春の葬式

 しのぶ様の葬儀をようやく落ち着いて行うことができたのは、桜がもう散りきろうかという頃のことだった。しのぶ様はカナヲが持ち帰った髪飾り以外に何ものこしてはくださらなかったので、葬儀と言ってもお線香をあげたりしのぶ様のことを話すくらいしかできることもなくて、それでも、しのぶ様を慕い悼む多くの人が数日にわたってこの蝶屋敷を訪れた。入れ替わり立ち替わり誰かが訪れるものだから、なんなら今までよりも活気があるような気すらした。しのぶ様が今もどこかのお部屋で隊士たちの治療にあたっているような気がして、でも、しのぶ様も隊士も、もうどこにもいないのだった。
 ようやく全てが終わった喜びと安堵、多くのひとをうしなったかなしみとさびしさが、すぐ側に隣り合っていた。私たちの日々の生活にかなしみは溶け込み、それでいてふとした瞬間に、不在というものは生々しく目の前に突きつけられる。
 私はたくさん泣いた。たくさん泣いたけれど、それでもいつまで経っても現実味がないまま、葬儀に訪れ涙ぐむ人たちにお茶を出した。彼ら、彼女らのほうがよっぽど、しのぶ様の死というものと向き合っているみたいだった。カナエ様を亡くしたときも私たちは泣いても果てがないほどに泣いて、それは今も同じはずなのに、傷だらけでもカナヲが帰ってきてくれたことの抱えきれないほどの安堵と、ここにしのぶ様だけがいないという空白のほうが、私には切実な痛みだった。
 そんなことを思いながら、それでも私は、いつもの朝を繰り返している。食事や睡眠や会話といった生きていくために必要なものは、どんな状況でも決して不要にはならないのだと、改めて思い出した。カナエ様を亡くしたあのときも、しのぶ様を亡くした今も、のこされた私たちはどんなに悲しくても辛くてもそのうち必ずお腹がすく。暮らしのなかにある些細なくだらないことに笑ってしまうのに、もう一緒に笑っていた人がいないという、底の見えない空白の前に立ちすくみながら。
 カナヲやみんなの手当てをしていると、その空白から少し目を逸らすことができるような気がする。そうして一緒に治療を行っているはずのしのぶ様の姿を目の端で探してしまって、その度に、ああ、もういらっしゃらないんだなあと思う。実感なんてまだどこにもないのに、それなのに、その事実だけがずっしりと重く手元にのしかかる。
 私たちはみな、それぞれの大切な誰かがもう戻らないという痛みを抱えながら、それでもようやく訪れた平穏な生活というものをかみしめながら過ごしていた。何年もの間に、喪失と平穏はあまりにも近づきすぎてしまった。地続きという、その不均衡さの実感が、亡くした人への思いの大きさを表しているように思えてしまう。それだけが感情の指標のわけがないのに、というところまで含めて、私はやはり均衡を見失っている。
 葬儀というのはのこされた者たちのための営みであると毎回思うのに、今回は私だけが置き去りにされているみたいだ。ばらばらな感情、ちぐはぐな思考のなかで執り行われるのだから、なおさら。しのぶ様の面影を思うこと、今でもどこかの部屋にしのぶ様がいるかのように思うこと、しのぶ様がもうどこにもいないと思い知ること、それらがぐるぐると頭のなかをめぐる。葬儀が終わったら、私もしのぶ様がもうどこにもいないということとまっすぐ向き合えるのかなと思っていたのに、相変わらず私の時間だけが止まってしまったみたいに、しのぶ様のいろいろな表情を思い出すばかり。むしろ、ただいまと言うしのぶ様の明るい声が、扉を引く音が今にも聞こえるような、そんな感覚は葬儀の前よりも増しているのだった。

 冨岡様がいらっしゃったのは、葬儀の二週間後のことだった。冨岡様は弔問の遅れを丁重に謝ってくださったけれど、鬼殺隊がなくなったとはいえやはりこちらは水柱様と思い接してしまうので、葬儀にいらっしゃらなかったのも他の人々のことを慮ってのことだったのだろうなと思った。
 ちりーんという音が静かな部屋に響く。同じ仏具なのに、人によって音が違うなと思いながら、かすかにうつむく冨岡様をぼんやりと見つめる。冨岡様。しのぶ様の色白の頬を心配していらした方。
「神崎?」
 名前を呼ばれてはっとして、自分がじっとぶしつけに冨岡様のことを見つめていたことに気づいた。慌てて失礼をお詫びして、ごまかすようにお茶を淹れてきますと言って中座する。冨岡様がここにいらっしゃる頻度はそれほど多くはなく、それこそ必要があるときくらいだった。そのうちのたった一回、冨岡様に「胡蝶は体調が悪いのか」と尋ねられて、私は全然思い当たる節がなくて、そのようなことはないと思いますが……、と答えて、それで冨岡様は「そうか」と頷いて、それだけ。それだけの会話だ。もうずっと前のこと。すっかり忘れていたやり取り。思い出すことなんてほとんどなかったのに。
 足音が耳につく。色白の頬、確かにしのぶ様は色白だけれど、顔色が優れないときもあったけれど、あのときは確かにそういうわけではなかった。今から思い出しても私が気付かなかっただけとは思えない。だってほとんど毎日顔を合わせて、それこそお風呂上がりの上気したお顔だってお化粧前のお顔だって見ていたのだし。冨岡様は、何をもって体調が悪いのではと思ったのだろうか。
 さっき一度お湯を沸かしたのに、時間稼ぎのようにもう一度火をつける。さっき沸かしたばかりと思ったけれど、すぐに湯気が出るわけではない。じっと見つめているとふつふつと細かい気泡が立ち上る。急須にそそぐと緑茶のいい香りがたつ。最近の私はやっぱりおかしい。もうここにはいらっしゃらないと、ちゃんとわかっているのに。
「冨岡様、先ほどは失礼をいたしました」
「構わない、やめてくれ」
 お盆とともに部屋に戻ると、冨岡様は窓のそとの桜の木を見ていた。
「もう葉桜でしょう。少し前まではそれでも花が残っていたのですが」
「炭治郎から聞いた。言葉通り吹雪のようだったそうだな」
「炭治郎さんらしいですね。お手紙やり取りされてるんですか?」
「ああ。最近はだいぶ慣れてきた」
 そう言う横顔にほっとする。なかなかお返事をいただけないって前におっしゃってましたよ、今は喜んでらっしゃるのではないですか、と冗談めかして言うと、炭治郎、そんなことを……と冨岡様は心外そうな顔をするので、思わず笑ってしまった。みんな、角が取れたというか、表情が柔らかくなった。もとから優しい笑顔だった炭治郎さんですらそうなのだから、誰しもそうなのだろう。
「お出しするのが遅くなって申し訳ありません。今日は本当にありがとうございます」
「気にしないでくれ、むしろこちらが遅くなってすまない」
「とんでもない、みなさんへ気をつかっていただいたんだなって思ってますから」
 冨岡様は頭を振ってから湯呑みに口をつけ、すぐに離した。確かに熱湯にし過ぎてしまったかもしれない。何回も沸かして、ものすごく熱くなってしまっているはずだし。申し訳なさとおかしみがさっきの気泡みたいに一緒に沸き上がる。
 すみません、熱すぎましたね、と謝りながら冨岡様のはす向かいに腰を下ろした。左側の空席。私はその空白を視界の端にとらえて、見つめることも目を逸らすこともできないまま、ただ、足りないなあ、と思う。最初にたくさん流した涙とともに、かなしみもどこかに消えてしまったかのようだった。
「あの、いつか冨岡様が、しのぶ様は体調が優れないのかと尋ねられたことがありましたでしょう」
「……」
「ええ、こちらに立ち寄られた際に……、いつだったか、私もはっきりとは覚えていないのですけど」
 冨岡様は少し眉根を寄せながら記憶を探るようにうつむいて、それから思い出した、と言った。
「あのときの少し前、お館様のお屋敷で胡蝶を見かけたとき、いつもよりも顔色が悪いように見えたんだった」
「なるほど、そうだったんですね。いえ、あの日は特段お疲れというわけではなかったので、冨岡様がどうしてあんなことを尋ねられたのかと思って」
「……?」
「ええと、体調が悪いのか、と冨岡様と私にお尋ねになった日、いつものお顔色だったので、どうして冨岡様はしのぶ様の体調が悪いと思われたのかなとずっと思っていて。あの日のことではなくて、その前のことだったんですね」
 私は何を……と思いながらも解説すると、冨岡様の怪訝そうな眉根のしわがなくなって、それから、少し困ったように笑った。
「胡蝶や炭治郎に言われて、言葉足らずなところを気を付けるようにしてはいるのだが。まだまだだな」
 その表情は、私たちの傷がまだまだ生乾きであることを示すようだった。私はなんて言えばいいかわからなくて、曖昧に笑って、手元に視線を落とした。冨岡様の傷に触れる言葉を、私は持っていない。
 コチコチと柱時計の音がいくつか鳴ったあと、視線を感じて顔を上げる。さっきとは反対に、今度は冨岡様がじっと私を見ていた。さらに言葉を探しているような間があって、冨岡様が口を開く。
「元気でやっているか」
「ええ、皆さんも順調に回復されていますよ。カナヲもだいぶよくなりました。それを言うなら冨岡様だって」
「違う」
「え?」
「神崎は。どうだ、元気か」
 思いもよらない言葉だった。元気ですよと言えばいいだけの話なのに、咄嗟に言葉に詰まってしまって、まじまじと見返してしまった。こういうとき、この方は視線を逸らさないんだなあ、と思った。
 私。私は元気なのだろうか。よくわからなかった。皆さんに比べたら私なんてと確かに思うのに、その一方で元気ではないなあと思う。
「……どうでしょう。よくわからないんです」
 苦笑いとともにこぼした返事に続く言葉を、冨岡様はそのままじっと待っていた。私は手元の湯呑みに意味もなく手を添えて、ぼんやりと遠くにゆらめくような熱を感じとる。熱いなと思うけれど、それだけ。縁をなぞる私の手は、とっくに熱に鈍感になっている。
「訃報を伺って、カナヲが帰ってきてくれて、たくさん泣きました。お葬式にたくさんの方がいらしてくれて、こんなに慕われていたんだなあって、それはそうだよなあって改めて思って……、お葬式が終わったら気持ちが追い付くかと思っていたのに、なんというか……私だけ、前と同じこの家に住んでいるみたい」
 まとまらない言葉が、いまの感情そのものだった。私だけ、今もしのぶ様のいる家に住んでいるみたい。もういらっしゃらないのに。私だけ、ちゃんと向き合えないままで。
「だめですね。これまでたくさん、皆さんにえらそうなこと言ってきましたけど、私が一番立ち止まったまま動けないでいる」
「当たり前のことだろう、ずっと一緒に暮らしてきた家なんだから」
 思いのほか強い口調だった。はっきりと言い切るその言葉を、やさしいなと思う。気を遣わせてしまっていることが申し訳なかった。冨岡様にだって、私には思い至らないような感傷がきっとあるだろうに。
「ありがとうございます。すみません、お気遣いを」
 そう言うと、冨岡様は眉を寄せて不満そうな顔をした。その表情のまま、思いもしないことは言わない、と言う。しのぶ様に何か言われたときによくしていたお顔だ。懐かしくてついふふっと笑ってしまって、繋がりのない私の反応に、冨岡様は不思議そうに首を傾けた。
「すみません、よくしのぶ様とお話しされていたときにそういうお顔されていたなと思って……」
「胡蝶は弁が立つから」
「ええ、ええ、本当に」
 やわらいだ空気に乗じて、本当にありがたいことだと思っているんですよ、と話題を戻した。
「私はさいごまで一緒に戦えなかった。治療する人がいないとどうにもならないと皆さん言ってくださって、それもそうなんだろうなと思うけれど、でもやっぱり私は……」
「戦いの場はいつだってひとつじゃなかった。刀を振るだけが戦いじゃない。それでもここに留まって、自分の最前線にいつも立っていただろう」
「……そうかな。そうですね」
 同じようなこと、しのぶ様にも言っていただいたなあ。久しぶりに鼻の奥がつんと痛んだ。
「かなしいのに、かなしみに置き去りにされているのは、私がちゃんと戦えなかったからだと思って」
「うしなった人に向き合うのに、いつまでにという期限はない。俺だってそうだ。この家はあまりにも当たり前に胡蝶がいたから」
「あまりにも当たり前に」
「そう、どこか別の部屋にいそうな気がする」
「冨岡様も……」
「薬をちゃんと飲んでいないと怒られそうで」
「え、飲んでおられないんですか」
「やめてくれ、ものの例えだ」
 ちゃんと飲んでいるから胡蝶と同じ顔をしないでくれ、と言われて笑ってしまった。嬉しかった。
「冨岡様もそんな風に思うんですね。安心しました」
 冨岡様のおっしゃるとおり、ずっと一緒に生活してきたこの家で、思い出さないことのほうが難しい。喪失も空白も、かなしみも懐かしさも、そのうちそのままに私の一部になっていくのだろうか。冨岡様も、だんだんと表情と口調がやわらかくなって、誰とでも談笑したりするようになるのだろうか。
 しのぶ様も、そういう喪失も空白も飲み込んで、いつもああして笑っていらしたのだろうか。

 しのぶ様に一度だけ尋ねたことがある。冨岡様のこと、お好きなんですか、と。しのぶ様はあの大きな瞳を揺らすことすらなく、ええ、と頷いた。橙が窓の外を飲み込むような夕映えの日だった。ええ、すきですよ。不器用でやさしい人です、あのひとは。しのぶ様はゆっくりと繰り返す。その「好き」の意味を私は聞き返せない。凪いだ湖面みたいな口調で発せられた「好き」の下にあるものを、覗き込む術を私は知らない。はっきりと、ゆっくりと口にしたしのぶ様の答えは、こちらとあちらを区切る境界線のようだった。そんな私を見つめてしのぶ様は微笑む。完璧なうつくしさで。

 軽やかな足音が遠くから聞こえた。買い出しに行っていたきよたちが帰ってきたらしかった。
 そろそろお暇を、と冨岡様が口を開くより早く、ひょっこりと扉からきよとなほが顔を覗かせた。二人は賑やかな挨拶も早々に買い物の荷物を片付けに行ってしまって、それからカナヲが遠慮がちにお辞儀をした。つられるように冨岡様も会釈をする。その一連の様子がなんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。
 カナヲはそのまま少し所在なさげにして、それからもう一度、さっきよりは勢いよくお辞儀をして、臙脂色のスカートを翻す。入れ替わりで顔を見せたすみの、アオイさん! と元気な声が響く。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました! 冨岡様、お越しいただいてありがとうございます!」
 返事もそのままに、よかったらご飯も、と引き留めにかかるすみと、献立を尋ねる冨岡様。ちぐはぐな会話が繰り広げられる、蝶屋敷は相変わらず賑やかだ。私たちは変わらず、この家で日々を送る。いつかここを出る日がくるかもしれないけれど、生家ではないけれど、ここは確かに、私たちにとっての家なのだ。
「冨岡様、次はぜひ一緒にお夕飯食べましょうね」
「ああ、ありがとう」
「すみません、勝手ばかり」
「いや、俺一人では悪いから。次は炭治郎とくるよ」
 炭治郎さんがきたらカナヲさんも喜びますね、とすみが笑う。薬や食べ物を片付ける音、手を洗う水の音、話し声、笑い声。やはり今も、ひょっこりとしのぶ様がそこの扉を開けて帰ってきそうな気がするけれど、不思議ともう、そのことを変だとは思わなかった。冨岡様のおかげでそういうふうに思えるようになったことが、ありがたくて、さみしくて、うれしかった。
「そうだ、フグのごはんもあげておきますね」
「ああ、ありがとう、お願い」
 その瞬間、冨岡様は心底不思議そうな顔で、ふぐ、と呟いた。
「ふぐは飼えるものなのか……?」
「あれ、お話ししていませんでしたっけ? しのぶ様がつけた名前なんです、金魚に」
「金魚」
「はい、金魚に!」
「……胡蝶……」
「ふふ、でも名前はあの、ちょっと変ですけど、本当にかわいがっていらしたんですよ」
「禰豆子さんとも一緒にお世話しました!」
「禰豆子と?」
「はい、まだ禰豆子さんがお話できないときから一緒に眺めたりしてました! ひらひら尾びれがきれいで」
「名前の由来どおり、結構大きくなってるのよね」
 そのとき、遠くからすみを呼ぶきよの声が聞こえて、私もお片付けに行きますね! とすみはぺこりと頭を下げた。帰ってきたときと同じ軽やかな足音で部屋を出ていく。それを見送り、冨岡様と向き直る。冨岡様は、禰豆子からも炭治郎からも聞いた、と呟いた。
「胡蝶に本当によくしてもらったと二人ともよく言っているよ」
「そうなんですね。私もなんだか嬉しいです。金魚のこと、ご存知かと思っていました」
「ああ。……胡蝶らしいな」
 冨岡様が窓の外の葉桜を見上げ、どこか愉快そうに口の端を緩めた。不器用な人、やさしい人。冨岡様の感傷も、しのぶ様の白い頬に気づいた理由も、私は知らない。いま何を思っているのかも、かさぶたになる前の傷も、私が立ち入るようなものではない。私はこの先も、知らないままだけれど。でも、こんなやわらかい表情、しのぶ様にも見せてあげたかったなあ。

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