女の声がする。それを聞くと、ああ、朝だなと思う。
部屋を出て直進、左折、合計十三歩。雪山を望む大きな窓ガラスの前に、少女が立っている。雪面に反射した光が、彼女の髪を照らしている。両手を組み合わせた彼女は敬虔な信徒のようにゆるやかにまぶたを下ろしている。そのまぶたの上にも、朝の光が降り注いでいる。
――国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり……
最後の一節を口にした彼女は、ゆっくりと目を開けてこちらを見た。なにも塗られていない唇が、ゆっくりと最初の一音をかたちづくり、名前を呼ぶ。ロビンフッド。
「おはよう」
「おはようさん」
今日も起こしちゃった? と聞く彼女には、つい数秒まで宿っていた神聖さは欠片もない。どこにでもいそうな十代。毎朝それ聞きますよね、と返すとへへっと安心したように笑う。
「ロビンがくるまでがセットってかんじ」
「はあ」
「今日も同じところで詰まっちゃった」
「我らの日用の糧をー、のあとですか」
「そうそう、昔からあそこで一瞬詰まっちゃうんだよね。なんちゃってキリスト教だったからかな」
彼女の言う昔はたぶん十年くらい前。宗教なんて信じていないくせに、やらなくてやっとけばよかったと思うよりはましなんじゃないかな、などと言って、彼女は毎朝雪山に向かって祈る。なんでここなんすか、と以前聞いたが、帰ってきた答えは「なんとなく神聖なかんじがするから」というなんともふんわりしたものだった。そのわりに、彼女は真剣に祈る。やるならちゃんと、という姿勢が彼女らしい。
「ごはん行くでしょう」
「ああ、はい」
すっと歩き出して横を通り過ぎる。あとを追いかけながら、その華奢な背中に声をかける。
「今日はどうします?」
振り返るマスター。完璧な微笑。
彼女の声の音量は至って普通だ。だから、毎朝彼女の声でふっと意識が浮上する理由は、自分が一応英霊であり、本来は睡眠も食事も必要としない存在であるからということに他ならない。夜がくるたびに眠りの真似事をする。そして毎朝、かすかな空気の揺らぎを感じて体を起こす。その繰り返し。だから、その日、いつもよりも数時間早い真夜中に目を覚ましたのはかなりのイレギュラーと言ってよかった。
なんだろうな、と思いながら廊下に出る。空調で完璧に管理されているカルデアであっても、やはり夜には夜の空気になる。寒いわけではないが、少し温度が下がっているようだった。昼間の活気がひっそりと息を潜めてしまった屋内を特に目的地もなく歩いて時間をつぶす、つもりだったが、角を曲がって向けた視線の先にはマスターの後ろ姿。歩く方向からして、医務室に向かっているとしか思えない。そんなものをうっかり見つけてしまったので、あっさりと予定は変更になった。
気配を消しながら、数メートル後ろをついていく。こっそりついていくのはなんとなく気が咎めたが、声をかけたら彼女はきっと自室に帰ってしまうだろうという確信めいた予感があったので致し方ない。これが初めてなのだろうか、それとも、たびたび彼女はこんな風に切羽詰まった背中をして歩いているのだろうか。なにかを抱え込んでいるのか、背中が丸まっている。そうして早足で歩く。理由も持ち物も見当もつかない。
医務室に向かうものと思い込んでいた彼女はしかしあっさりと医務室を通り過ぎて、代わりに隣の部屋の中に消えて行った。すなわち、薬剤室。医務室に行くものと思い込んでいたので少々意外ではある。てっきりドクターに診てもらうか、それか会いに行くものと思っていた。
ほどなくして扉が開き、彼女が出てくる。いつもよりもいくらか顔が白い。壁際に避け、こんなところに隠れてついてきた男がいるなんて思ってもみないであろう彼女が目の前を通る。その手の中には錠剤のシートのみ。冷や汗の浮いた頬。何かを抱えているわけではなかったが、腹でも痛いのだろうか。
こそこそついて行くだけ行ってそのままというのも後ろめたい気がしたので、少し時間を空けてから彼女の元へと向かった。薬を飲んで眠ったかもしれない、そうだったらなにも言わずに戻ろうとも思ったが、彼女は朝と同じ、いつもの窓ガラスの前にいた。座れるようになっているところに手足を投げ出すように腰掛け、ガラスにもたれかかってぼんやりと夜の雪山を見つめている。雪面がぼうっとひかるようだ。
ゆっくりと視線を上げ、それからいつものように彼女の唇が最初の一音をかたちづくった。ロビンフッド。こんばんは。
「眠れないんですか」
「眠いはずなんだけどね」
自嘲気味に言って、彼女は瞬きをした。座る? と聞かれたので、言葉に甘えることにする。距離を開けたところに腰を下ろす。明かりはついていないはずなのに、外は一面白い雪だからか、やはりあかるく感じる。
「すんません、さっき薬剤室に入っていくところ見ました」
まどろっこしいのは面倒だと、さっさとそう言って隣の横顔をうかがう。気づいていなかったはずなのにさして驚いた様子はなく、呑気な声と横顔でそっかあと言ったのみだった。
「あれ、なんの薬ですか」
「え?」
「あ、言いたくなかったら別に」
「んー、うん、そうだねえ、お腹痛くてさ。たまになるけど、薬飲めば大丈夫」
そう言ってへらりと笑ってからもう一度、窓の外へと視線を戻す。
「ドクターは知ってるんですよね」
「うん、あとマルタさんも知ってる」
「マシュお嬢さんも知ってるんでしょ」
「ううん、マシュは知らない」
意外だ。当然知っていると思っていた。
「わかりやすいね」
ふふっと小さな笑い声がこぼれる。言ってないんですか、と聞くと、心配かけたくなくてね、と返ってくる。一番多く行動を共にするマシュは当然言っておいたほうがいいのではと思ったが、かすかに頑なさがちらつく横顔に口をつぐんだ。いろいろな意見を丁寧に聞く素直さをいつだって持っているように見えるくせに、本当はこうと決めたことは譲らず曲げない頑なさを持っている人間だ。よく知っている。
「……マシュには言わないでおくから、ちゃんとドクターとかには今日のことも言っといてくださいよ」
「うん。優しいね」
「はー、ほんといい加減にしないと早死にしますよ」
「いやいや、まだ特異点残ってるしはらいたくらいじゃ死なないってば」
「そういうことじゃねーんだけどなあ」
「あはは、ロビンらしい」
口を開けて肩を揺らして、いつもみたいに明るく笑う。先刻よりは血色の戻った頬が、それでもいつもよりも白く見える。まったく、これが優しさなものか。
マスターが倒れたのは、それから二ヶ月後。第六特異点、西の村にて盛大な宴会が開かれた夜のことだった。
見回りの途中、偶然家の陰にうずくまる姿を見つけた。慌てて駆け寄り背中に片手を回して支えてやりながら乱れた前髪を直して顔をのぞきこむ。真っ白になった顔、汗のひとつもかいていない額にぎょっとして、それで合っているのかもわからないが慌てて背中をさすってやる。彼女の瞳はゆっくりと焦点を結び、ゆっくりと息をするその合間に、色を失った唇が小さく文字をかたどる。ロビン。ごめん。
「アンタ、いつからここで」
「ロビン……大丈夫だから、心配しないで」
「いやどう見ても大丈夫じゃねえだろ! さっきまで呪腕の旦那と戦ってたんだろ、やられたのか」
「違う違う、そうじゃなくてこないだのやつ」
「倒れるほどのことならなんで誰か呼ばねーんだよ! いやそんなことよりマシュか、いやでもキャスター呼んできたほうがいいか」
「はは、慌てすぎぃ」
「笑ってんじゃねえよ」
「……ごめん」
謝るなよ、と言ったら思ったよりも低い声が出た。マスターは困ったような顔をした。そういう顔をさせたいわけじゃない。抱え込むように腕のなかで相変わらず白い顔をしているマスターは、目を閉じてゆっくりと息を吸っては吐き出しながらぎゅっと握った拳を腹部に押し当てている。
「腹ですか」
「んー、うん、今回だいぶやばいね」
「……胃潰瘍とか」
「いや違うけど、なんで胃潰瘍なの」
「ストレスで穴開いたんじゃないんですか」
「胃は元気です、さっきごはん食べてたのも見てたでしょ」
相変わらず身を縮ませているくせに、呑気にそんな受け答えをする。
「なんなんだよ本当に……」
思わず呻くように言葉が漏れた。こんな状況になっていても軽口を叩けるのだから生死に関わるようなものではないのだろうが、だからといってこちらまで楽観的でいられるわけではない。薬、回復魔術、誰を呼びなにをすればいいのだろう。自分に見つからなかったらきっと一人でなんとかしようとしたであろう彼女は人を呼びたがらないだろうがそんな場合ではない。そう判断して、彼女を壁にもたれさせてから迷いを振り切るように立ち上がる。彼女は目を開けて、まっすぐに自分を見上げた。
「マスターがなんと言おうと、とりあえずマシュを呼びます」
さっきみたいに困った顔をするかと思ったがそんなことはなく、彼女は一度静かに瞬きをしてから、わかりました、と観念したように、しかし毅然とした態度で言った。
「でも、その前にまずマルタを呼んでください。薬の場所、マルタさんじゃないとわからないから」
「……わかった」
彼女に自分の外套をかぶせる。腹が痛いと言っている相手を俵担ぎにするのもどうかと思ったのでおぶり、ひとまずは一行が住まわせてもらっている外れの家へと向かった。ちゃんと人ひとりぶんの重さはあるはずなのに、なんだか妙に軽く感じてすわりが悪い。ちらりと背中の彼女に目をやったが、顔を肩に押し付けているので顔色はわからなかった。
器用に足で戸を開け、彼女を背中からおろす。外套でくるまれてみのむしのようになっている年端も行かない少女に、絶対に動くなよと念を押してから再びマルタを探しに外に出た。
ほどなくしてその姿を見つけたとき、マルタは、見晴らしがよいのだと村の者たちに教えられた坂の切り返しの切り株に腰かけていた。自分に気づいてこちらへと視線を向け、穏やかに微笑む。
「今日はにぎやかで楽しい夜ね」
つい先刻まで俵藤太や玄奘三蔵とともに食事の準備に追われていた彼女の表情はやわらかく、満足そうに村の家々の明かりを眺めている。そんな穏やかな夜に水を差すようで悪いなと思いつつ、手早く用件を口にする。
「マスターが倒れた。薬の場所はおたくしかわからないから呼んでこいと」
「立香はいまどこ」
「間借りしてる家に寝かせてる」
「わかったわ。ありがとう」
マルタはさっと真剣な顔になったものの特に動揺などを見せることなく、すっくと立ち上がり早足で歩き始めた。サーヴァントが二人して走れば何事かと思われる。それをわかっているらしい彼女は、いつもよりも歩幅を大きくして目的地へとまっすぐに向かう。同じように、そのあとを追った。
ゆっくりと家の戸を開け中へと入る。マスターの小さなかばんの中から勝手知ったる様子でピルケースを取り出したマルタに、なんか飲み物持ってきてちょうだい、と言われたので外に出て、適当な理由をつけて宴席から水をもらって戻ると、体を起こした彼女は先程よりも穏やかな表情で小さなパンを食べているところだった。
「ありがとうロビン。薬飲ませちゃうわ」
「はいよ」
パンの最後の欠片をごくりと飲み込み、手の中の錠剤を手渡した水で流し込む。ほう、と息を吐く彼女は、いつものような表情に戻っていた。
「先月は平気だったのにね」
「いや、先月きてないんだ。だからかなんかめちゃくちゃお腹いたくて」
「二回分だからかしら。ともかく、今日はもう寝ちゃいなさいな」
マスターはマルタの言葉に素直に頷き、ゆっくりと横になって再びみのむしのように先刻かけてやった外套にくるまった。
「心配かけてごめんなさい」
「わかってるなら次からはこんなになるより先にちゃんと言ってくださいよ」
「うん」
笑いながらそう言ってやると、彼女は安心したようにほっと表情を和らげた。マルタはその様子を姉のような顔で見ていたが、彼女がしっかりと目を閉じたのを見届けると顔を上げ、目が合う。視線で促されるままに立ち上がり、二人して足音を忍ばせて外に出る。
振り返った聖女は、呆れたような、困ったような顔をしていた。
「知ってたのね」
まあ、とだけ答える。どんな反応を求めているのかまったく見当がつかなかったので相槌のみにとどめたが、マルタはこちらの様子にはお構いなしに月明かりの中を歩いていく。歩きながら話すつもりらしい。
「いつから?」
「二ヶ月前。夜中、偶然薬を取りに行くマスターを見かけた」
「つけたの?」
「まあ、つけましたけど。そのあとちゃんと面と向かって言いましたよ」
「ふふ、あなたらしいわね」
肩越しに振り返ったマルタは小さく笑った。カルデアにて藤丸立香に召還されたサーヴァントとしては最古参の二人であるとはいえ、やはりそういう反応をされるのは居心地が悪い。
「言いたくないなら言わなくていいって言ったんで、原因は知らねえんだ。マスター、なんか持病でもあんのか? 二回ってなんのことだ」
そう問うと、ぴたり、マルタが立ち止まる。それから、またゆっくりと歩き出す。
「ああ、そういう。なるほどね」
呟くマルタの静かな声によほど深刻なのかと緊張が走るが、当の本人はやっぱり女の子だものねえなんて間の抜けた声でうたうように言っている。
「いやぜんぜんわかんねーんですけど」
「案外鈍感?」
「ハア?」
「生理よ、女に月一回くるやつ」
生理! まさしく生理現象だったとは。やっぱり言いにくかったんでしょうねえ、とマルタはしみじみと言っているが、正体がわかって一気に力が抜けてしまった。思いもよらなかった。そんな脱力した気配を察知したのか、男性諸君にはわからないだろうけどつらい人は本当につらいのよ、とマルタがとがめるように振り返る。わかってますってば、と両手を上げて言うとマルタはふうん、と口を尖らせはしたものの、それ以上なにか言うことはしなかった。
「病気かと思った」
「胃潰瘍かと思ったんですって? さっき聞いた、笑っちゃった」
「心配してる側としては笑い事じゃなかったんだけどな」
「まあ、それはね。あの子も悪かったと思ってるわよ、だから私から話していいって言ったんだろうし」
二人分の影が地面に伸びている。霊体化したら、消えてしまう影。
「こんな状況でしょう、やっぱり不定期だったり重かったりするみたい。体調管理とか薬出してもらう関係でドクター・ロマンは知ってるけど、あとは私くらいにしか言ってないと思うから。あなたも気にかけてあげて」
「わかった」
「ええ」
マルタはやわらかく微笑んだ。
いつの間にか村をぐるりと一周しかけていたようで、あと数分でマスターの眠る家までたどり着くところへと戻ってきていた。それにしても、と思う。ひとつの疑問点。
「なあ、それを言うならマシュだってお嬢さんじゃないか」
なんであんなにかたくなに隠すのか、と尋ねる。立ち止まり、しっかりと体の正面をこちらへと向け、口を開く。
「ねえ、ロビンフッド。あなたも私も英霊だし、マシュ、あの子だってデミ・サーヴァント。あんまり彼女と一緒にいるから私たち忘れがちだけれど、この戦場で、立香だけが生身の人間なのよ」
女の声がする。それを聞くと、ああ、朝だなと思う。
ゆっくりと外へと出ると、朝日に向かっていつものように少女が祈り始めたところだった。
――天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。
いつものように、背筋を伸ばして両手を組み合わせる彼女の横顔を見つめる。閉じられたまぶたの上に、朝日が降り注いでいる。昨夜力をこめて握った拳で痛む腹を押さえていたのが嘘のようだ。彼女の唇が、淀みなく祈りを口にする。
脳裏に、昨夜のマルタの言葉がよみがえる。
「私が最初に気づいたのはオルレアンに行くよりも前だったの。たぶん精神的にも参ってたんだと思う。自分では意識してなかったみたいだけどね。あの子、自分だけこんな体で不甲斐ない、生理なんてなくなればいい、人間の体なんて不便なだけだって言って泣いたのよ? それがなによ、って私は思う。そういう風に思ったって悪いことなんてなにもないわ。でもね、私には何も言えなかった」
当然だ。マシュの先輩で、英霊たちのマスターで、消え行く人類史を照らす光であろうと一人立つ彼女の覚悟に、誰が水を差せるというのだろう。
――我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
何回、何十回と朝を迎えるたびに口にした祈りを、彼女はもうつまずくことはない。彼女の隣に立ちながら、これまでの朝、彼女がぐっと言葉に詰まるたびにその先を心の中で呟いていた。それが聞こえるはずはないが、頭の中の声に引っ張られるようにもう一度彼女が口を開くのが、小さなよろこびだった。
――国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり……
最後の一節を口にして、ゆっくりと目を開けこちらを見る。目が合うと、わずかばかりの気まずさをごまかすように笑った。
「おはよう。昨日は心配かけてごめんなさい」
「おはようございます、マスター」
もういいんですか、と聞くとこくりと頷いた。
「だいたい最初だけだし、薬飲めば収まっちゃうタイプだから」
「そういうもんか」
「まあ、薬が効きやすいほうなのは便利でありがたいよね」
明るく笑う横顔からは、特異点にて揺らぎ続ける彼女の存在の危うさもこの状況の切迫感も伺えない。強い人だ。普通の年頃の娘のくせに。
「マシュには言わないでいてくれたんだね」
「それは、まあ。マルタから色々聞いちまいましたし」
「ありがとう」
「礼なんて」
小さく微笑んでからすぐ顔をそらし、ぐうっと組み合わせた両手を上に突き上げて伸びをする。それからぱっと手を離して脱力し、彼女は大きなため息を吐いた。
「ほんっと不便、せっせと子供産む準備したって出番なんて一生こないのにね」
その言葉に少なからずぎょっとして、その動揺を隠すようにそんなのわからないだろ、と口にした。彼女はこちらを見もせず、ただ静かな目をして青空を見つめている。風が彼女の髪を乱して、それを手で適当に直しながら、彼女はふいに口を開く。
「セックスしたことある?」
「ハア!?」
「なに、びっくりしすぎ」
全く脈絡のない爆弾発言にひどく驚いて思わず大きな声を出してしまったが、彼女の瞳は相変わらず静かだった。なんだこれ、なんの話だよ。そう思いながら今度はこちらが深々と息を吐き出し、その額を指先ではじく。
「いたっ」
「年頃の娘が朝っぱらからそんなこと言うもんじゃねえだろ」
「じゃあ夜ならいいの?」
「屁理屈こねるんじゃねえよまったく」
左手で額をさすりながら、彼女はゆっくりと口を開く。
「生理がきたのは十二のときだった。あの頃はしかるべきタイミングで彼氏ができたりセックスしたりして、そのうち結婚したりお母さんになったりするのかなあなんてぼんやり思ってたけど、人生わからないもんだね。まったく思いもしなかった」
ゆるやかな風が、まだ少女と言って差し支えない子供の前髪をかき分けていく。
「きっと私は、処女のまま死んでいく。世界に仇なすなにかと心中するか、もしくは、なんかの拍子にころっと」
「……立香」
「人って簡単に死んじゃうんだなあって思ったの。そのときがきたら私もきっとあっさり死んじゃう。でも、そうだけど、私がひとりのまま死んだとしても、世界が続けば誰かが子供を産んでまた続いていくならそれもまあ、ありかなって。もうとっくに運命で決まってるかもしれないけど、それがちゃんと人理を修復したあとでないと困るしね」
だから、まずはこの時代をなんとかしないとね。
自分に向かって笑いかける彼女、自然体の笑顔。
「そう簡単に死なせはしませんよ。そのために俺らがいるんだから」
目を逸らしてはいけない。見届けなくてはならない。少女は、ぱちぱちと瞬きをしてから安心したように笑う。彼女の眩しさは、大気圏に突入して燃え尽きる前の流星の眩さだ。目を背けてはならない。彼女の為すことを、歩く軌跡を見届けなくてはならない。毎朝なにかに向けて祈る彼女はもう言葉に詰まらないだろう。そうだとしてもこれまでと同じように、明日からも自分は彼女の隣にいる。たとえこの道行きの果てに、なにが待っていようとも。
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