している限りでこれが三度目だった。一回目は守り刀を返そうとした自分に、もう少し黒須が持っていてもいいんだよ、と言ったとき。大切なものですし、ちゃんと乃木さんのことを守ってもらわないといけないですから、と笑って改めて守り刀を差し出すと、彼はわずかに目を見張ってからそうだねと微笑んだ。黒須がそう言うことを本当はわかってたとでも言いたげな、青空に飛んでいった風船を見つめるような微笑だった。
二回目はなんでもない会話の合間。なかなかな問題児が配属されて部署内全員てんやわんやだよと、珍しく乃木がぼやいていたとき。比べるものではないとわかってはいても、一度でもこんなよくできた後輩を持ってしまうとね、とはにかんだ彼に、そうですよ、乃木さんに追い付きたくて日々頑張ってるんです、と冗談めかして胸を張りつつ返すと、彼は眩しくて目を細めるように笑ったのだった。
バルカでの一件から三年。あっという間に過ぎた三年のなかで、たった三回だ。そのたびに第六感が黒須に告げる。きっと今なら、白線の向こうに行ける、と。
視線を前方に戻す。カーブは終わり、乃木はふう、と息を吐いた。少し強ばっていたその背中から力が抜けて、背もたれに体ごと預ける。いつも姿勢のよい乃木の、そういう姿を見せてもらえることこそが、この上ない信頼の証であると思う。
「雨、大丈夫そうですね。よかった」
「うん」
きっと、最初の一回だけがただの一度きりの機会だったのだろう。あのとき何か違う言葉を伝えていれば、何か変わっていたのかもしれない。過去は変わらない。時間は戻らない。じゃあ、今は? それでも、それをわかったうえで、自分は選ばない。この先も選ばないだろう。きっとあのとき、もう、機会を永遠にうしなってしまった。それでよかった。
ゆっくりと減速し、路肩に止める。規則的なハザードが車内にこだまする。外したシートベルトが擦れる音までもよく聞こえる。
「ありがとう」
「お疲れさまでした。おやすみなさい」
「おやすみ。帰りも気をつけて」
乃木は微笑み、するりと車から降りた。ばたん、と丁寧にドアが閉められる。軽く会釈をしてから発進。バックミラーに映る、夜に紛れる乃木の姿が小さくなっていく。
見送りなんてしなくていいのに、と毎回思う。そういうところを好ましいと思う。
結局、すきだのなんだのと言ったって、とにかく、自分は彼のことが大切で、自分にとって彼はかけがえのない存在で、彼の幸せが何かを自分がとやかく言うことはできないが、とにかく心身ともにいつだって健やかであってほしい。ただそれだけなのだ。彼がどこかで彼の望む人生を送っているなら、それが一番だ。
あんなことがなければ一生知らないままだったであろう、乃木の過酷な半生。致し方なかったとはいえ、同僚を断罪したことも、仲間を裏切ったことも、父親を撃ったことも、どれも乃木を深く傷つけただろう。ざくざくと、ナイフで果物を切り分けるように。
きっと乃木はなんでもないとけろりと言い放つだろうが、それは痛覚が麻痺した乃木の心がそれを痛みであると認識しなかっただけだ。自分たちはとっくに麻痺している、そうでなくては生き残れない。だからといって痛みがないわけでは決してない。そして、乃木の傷を掘り返したいわけでもない。瘡蓋をあえて引っ剥がして血を流させて、これが痛いということだよと知らせることなんかがしたいわけではない。
ただ、次にそういうことがあったときに、転んだ子供に寄り添ってそっと背中をさするように、痛かったですねと声をかけるのが自分であったらいいと思う。それも、自分にはコントロールの効かないことだ。四六時中側にいるわけではないし、であれば乃木はそれを誰にも悟らせないだろう。
それでも、どうすることもできなくても、そもそも彼の身に心を痛めるようなことが少しでも起きないように願っている。
プリズムを通せば光の色ははっきりと分かれる。この複雑に絡みあって混ざりあった感情を言葉というプリズムに通したら、必ず何かがそこからこぼれ落ちる。だったら、そんなものは自分がしたいことではない。
乃木のことがすきだなあと思う。ひとりの人間として。ただそれだけだ。すきだからこそ、どうにもならないこともあるのだった。
黒須の車が角を曲がっていくのを見送る。遠ざかるエンジン音の代わりに、大きなため息が隣から聞こえた。
『あれは黒須にバレたな』
自身もため息を吐きながら乃木はFを振り返り、だよねえ、と呟いた。
「どこまでバレたと思う?」
『司令が何をどこまで話してるかによるだろ、そりゃ』
「それはそうだけど……」
黒須を育てる側に回してはどうかと上申したのはほかでもない乃木である。元から優秀だった黒須だが近年さらに磨きがかかり、乃木の想定を上回る対応や言動に感嘆することも増えていた。その成長を喜ばしく思うと同時に、時折、その能力を自分だけが独占しているような後ろめたさがよぎる。もちろん私的利用ではないので独占しているわけでは全くないのだが、それはそれとして、という話で。前衛も後衛も、単独も合同も非常に高い精度でこなせるだけでなく、バランス感覚もある。黒須は一介のプレーヤーとして終わる存在ではない。彼自身のためにも、自分以外と組むこともしたほうがいいのではと思うようになっていた。
といった内容を丁寧に校正したうえで、実際に櫻井に伝えたことがある。櫻井は表情を変えないまま一通り聞き終えてから、わかりました、と頷いた。自分から言い出したことなのに、ひゅうと足元を風が吹き抜けたような気持ちになる。それすらも見通すような瞳で、彼女は言葉を継いだ。
「それで、もしそうなったら、あなたはどうするの」
「……どうする、とは」
「黒須さんの次にいきなり新人を育てるのは大変だと思いますよ」
「変わりません。自分のなすべきことを全うします」
姿勢を正して回答すると、櫻井はじっと乃木を見つめてから、いち意見として検討しましょう、と言った。緩く握っていた手からわずかに力が抜ける。自分が提案しておいて、結論が先送りになって安堵するなんて、虫のいい話だなと思った。
そんな会話をするもその後しばらく音沙汰はなかったのだが。櫻井から呼び出しの連絡があたのが昨日のことだったので、つい声に滲んでしまった。おそらく明日、検討の結果が告げられる。昨日の今日の明日というのも皮肉な話だ。
踵を返して、自宅へと向かう細道を歩く。同じ街灯のはずなのに、車のなかから眺めていたときのほうがきれいに見えた気がする。影が長く、二重に伸びている。
『そもそも、まだ組み換えが決まったわけじゃないだろ?』
慰めるように隣でFが言ったが、乃木はゆるゆると首を横に振った。
「それ自体は、なるに任せるしかないからいいんだよ。第一、黒須にとってはその方がいいだろうし」
『じゃあなんだよ』
「なんか、あんまり動揺がなかったなと思って。黒須のほうが準備できてるみたいだったな」
ああ、と納得したような横顔。核心に触らないように、やんわりと会話の軌道を変えて流していくときの口振り。
『動揺してほしかった?』
「全く」
『そんなの嫌ですって言ってほしかった?』
「まさか。そんなこと言ったらむしろ怒るよ」
『じゃあいいじゃねえか』
「そうだけど。……まだ完全には心づもりできていなかったんだなあって、改めてわかっちゃった。情けないね」
別班も組織であることには変わりない。人事は水物であり、ずっと一緒なんてことはあり得ない。いつかその手を離す日がきても大丈夫なように、どんなときもちゃんと彼が生きて帰ってこられるように、持てるすべてを伝えてきた。大切な部下で、後輩で、バディだ。私情も混じっていることも自覚したうえで、胸を張ってそう言える。
それでも、あんな風に感傷を声に滲ませてしまうなんて、以前なら万が一にもなかった。気を抜いて誰かと話すことも、食べることも、笑うことも、昔なら考えられなかった。
Fがふっと笑う。
「どうしたの?」
『いや、そりゃあそうだなと思って。気を抜けるくらい、手放すのが惜しいと思うくらい、もう、引いた線の内側に入れてるんだよ』
憂助にとって俺の次に付き合いが長いのはもう、黒須なんだから。
ぴたりと、足が止まる。まじまじと半身を見つめる自分は相当間抜けな顔をしているだろう。Fは穏やかに微笑んでいた。
「そっ……か。それもそうだね」
過ごしてきた時間。潜り抜けてきた修羅場。その合間の他愛のない会話、向けられる真剣な眼差しと、不意に見せる素の笑顔。改まって考えたことはなかったが、言われてみれば、確かにこれほど密度のある付き合いの相手もいまい。再びゆっくりと歩き始める。そうかあ、と気の抜けた声が漏れる。
「それなら仕方ないか」
『そうそう、しょうがない』
歌うような調子のFの声を聞いていると、本当にただただ仕方のない、大したことのないように思えてくるから不思議だ。誰かに気を許すことを、許せる自分になったことを喜ばしく思うなんて、かつての自分は信じもしないだろう。
「Fの次か。黒須も大出世だ」
『いよいよ組み換えになったら言ってやれよ。泣いて喜ぶぜ』
「泣かないしそもそも言わないよ」
鍵を開けつつ、半分笑いながら返した。靴を脱いでそろえ、上着を脱いでハンガーにかけ、ネクタイをほどき、時計を外す。流れるように毎日繰り返してきたルーティーン。
居間にようやく腰を下ろすと、隣でFが物言いたげな表情をしていた。気になるなあと思いながら視線で促すと、Fは眉間の皺を深めながら口を開いた。
『組み換えのことはわかったけど、あいつのことはどうするんだよ』
「黒須の? どうって、何を」
『だって憂助のこと大好きじゃねえか、黒須』
話が見えないよと言ってとりあえずはぐらかそうとすると、嘘つきとぴしゃりと返された。容赦がない。自身との対話とは異なり、Fも自分とはいえ自律型なので、こういうときに自分をごまかすことが不可能になる。乃木は今夜二度目のため息を吐いた。
「Fだってわかってるでしょ」
黒須から自分に向けられる感情は、かつて寄せられていた手放しの信頼とは明確に異なっている。信じると自ら選び決めたことへの覚悟とでも言えばいいのか、そういうある種の凄みのようなものを根底に感じるようになった。そしてそのうえに、隠すことのない好意を乗せている。
「お互いどうこうなるつもりはないんだから、何もしないよ」
乃木は言い切る。穏やかに、しかしはっきりと。
自身に向けられる好意というものにようやく自覚的になった乃木は、当然黒須から向けられるそれにも気づいた。問題はその種類で。仕事仲間に向けるものにしてはやわらかく、かといって恋愛的な展開を望んでいるようには到底見えず、やり取りも変わらず至極ドライ。物理的な距離を縮めたり職場恋愛の話題を上げて反応を見たりと何回か試すようなこともしたが、その度に黒須は「何か試されてるんだろうけどなんだろう、何か任務で問題があったかな」とでも言いたげに疑問符を浮かべて、いつもと同じ声色で乃木の名前を呼ぶ。
かと思えば、てらいのない好意を直球でぶつけてくる。先刻のように。そしてするりと会話をかわして流していく。正直、黒須がどうしたいのかよくわからなかったので、考えることを諦めた。関係性が変わらなければ当座の問題はないと判断して。
『隙を見せるってどうやるのか、わからないながらに頑張ってみてたのは知ってる』
「しょうがないよ隙の見せ方なんて知らないんだから!」
『……たぶん黒須が思ってるのは別の場面なんだろうなあ……』
「なに、別の場面って」
『意識して見せた隙なんて、たぶんバレてるぞってこと。そのうえであいつは踏み込まないことにしたんだろうけど』
色々と勘案したうえで好意の出力の仕方を適切にコントロールしている黒須のことを、Fとしては好ましく思っている。Fが理解しているということは乃木自身も本当はわかっているはずなのだが、ただただ意識の表層では自覚していないのか、それとも目を向けまいとしているだけなのか。現状分析という意味では、黒須のことも自分のことも客観的に見つめているFのほうに軍配が上がるのかもしれない。
乃木は視線をさまよわせてから、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「……黒須のことはすきだよ。かわいいし、大事だし、怪我とか危険な目にできるだけ合わないといいなって思う。黒須のこと、よく考えたら未だに全然知らないままだけど」
いつも彼のことを考えている、ということはない。用事がなければ連絡をとることもない。それでもふとした瞬間に思い出す。何をしているか。体調を崩していないか。かつて柚木が、自分に対して向けてくれたもの。彼女は歩み寄ろうとしてくれていた。翻って自分は。
『聞けば答えてくれただろうに。黒須も、彼女も』
「薫さんのことは……、僕に秘密を貫き通す覚悟が足りなかった。黒須は、同じ別班だからこそ、そもそもルール違反だよ」
言ってから、わかってる、と続けて呟いた。
「全部言い訳だ」
歩み寄るための一歩を踏み出せない。相手に委ねることができない。さらけ出すには、あまりに重い。ためらいとおそれがその指先を鈍らせる。乃木のことを大切に思う人々は、きっと戸惑いながらもちゃんと受け入れてくれるだろう。それにはすべて、乃木が踏み出すなら、という前提がある。
Fはたまらない気持ちになった。乃木のおそれは、やさしさの裏返しでもある。大切に思うからこそ巻き込みたくない、どこかでずっと笑っていてほしい。たとえその隣に自分はいなくとも。それこそが、乃木が他者に向ける愛情なのだった。
その点、黒須だったら同じ別班だし別にいいじゃないかとFは思うのだが、本人はそうではないらしい。どうこうなるつもりはないときっぱり言い切られては、それ以上言うべきこともない。遠慮も躊躇も一切なく、そうしたいからそうするのだと言うのなら。乃木が他者に向ける愛情と同じものを、Fも乃木に向けている。乃木が自ら選び、したいようにすることを、常に一番尊重していたいと思う。
結論の決まっている話を混ぜっ返した責任を少なからず感じて、Fはああもう、と大げさに声を上げた。
『憂助も黒須もめんどくせえ! 恋だの愛だの、すきだの大事だの、なんだっていいよもう、一生やってろ』
「……Fはやさしいねえ」
わざと悪態めかせて言うFに、乃木はやわらかい声で言った。ばつが悪そうに顔を逸らす半身がいるからこそ、そういう選択ができるのだということを、本人は果たしてわかっているのだろうか。きっとわかっていないのだろうな、と乃木は小さく笑う。自分で自分を大切にすることを覚える前から、ずっとお前が大切だと、お前と生きたいと寄り添ってきてくれた存在。Fがいたから、こう在りたいという自分を貫いてこられた。
「どっちでもいいんだよ、本当に」
明日、何を告げられるとしても。それだけは変わらない。自分がそこにいようがいまいが、黒須が元気にどこかで笑っているなら、それで。乃木の言葉を聞いて、Fがしょうがないなあと諦めまじりに笑う。
夜半は強い風が吹き付けていたが、朝になると爽やかな秋晴れとなっていた。薄い青空に、綿を散らしたように雲が浮いている。真夏の強烈な日射しはもう終わったようだ。
櫻井が指定した蕎麦屋にたどり着いたのは、待ち合わせ時間のちょうど五分前だった。昼時にはわずかに早く、店内の人は多少まばらだ。すぐさまその後ろ姿をみとめ、店員に会釈をしてから向かいの席へと向かう。
「お待たせしました」
「まだ時間前ですよ。律儀ですね」
櫻井は品良く微笑んだ。濃いグレーのスーツに、橙のスカーフが映える。こういう暖色を差し色にしているのは珍しいな、と思った。
「もう頼まれましたか?」
店員が歩いてくるのを視界の端にとらえつつ聞く。お品書きを差し出すのとほぼ同時に、店員が湯飲みを持ってきた。湯気の立つ湯飲みをテーブルの奥にずらしつつ、櫻井が口を開く。
「ありがとう。盛り蕎麦を」
「それをふたつで」
「かしこまりました」
今となっては必要以上の接点はないが、櫻井もまた乃木に目をかけてくれた一人である。呼び出しが露店ではなく店内というのは、たまにはゆっくり話でもしましょうという彼女の意思表示でもあった。
「緊張してますね?」
「それは、久しぶりですから」
いたずらっぽく笑いかけられて、乃木は幾分かぎこちなく笑みを返した。いつの間にかあなたが連れていく側ですものねえ、とのんびりとした口調で言いながら、櫻井が湯飲みに手を添える。
「どう? 黒須さんは」
「成長著しいです。特にあの件以降、ひとつ階段を上がったと言いますか。一層頼もしくなりました」
「それは何より」
昨日もお疲れ様でした、と櫻井が微笑む。湯飲みを乗せる、すっと伸びた指先。湯気が揺らめく。意図して緩く頭を下げた。
「おいしかったですか?」
「はい、とても。お陰様で、ありがとうございます」
「たまにはいい思いのひとつやふたつくらい、あってもいいですからね」
「他の者には何を?」
「好みに応じて色々ですよ。お酒だったり中華だったり」
一般企業ほど明確ではなく、かつ年単位であったりもするのだが、自分たちにも繁忙期と閑散期は存在する。そういったタイミングで各々の趣味嗜好にそれなりに合致する任務を宛がうのは櫻井の粋な計らいであり、日頃の働きに対する労いでもあった。全体で何人かも知れない別班員、それぞれの特性と好み、パズルのようなスケジュール調整をよくも一人で難なく行ってみせるものだと乃木はいつも感心してしまう。
自分は心底楽しんだが、黒須は別のほうがよかったのでは、と不意に脳裏をよぎった。櫻井は見透かしたように、あら、とすぐさま口を開く。
「黒須さんも楽しかったと思うけれど。そう言ってなかった?」
「いえ。……ただ、自分に付き合わせてばかりでないかなと」
そう、控えめに返したのだが。呆れた、と彼女にしては珍しく、存分に心情を載せた呟きをぽつりとこぼした。
ちょうど蕎麦が運ばれてくる。いただきます、と小さく一礼してから口に運ぶ。蕎麦のよい香りがする。
「乃木さん、それはさすがに彼のことをわかっていなさすぎじゃない?」
「自分を慕ってくれているのは、わかっています」
「気に入られようと振る舞うほど日が浅いわけでもないのだから、そのまま素直に受け取ればいいのに。黒須さんだって自分のしたいようにするでしょう、いい大人なんだから」
すっぱりと言われてしまい、苦笑するほかない。その通りすぎて返す言葉もなかった。
そんな乃木の様子を半ば愉快そうに横目に見つつ食べ進めていた櫻井は、それで、やっぱりもう少し一緒に組んでもらうことにしたの、と事も無げに言った。思わず一拍、乃木の手が止まる。その瞬間に感じたのが安堵と喜びであることを、認めないわけにはいかなかった。自分から手を離そうとしたくせに。
「……理由を伺っても?」
「乃木さんの言う通り、黒須さんには教える側に回ってもらうのもいいかとも思ったのだけどね。まだ伸び代があるから、ここで摘んではもったいない」
乃木さんが際限なく引き上げてくれますからね、と言われてしまっては、ありがとうございますと言うしかない。実際、双方への褒め言葉は嬉しくもあるのだし。そう思ったのも束の間、それに、と櫻井が言葉を続けた。
「あなた、糸の切れた凧みたいに飛んでいっちゃいそうだもの。いい重石なのよねえ、彼」
そんなことは、と反射で口を開きかけたが、どうだか、と言いたげな視線を向けられて黙殺される。櫻井との会話では、毎回だいぶ乃木の部が悪い。蕎麦をすする音がいい具合に沈黙を埋めてくれて、助かったなと思った。
「そんなわけだから、引き続きお願いしますね」
「わかりました」
櫻井の湯飲みにほうじ茶を注ぎ足す。気になっていたことを聞いてもよいものかと乃木が視線のみで問うと、櫻井は穏やかに微笑んだまま小さく頷いた。
「黒須にはどこまでお伝えになっていたんですか?」
「ああ、もしほかの人と組むように言われたらどうするのって。何か?」
「いえ、会社の後輩の話をしてくれていたときの話の流れで。何か納得していたようだったので」
「なるほどね」
幾分ぬるいほうじ茶が喉を滑り落ちていく。店に着いたときの緊張はもはやどこにもなかった。
「笑ってしまいましたよ、乃木さんと同じようなこと言うんだもの。あなたたち似てきましたね」
「そうですか?」
「ええ、頑固なところがそっくり」
「頑固……」
「思ったことは素直に言ったほうが可愛げがありますよ」
なかなか難しいことをと思いつつ、精進しますと苦笑を返した。直後、だからというわけではありませんが、と前置きして再び口を開いた。
「スカーフ、よくお似合いです。あまり使われない色ですよね」
櫻井は目を丸くしてから、なんの含みもなく、ふわりと笑った。
「ありがとう。夫が選んでくれたの」
お蕎麦だからどうしようか迷ったのだけど、早く外にしていきたかったからつけてきちゃった、と言ってはにかむ。爪の先の赤をはじめ強い色がよく似合う彼女だが、家族にはそうではない表情も見せるのだろう。
「ご主人は今回はどちらですか」
「メキシコだけど、もう移動して全然別の場所にいるかも」
櫻井の夫は考古学者で、やれ発掘だやれ修繕だとしょっちゅう各国を飛び回っている。曰く、腹の探り合いばかりしていると、太古から変わらない人の営みを愛し浪漫を追い求めている子供のような瞳の輝きに癒されるのだという。とはいえ、夫に同行して得た南米各国の要所の繋がりもちゃっかり活用しているあたり、櫻井も抜け目がない。
「ご帰国の予定は今回も?」
「いつどこから帰ってくるのかさっぱり。たまに、渡航先と全然違うところから絵はがきが届きますよ」
──乃木さんのことは好きだけど。私が私らしくいられないから、お付き合いはできません、ごめんなさい。
不意に、柚木に告げられた言葉が耳の奥によみがえる。困ったように笑って、でも強い意思のこもった瞳で、きっぱりと明るい声で言った。ジャミーンとともにバルカへと戻り、今もきっと医師として走り回っているであろう、彼女。
乃木の瞳が揺れたのに気づき、なにか察したのか。櫻井は視線を手元へと落としながら、あの方とは連絡は取っているの、と問い掛けた。単なる世間話だというのを声色から明確に示してくれている。優しい人だなと思う。
「それこそ、たまにエアメールが届きます。所在確認を兼ねているのだそうで」
乃木さん、勝手にいなくなりそうだから、手紙送りますから。抜き打ち検査だから、ちゃんと返事書いてくださいね! 空港での見送りで言われたことだ。ジャミーンとのハグのあと、中途半端な場所で宙に浮いた乃木の両手を見て、彼女は息を漏らして笑った。わずかに溶けた氷がからんと音を立てるような、そういう笑い声だった。そして、右手だけを差し出す。ぴんと背筋を伸ばして、勢いよく。握ったその手は少し震えていて、しかしそれ以上に力強く、あたたかったのだった。
机の上に置かれた自分の両手。誰かと手を繋ぐことはないが、その代わり、こぼれ落ちそうになる何かを少しでも守ることができればいいと思う。
「案外、ああいうタイプとは上手くいくかとも思ったんだけど」
櫻井は窓の外の青空を見上げた。夫が今いる場所との時差はどれくらいだろう。櫻井と彼女の夫は、上官の紹介で結婚した。お見合いではあったが、お互いしたいことが明確であり、相手に物理的に一緒にいてほしいというわけではないが伴走者ではあってほしいという点が上手く噛み合っていた。立場上の「結婚しているのが当然」という要請も、暗黙の了解として、あの頃確かに存在していた。それを差し引いても、驚くくらい互いにとって良い話だったと思う。
乃木に視線を戻す。乃木は、誰か一人を愛するのは自分の手には余ります、ときれいに笑った。
「……仕事柄、話せないことも多いけれど、私は結婚してよかったと思ってますよ」
「お話聞くたびに、素敵な先生だなと思います。先日も雑誌に寄稿されてましたね。お人柄と歴史観の伝わる名文でした」
「あれねえ、大変だったんですよ、あのひと締切を忘れていて。前日夜中に慌てて一気に書くって言うから、私も推敲を手伝って」
「そんな舞台裏だったんですか」
てきぱきと校正を進める櫻井の姿が容易に思い浮かぶ。書いている最中はそれなりに修羅場だっただろうが、これだけ強力なサポートがいるのだから、言葉とは裏腹に難なく間に合ったに違いない。
客が入り始めている。そろそろ頃合いだった。
「まあ、今は生き方も色々ですからね。楽しくやればいいと思いますよ」
あっけらかんと言いつつ、ぱちり、と櫻井が箸を置いた。ご多分に漏れず、彼女も食べるのが速い。言葉の外側に、これまでに積み重ねてきた信頼が滲んでいた。
「ありがとうございます」
「黒須さんにもよろしく。ここはいいわ」
流れるような所作で伝票を引き寄せる上司に、ごちそうさまですと頭を下げる。先に乃木が立ち上がり、櫻井はひらひらと手を振った。
インターホンの音がして、作業の手を止める。液晶に映る二人を確認してから、太田は玄関の扉を開いた。
「こんにちは」
「お邪魔します」
にこやかに言い、乃木と黒須は音もなくするりと身を滑り込ませた。背の高い二人が玄関に揃うとなかなかに圧迫感がある。人口密度たか、と内心で呟き、太田はひとり先にリビングへと続く廊下へと下がった。
「太田さん、いつもごめんね」
「いえ、単にうちのほうが楽なので。むしろお呼び立てしてすみません」
あまり女性の一人暮らしの家に訪問するものではないと乃木のほうから打ち合わせ場所の変更を申し出たことがある。ほとんどはオンラインで事足りると言いつつ、どうしても現物の受け渡しなどは発生する。彼女の身に起きたことを思えば、あまり訪問するわけにもいかないと考えてのことだったのだが、その本人が移動も面倒なのでむしろ自宅のほうがよいと辞退したので、そのままとなっている。
出会った当初は火急の案件だっただけに致し方ない側面もあったが、それはあくまで乃木たちの都合である。そして、人で溢れかえる外へ出るよりは安心な自宅にいたいというのが、あの頃の太田の都合だった。
靴を脱ごうと屈む乃木の背中越しに、黒須と目が合う。初対面のときの凄みのある眼光はどこへやら、視線はへらりとやわらかい。
「元気そうだな」
「おかげさまで。最近は両方とも仕事落ち着いてますし。黒須さんと会うの久しぶりですね。七ヶ月くらい?」
現在、太田の護衛は廣瀬が務めている。乃木から「自分は公安に目をつけられているので、無用に巻き込まないように当分は別の者を護衛につける」とだけ言われたときは急に命綱を減らされたような気分になったが、訪ねてきた廣瀬の顔を見てその意図を理解し、ようやく深く息をつけたのだった。
以来、乃木や黒須とは電子媒体でのやり取りを主として、対面するのは必要に迫られたタイミング限り、かつ廣瀬に加えてどちらか一方のみとしていた。太田が乃木と黒須と揃って会うのは、実にあの夜ぶりである。
「乃木さんもお久しぶりです」
リビングのドアを開けて招き入れながら、太田がにっこりと笑った。緩くカールした明るい髪が揺れ、まぶたがきらりとひかる。もう二人して訪問しても大丈夫だと思うと廣瀬から聞いてはいたが、実際にこうして、玄関という狭い空間に揃って立っても問題なく接してくれる姿を見ると安堵する。傷は水面下に依然あるのかもしれないが、それでも、彼女が自分のしたい振る舞いをできていることを、本当によかったと心底思うのだった。
太田に促されるままに乃木が座り、その左に黒須も腰を下ろす。そのまま台所にカップを取りに行こうとする太田だったが、乃木に呼び止められた。
「先に少しだけいいかな」
任務の話ではない、ケーキを買って行くとだけ聞いていたが、それだけではない何かがあったのだろうか。二人の向かいに座る。改まった二人の態度に、太田の顔に再び緊張と不安がのぞく。そんな彼女を安心させるように、乃木がゆっくりと口を開いた。
「廣瀬からも聞いてるかもしれないけど、テントのモニターの残党の集中的な監視は正式に終了することになった。今後は順次縮小、通常案件と同じくフラットに見ることになる。無茶なお願いもたくさんしたけど、こうしてここまでこられたのも、太田さんのお陰です。これまで本当にありがとう」
簡潔に一気に言い切り、乃木がすっと頭を下げた。黒須も同じように一礼をする。ぽかんと、自分の口が開いたままになっているのが自分でわかった。……終わったのか。ようやく。
太田は意識してほとんどない唾を飲み込んだ。深呼吸。乃木のほうがよほど直接的に関係は深かっただろうが、それでも、ようやくひとつの区切りがついたと思った。ぎゅっと両手を握りしめる。力を抜いて開いた指は、今朝よりも軽い。
「今日はわざわざそれを?」
緊張をほどいた声で聞くと、二人はそれぞれ頷いた。
「だから、今日はただの打ち上げ」
「これ、乃木さんから」
机のうえに置いていた白い紙袋を、ずいと黒須が差し出す。パティスリーの名前を改めて見るやいなや太田が目を見張り、紙袋のなかを覗き込んでからじっと乃木を見つめた。
「乃木さん、これってもしかして……」
「うん、メロンだよ」
「……スーパーですよね?」
「ううん、エクストラ」
にこにこと答える乃木の言葉を聞き、太田が声にならない叫びを上げた。なんのことかと首をひねる黒須の隣で、喜んでもらえてよかったあ、と乃木が笑みを深める。
「エクストラってなんですか?」
「一番すごいやつ。買えてよかったよ」
「一日限定二十個でしたっけ!? すごい、今日の十五パーセントがここに……あわせたらマスクメロン一個ぶん……」
実在したんだあ……とうっとりと呟いてから、太田は恭しい手つきで紙袋から箱を取り出した。まるで王冠を戴くかのような仕草に、黒須は声を漏らして笑う。
「乃木さん、ありがとうございます、めちゃくちゃ嬉しいです」
「ふふ、何よりです」
「黒須さんに前にもらった、いい紅茶をいれさせていただきます!」
スキップしそうなほど軽やかに、しかし箱を揺らさないように慎重な足取りで、今度こそ太田は台所へと向かった。
「黒須が?」
「いや、相当前ですけど。飲んでなかったのか」
「だってもったいなくて……。ここぞというときにだけにしてるんですよ。まさに今日です、今日」
来客を見越して一度沸かして保温ポットに移してあったお湯を、やかんへと戻す。火をかけると小さな気泡がふつふつと沸き上がり始める。見つめているうちに、急に目と鼻の奥がつんと痛んだ。長かった。苦しかった。ようやく生傷が乾いた。起きてしまったことはなくならないけれど、その先に続く自分の人生を取り戻した。後ろ暗いことをしてきたのも、子供の頃から落語が好きなのも、国防という正当な理由を得てほっとしたのも、家では姿に無頓着なのも、きれいな服やおいしいものが好きなのも、私。取り戻す機会をくれたのは、この二人だ。
くるりと二人を振り返る。彼らのようには決まらないけれど、ありったけの感情を込めて深々と一礼した。
「乃木さん、黒須さん。私に戦える場所をくれて、ありがとうございました」
乃木が黒須に顔を向けると、黒須は小さく頷いた。
「僕たちは何も。ただただ、太田さんを頼りにしているだけだよ」
太田が顔を上げる。晴れやかな表情。お湯沸いてるよ、と黒須が言い、慌てて振り返り火を止めた。
戸棚からティーバッグの箱を取り出し、カップ三つにそれぞれ入れてお湯を注いでいく。香りがふわりと立ち上る。
会社での姿のほうを先に知っている乃木はともかく、黒須が何かと気を遣ってくれるのは、太田にとっては正直予想外だった。もっと冷たく他人に興味のない人かと思っていたが、単に、自身にとって大事な人や好感を持っている人と、そうでない相手への落差が激しすぎるだけなのだろう。乃木もそういう一面を持っていたわけだし、他人に興味のない人間にはそもそも諜報活動は務まらないと言われれば、その通りなのだろうが。
「お待たせしました」
紅茶とフォークをそれぞれ運び、ようやく箱を開けて丁寧に皿へと移す。ケーキにたっぷりと乗ったメロンがつやつやと輝いていた。
そわそわと落ち着かない様子で着席する太田を乃木が微笑ましく見守る。写真撮ってもいいですか、と聞く彼女に頷いて答えると、太田はポケットからスマートフォンを取り出して手早くケーキだけを何枚か写真に納め、すぐさまポケットへと戻し、姿勢を正した。黒須も乃木の気配を伺う。待てをする犬みたいだな、俺たち。
「えっ、なんで僕待ち? 食べようよ」
はっと焦った声を上げる乃木に、太田は満面の笑顔で元気よく、いただきます! と手を合わせた。続いて黒須も。一口目を食べた瞬間、黒須が目を丸くした。
「これうまいですね!?」
「おいしい……! スポンジとクリームが全然違う……!」
おいしいおいしいと口々に言う二人の表情をじっと見つめてから、乃木もようやくフォークを手に取った。楚々と上品な甘さが一体となって、口いっぱいに広がる。黒須も太田も、ちまちまではなくガッと一気に食べるタイプなので、見ていて気持ちがいい。きらきらした笑顔が眩しい。青空に見上げる太陽みたいに。
黒須に向ける乃木のその表情を見て、突然、太田は廣瀬の言葉を思い出した。乃木から訪問の連絡があったとき、当然廣瀬にもその旨を伝えて二人と一緒にくるのか尋ねたのだ。そのときの、二人でくるなら私は遠慮しておこうかな、と言った彼女の苦笑い。何か自分が立ち入るものでない事情があるのかと理解していたが、え、そういうことなわけ、と唐突に脳裏にひらめくものがあった。
いざそうと思い至ると、気になって仕方がない。生来の好奇心が発動し、じわじわと大きくなった。初めてナイフ捌きを見せてくれたときの呼吸の合い方、画面越しに並んで座る二人の距離、一を聞いて十も百も知るかのような会話。それらの示す意味合いも変わってくる。息を吹き掛けるカップ越しに二人の様子を伺う。すぐにでも聞いてしまいたいが、まずは目の前の最高のケーキを堪能しようと頭を切り替え、紅茶に口をつけた。
どんなにずっと噛みしめていたくても、必ず終わりはくる。最後の一口をゆっくりと飲み込み、三人はそれぞれ息を吐き出した。
「はああ、本当においしかった……乃木さん、本当にありがとうございました。ごちそうさまでした」
「乃木さん、自分までありがとうございます」
「そんなに喜んでもらえてよかった。おいしかったね。僕も初めて食べたけど、さすが四千円するだけあるなあ」
乃木の口から飛び出した予想外の金額に黒須は内心目をむいたが、当然知っていましたという風を装いつつカップに手を伸ばした。一番すごいやつとは言っていたが、まさかそこまでだったとは。当の乃木は、きっと思っていた以上に高くてびっくりしてるんだろうなあ、と笑みを深めつつ、机に置かれた黒須の右手を見ていた。
乃木の微笑みを目にして、スリープモードになっていた太田の好奇心が再起動する。うずうずと沸き上がるままに、あの、と口火を切った。この二人に探りあいも婉曲も通用するわけがなく、ならば正面突破である。
「つかぬことをお聞きしますが」
二人のまっさらな瞳が向けられる。
「お二人はお付き合いなどし、」
「ないないない」
「してないしてない」
「……ているわけではないんですね」
言い終わるより早く秒で否定されてしまった。ちなみに前者が黒須、後者が乃木の返事である。
「えっ、本当に? 職場恋愛厳秘なかんじですか?」
別に誰かに言ったりしませんよ、と一応重ねて言ってみるが、乃木は困ったように、黒須は呆れたように笑うばかり。このかんじは本当に違うのだろうな、と太田の第六感が判定する。
「急にどうしたんだよ」
「なんとなく……? そうかな~と思ったんですけど」
「距離が近いとかはよく言われるけど、別に付き合ってないよ。ね」
「はい」
顔を見合わせ、黒須がしっかりと頷く。反応からして、もだもだしている最中というわけでもないらしい。正真正銘何もないというのか。これで?
「そうですか……」
「納得していなさそうだね」
「いえ、単に人の恋愛の話を聞くのが好きなので、残念だなあという顔です」
「正直だな」
黒須の愉快そうな顔を見るに、もう少し話を広げても差し支えなさそうだった。ちなみに、と言葉を重ねてみる。
「お付き合いしている方がいたりとか」
「太田さん」
「はい」
乃木の言葉に遮られ、反射でぴしりと背筋を伸ばした。やり過ぎただろうか。お腹の奥がびりびりと冷える。
「そもそも、僕は恋愛に向いていません」
「はい?」
「こう、恋愛の間合いというか……そういうのがとにかく向いてないんです。タイミングが合わないというか」
「乃木さん、人の懐に入るのめちゃくちゃ上手いじゃないですか」
「それとこれとは別」
「そうかなあ……?」
参戦した黒須が首をひねった。太田としては、乃木の言うことはなんとなくわかる。人の懐に入るのと、人を懐に招き入れるのは明確に異なる。黒須も無意識的に理解しているはずだが、明示的に考えたことはないのかもしれない。
「黒須さんは?」
「一日二十四時間しかないのに、ダブルワークしながら他人に割く時間があると思うか?」
それはある人にはあるのでは、と思ったが、そうだそうだと頷く乃木と、そうですよねと満足そうな黒須を見ていると気が抜けてしまった。彼らのなかの優先順位が垣間見えて、すとんと腑に落ちる。だからこそこんなにも頼もしいし、そんななかでも互いに相手が自分にとって優先すべき存在であるからこそ、二人は息ぴったりなのだろう。
それでも私は、と口を開きかけたが、なんとなくやめた。話すだけで十分で、心が落ち着いて、満ち足りていた。手を握ったことがあるだけのひと。その温度もとっくに思い出せない。ならばせめてハグくらい、一度くらい、しておけばよかった。そういう大切な胸の痛みを、わざわざ人に言わなくたっていい。
話題の方向を変えようと、あの、と二人を交互に見る。
「お二人って、組んで長いんですよね? 最初からこんなかんじだったんですか?」
向ければ返される視線。多忙なんて言葉では足りないくらいの日々を送る二人が、こうして自分を労ってくれることを光栄に思う。時間を割くだけの存在であると思ってもらえていること、その信頼にこれからも応えたいと改めて思った。
「まさか。全然ついていけなかったし、今もいっぱいいっぱいだよ」
「そうなの?」
「そうなんです、いつか追い付きたいけど、その間に乃木さんはもっと先に進んでそうなんで。いつも必死です」
黒須が笑う。ただただ乃木のことを尊敬していて、一緒に働けることが嬉しくて、ひととしてすきだという、手放しの笑顔だった。乃木が目を細める。飛行機雲を見送るように、そう言うことをわかっていたように。
大切なものが、必ず手に入るとは限らない。手を伸ばすことでそこなわれることもある。手を伸ばさなかったから、すり抜けていくものもある。選択の結果のすべてを知ることはできないし、最善だけを選び続けることもできない。それでも、自分らしく在り続けられるように、背筋を伸ばし続けるしかないのだ。
楽しいだけではないけれど、苦しいだけでもない人生。プリズムを通した日光のように、何かの拍子に不意にきらきらと輝くものがある。そういうものを大切に抱えながら、混沌として複雑で曖昧で面倒で唯一無二のこの日々を、歩いていく以外にない。
きっと乃木も黒須も、選ばないことを選んでいるのだろう。先の二人の表情を見て、直感的にわかってしまった。いずれそれを後悔する日がくるとしても、その未練すら、眩しく見つめるのかもしれない。確かに、コントロールの効かない感情に振り回されるなんて、この二人にはありそうもないけれど。
「お二人ってなんか、似た者同士ですねえ」
理性と精神が強すぎるのも難儀だなあと思い、しみじみと太田が呟くと、珍しく乃木が吹き出して、声を上げて笑った。肩が震え、背がたわむ。太田は驚きとともにまじまじと乃木を見つめ、黒須も一体何事かとその横顔を覗き込む。しかし、結局何がそんなに直撃したのか理由はわからず、本当にたまにこうなるんだよ乃木さん、と黒須は諦めたように笑った。
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