破れ鍋と綴じ蓋

 中古車というにはあまりに年季の入ったレンタカーだった。窮屈そうに運転席に体を押し込みハンドルを握るオクジーは文句のひとつも言わない。それが無性に癇に触る。埃で汚れたフロントガラスのあまりの汚さについ舌打ちしたら、オクジーが悪いわけではないのに謝ったことも、ウォッシャーの出し方がわからなくてまごまご慌てるところも、そしてまた謝るところも、全部全部、無性に腹立たしく、バデーニを苛つかせる。
 もう随分と走っている。ガタガタと車が揺れる。会話はない。晴れていたらさぞ綺麗な空と海が見られただろうに、二人の関係をそのまま映したような曇天だ。窓を開けると、どこからか海の匂いがする。

 きっかけは些細な、きっと簡単に取り返しがつくようなことだった。実際、昨日の夜までは二人でこの出張半分旅行半分の旅を満喫していたのだ。
 バデーニが学会やら国際会議でしばらく家を空けることは珍しくなかったが、今般の開催地が日本は沖縄だと話したところオクジーの目がきらりと光った。聞けば、かの地の水族館には世界最大級の水槽があるそうで、見てみたいのだと言う。一緒にどうだと問えば瞬時に喜色満面になり、しかし仕事の都合がつくかわからないとまた瞬時に笑顔がしぼむ。とはいえ聞いてみないことにはわからないと彼の担当編集に連絡してみたところ、多少の締切の変更さえクリアできれば問題ない、むしろ海洋系特集は定期的に組まれるものだから取材と勉強もかねて行ってきたらいいと背中を押され、晴れて二人で沖縄に行くことになったのである。
 日本に行くのは二人して初めてだった。国際会議ついでにあの人とも話したい、ならばこちらの分野も、あのチームは今回は参加するだろうか……と出張の予定をパズルのように組んでいると胸が躍ったし、その合間に観光の時間を組み込むべく色々と調べるのも楽しかった。オクジーが嬉しそうにしている横顔を見るだけで、バデーニは確かに、すでに楽しかったのだ。
 結果としてバデーニは三日間にわたる国際会議とその合間の時間を非常に有意義に過ごし、オクジーもまた、彼の関心に基づく取材を心行くまで行えたらしかった。残るはバカンスのみ、だったはずなのに。
 どこから雲行きが怪しくなったのだろう。きっかけは些細なことだった、のだと思う。なぜなら自分が何を言って、彼が何と返して、それに自分が何を言ったのか、明確に思い出すことすらできないのだから。
 頭の中が目まぐるしくせわしなく動いているときに、配慮にかける発言や直截な物言い、酷い時には上の空で返答をする悪癖があることを、バデーニは自覚していた。だからきっと今回もそうだったのだろう。
「……じゃあ、飛行機変更して明日帰りますか」
 底冷えするようなオクジーの声が、バデーニを目の前の現実へと引き戻す。弾かれるように顔を上げる。ここ数日の議論と自分の研究を掛け合わせて吹き荒れていた脳内の嵐が急に通り過ぎて、代わりに、耳の奥でさあっと血の気の引く音がした。
 無言。視界の端で、書き込みでぐちゃぐちゃになっていたタブレットの明かりが落ちる。何か言わなければと思うのに、口が乾いて言葉が出てこない。
「……すまない、私は……」
 彼が何か言う前に何か言わなければ。その一心でかろうじて口を開いたが、続く言葉を探し見つける前に、オクジーは大きな手で目元を覆い、大きなため息を吐いた。再びの無音。指先が冷えてびりびりと震える。
「……すみません。今日はもう部屋に戻ります」
 そう言ったオクジーの声は、いつもの調子だった。つとめてそうしているのだと、わかった。
「いま、俺もバデーニさんも、話してもろくなことにならないと思うから。明日にしましょう」
「あ……」
 名前を呼ぼうとして、呼び止めようとして、しかしバデーニの口から出たのは息が漏れるのと大差ない単語未満の母音のみだった。オクジーはすでに扉のほうに体を向けていて、振り返らない。中途半端に立ち上がったバデーニの膝から、タッチペンが転がり落ちる。左手に持ったままのタブレットが、急に何倍も重い。
 待ってくれの一言できっと済んだのに、小骨のように喉に引っ掛かって、出てこなかった。
「……おやすみなさい」
 振り返らないまま、オクジーが小さく呟く。バタンと扉が閉まる音が、おしまいの合図のように聞こえた。

 結局、翌朝オクジーに会うことはできなかった。朝食の約束をしていた時間にバデーニが持てる覚悟を全て振り絞り隣の部屋の呼び鈴を鳴らしたとき、オクジーはすでに不在だったためである。連絡をしようとも思ったが、返事がないのが怖くてできなかった。明日――もう今日になってしまったが、帰りますかと温度の消えた声で言っていたので、愛想を尽かして一足先にチェックアウトするか、さっさと一人で水族館に向かってしまったのかもしれない。いやでも、いくらなんでも明日話そうと言ったのにそんなことをするだろうか、あのオクジーくんが……。もしかしたらただ部屋を出ていただけだったのかもしれないし。その希望的観測まで至った約一時間後、燃えかすになっていた覚悟を再びかき集めて隣の部屋の呼び鈴を鳴らしに行ったが、やはりオクジーは不在だったためバデーニはしばらく廊下で立ち尽くした。
 本当は今日、一緒に水族館に行くはずだったのに。数日滞在して若干の生活感が生まれた部屋が、虚しい。相変わらずオクジーからの連絡はない。さすがに復路の機内ではまた顔を合わせられるだろうか。まあ、彼がフライトを変更していなければの話だが。
 呼び鈴が鳴ったのは、バデーニの自嘲まじりの悲観がそこまで至ったときだった。のろのろと扉に向かい覗き穴に顔を寄せる。扉の前にいたのがほかでもないオクジーだったため、それまでの緩慢な動作が嘘のようにバデーニは俊敏にチェーンを外し扉を開けた。
「おっ……はようございます」
「……おはよう」
 あまりの勢いに少々のけぞりつつも、気まずさを隠すように曖昧な笑みを浮かべながらオクジーが言った。いつも歩み寄ってくれるのはオクジーくんだな、そう思いながらバデーニも挨拶を返す。昨日はすまなかったとまずは謝ろうと口を開きかけたがしかし、オクジーの言葉にバデーニの珍しく殊勝な考えは霧消した。
「バデーニさん、今日は朝ごはん食べなかったんですか? コーヒーだけ持ち帰れたんで持ってきましたけど……」
 空きっ腹にいきなり飲んだらお腹痛くなっちゃうかななどと筋違いの気配りをする目の前の男に、バデーニの腹の虫が一気に騒ぎ出す。せめてもの自制心で「は?」を飲み込んだ自分を褒めてやりたい。一体! こちらが! どんな気持ちで!
 感情は沸騰寸前の湯のようになっていたが、しかしそれを表に出すのも癪で、とりあえず差し出されたコーヒーを受け取ろうと手を伸ばす。
「熱いから気をつけて、上と下持って」
 そう言われた瞬間、自分の感情が沸点に到達したのが自分でわかった。無視して紙カップの側面をガッと掴む。熱い。
「……予定通り11時に出る。支度して、エレベーター前」
 煮えたぎる胸中と焼けそうな手のひらとは真逆の冷たさでバデーニは言い放った。オクジーは一瞬顔を歪めて、しかしそれはほんの一瞬のことで、いつもと同じトーンでわかりましたと呟いた。
 オクジーが一歩引く。扉がゆっくりと閉まる。コーヒーを持つ右手は限界寸前だった。

 風が髪を乱す。車内では時折オクジーのスマートフォンが道案内の音声を発するのみで、会話はない。四六時中話しているわけではなく、むしろ普段から特に話もしないまま一緒に歩くことがままある二人だ。そういうときの静かな空気はとても穏やかであたたかで心地よいのに、今はただ、重苦しいだけだった。
 なぜあんなにも急に、突沸と言っていい瞬発力で腹が立ったのか、バデーニはずっと考えていた。支度をしている間も、舌を火傷しそうだからと放置してすっかり冷めて酸っぱくなったコーヒーを一気に飲み干したときも、エレベーターの階数が小さくなっていく間も。観光客の数に対して台数が全く足りていないらしく、途中でレンタカーを返して別の車を借り直す必要があったので、身振り手振りも交えてその手続きをするオクジーの背中を見つめていたときも。
 昨日の会話も、なんとか見つけて都合をつけてくれたレンタカーが非常に古く彼には窮屈なサイズだったことも、オクジーが悪いわけでは決してない。
 沈黙が続けば続くほど、口火を切るのが難しくなっていく。会話にも摩擦力があることを、バデーニはオクジーと出会ったことで初めて知った。
 ほどなくして、スマートフォンが目的地近くであると告げる。沈黙を破ってくれたルート案内に心の中で感謝を捧げつつ、間を置かずに運転ありがとうと言うと、ようやくオクジーはほっとしたように表情を和らげた。メトロノームのようなウインカーの音とともに、駐車場へと進んでいく。
「車、結構いますね。とめられるところあるかな……」
「あそこ、もうすぐ出るんじゃないか?」
「ほんとだ、遠いけどいいですか?」
「見つからなくてぐるぐる探し回るよりいいだろう」
 じゃあとめちゃいますね、と言って器用に車を収めるオクジーの横顔を盗み見た。口論になる前に譲歩してくれるのはいつだって彼だった。今日だって、きっといつもの調子に戻そうとしてくれていたのに、それを突っぱねて自分だけが勝手に苛立っている。
 エンジンが止まる。
「ありがとう」
 いい加減潮時なのかもしれないなとバデーニは思う。ならば、愛想を尽かされるまえに自分から手を離すほうがいい。ドアを閉める。少し先を歩く大きな背中を見ていたかったが、オクジーはいつものように立ち止まりバデーニが隣に来るまで待っていたので、それはかなわなかった。
 まあ、そんなバデーニの感傷は、入り口にたどり着いた途端早くも崩れ去ったのだが。
「人が多すぎる!!」
「さすが観光地」
 悲鳴じみた声にオクジーは苦笑するほかない。溢れかえる人波。入り口近くのジンベエザメのモニュメントの手前では人々が思い思いに写真を撮っている。バデーニは人の多い場所も並んで待つのも好きではない。これはいよいよ完全に機嫌を損ねたかなとオクジーは内心冷や汗をかいたが、右隣に視線をやり驚いた。何かをぐっと飲み込んだような表情の彼と目が合ったからだった。
「行かないのか」
「いや、行きます……」
 先刻までの様子とは打って変わって覚悟を決めたようにすたすたと歩いていく背中を慌てて追いかける。バデーニの考えていることが、よくわからない。

 一度会話が始まってしまえば自然とそれなりに弾む。館内も相応の混雑具合だったが、二人とも上背が高いのでそこまで見て回るのに困ることはない。しかしさすがに人垣分の距離はある。自分は目が良くてよかったなと思いつつ、学名や説明の書いてあるプレートに書かれた文字を読み上げる。学名の発音は自信のないものも多かったが、オクジーが代わりに読むたびに、バデーニは小さく微笑んだ。
 刻一刻と変わりゆく水槽のなかに対する着眼点においても、オクジーの感性の瑞々しさは変わらない。二人でこんなふうに出掛けるのも最後になるんだろうと思いつつ、バデーニはじっと目を凝らし耳をすます。楽しげに一点を差す指先も、ぽつぽつと漏らす感想も、水面の揺らぎを映して横顔に落ちる影も、逃すことのないように。
 感傷は絶え間なくバデーニに押し寄せていたが、ただ子供や団体客の声で騒がしさすら感じる館内ではどうしたって水を差される。自分はこれだけ意識を傾けてようやくオクジーの声を聞き漏らさずに済んでいるというのに、そこかしこにいるカップルたちは難なく自分たちだけの世界に入り込んでいる。すごいなと他人事のように思い、そんなことを思う自分に苦笑するほかなかった。
「あっ、バデーニさん、あれですよ!」
 子供のようにオクジーが前を指し示す。事前にホームページの写真で見ていた印象よりも遥かに大きな水槽が見えてきて、オクジーが早足になった。開いた距離を詰めるのが惜しくて、バデーニはわざとゆっくりと歩いた。
 立ち止まり、悠々と泳ぐジンベエザメを見上げるその瞳が、きらきらとひかっている。

 ――知り合ってそれほど経っていない頃、なぜ、科学系雑誌から子供向けの図鑑まで、領域問わず幅広い媒体で書いているのか、ライターをしているオクジーに尋ねたことがある。彼の文章をいくつか読んだが、どれも明快でわかりやすく正確だったので、対象となる読者を絞ったとしても全く問題ないだろうと思ったからだった。
「新しい世界を知ることが好きなんです」
 はにかんで答えたときの彼の瞳も、同じようにきらきらと輝いていた。がらりと世界の見え方が変わるような、そんな衝撃に心躍るのだと。そしてその衝撃を、高揚や感動を、知らない誰かに伝えていくことができるなら、自分も誰かの新しい世界の一部になれるようなそんな気がするのだと、嬉しそうに語った。
 オクジーはとにかく質問のセンスが良かった。楽しげに相槌を打ち、時に咀嚼し理解しようと考え込む姿を見ながら、なるほど彼の書く文章はおもしろいわけだと思う。読者を引き込み、興味を駆り立てる。その分野をもっと知りたくなる。子供向けの図鑑へのオファーが来るのも頷けた。
 当初はバデーニが話しオクジーが尋ねるという構図の会話が多かったが、さすがこれまで様々な分野に携わってきたとあって、オクジーの引き出しの多さは相当のものだった。彼との会話には、近しい領域の研究者との会話とはまた違う豊かさがある。バデーニのほうがオクジーから教わることも次第に増えていった。オクジーには、とはいえ自分はどの分野も専門家ではないからと謙遜しすぎるきらいがあり、それはしばしばバデーニを苛立たせたが、そんなのは些細なことだった。
 そう、些細なことだった。それだけのことに気づくのに、ずいぶん時間がかかってしまった。本当はただ、彼自身のことを、彼の五感を通して見る世界を、もっと知りたい。本当はとっくに、それだけでよかったのだから。

 オクジーの右隣に並ぶ。一面に広がる青。見上げると改めてとんでもない大きさだ。
「このアクリルガラスの厚さ、六十センチらしいですよ。それだけあってもちゃんと実物大で見えるなんてすごいですね」
 海の中にいるみたいだ、とぽつりと呟く、その横顔を見つめる。頷いて、視線を前に戻す。時間の流れがゆったりと遅くなって、ざわめきすら遠く感じる。ただぼんやりと、ずっとでも眺めていられるなと思う。
「きれいだな」
 自然と口から出た。目が合う。
「きみと来ることができてよかった」
 バデーニが微笑む。その表情にぎょっとして、反射的にオクジーはバデーニの左腕を掴んだ。びくりとバデーニの肩が跳ねる。
「なんだどうした」
「最後にって何ですか?」
「は?」
「なんでそんなこと言うんですか」
「言ってない、なんだ急に」
「じゃあ顔に書いてありました」
「書いてない! じゃあってなんだ!」
「ちょ、ちょっと待って一回こっち来てください」
 そのままぐいぐいと、人の流れの邪魔にならない壁際にまで引っ張られる。訳が分からないと思いつつも、とりあえずおとなしくついて行く。ふと右を見ると、水槽の前の人々が逆光でシルエットになっていた。インターネットによく出てくる写真はこちら側から撮っていたのかと現実逃避じみたことを思う。
 立ち止まり、くるりと振り返ったオクジーは、焦ったような怒ったような、なんとも言えない表情をしていた。
「まず最初に言っておきたいんですけど、俺はこれからもバデーニさんとこうやって出掛けたりしたいし、きれいなものを見たらバデーニさんにも見せてあげたいと思うし、おいしいものは一緒に食べたいし、いろんな話をしたり聞いたりしたいと思ってます」
 ゆっくり淡々と言葉を重ねる。バデーニはそんなオクジーをじっと見つめるのみで、口を開かない。
「そのうえで、上の空で適当な返事をされるとやっぱり嫌です……いや、別にバデーニさんの何かを制限したいわけでは全くなくて! 目まぐるしく思考をめぐらせてるバデーニさんの百面相を見ているのは好きだし」
 百面相をしているのはきみのほうでは、とバデーニは咄嗟に思ったが、それはいま言うべきものではないということはさすがにわかる。沈黙を続けるバデーニの目を、オクジーはじっと見つめ返した。
「あの、俺も、今日のこと楽しみにしていたので。だから、またバデーニさん違うところに行ってるなってわかってたけど、すぐにでも帰りたいみたいに言われて、嫌だった」
「……きみは」
「はい」
「明日改めて話そうと言っていた、その話をいましているということか?」
 静かな声で、バデーニが問う。その声からはすこんと感情が抜け落ちたようだった。ただシンプルに、事実だけを確認しようとする声。ぐっと詰まりかけた息をなんとか飲み込み、オクジーはしかし、しっかりと頷く。
「そうです。本当は食事のときとか部屋に戻ってからとか思ってたんですけど、なんか、拗れそうな気配を感じたから」
「拗れそうな」
「はい」
「……昨日。私が、すぐにでも帰りたいと言った?」
「独り言みたいに色々言っていて完全に心ここにあらずだったので、そんなに早く研究の続きがしたいですかって聞いたら、上機嫌に頷いて」
「帰りたい、と」
「……もう帰りたいですかって聞いたら、るんるんで、うんって言ってました」
 気まずそうにオクジーが目を逸らした。私が言ったわけじゃないじゃないかとか誘導尋問じゃないかとか色々思ったが、なるほどそれで昨日の会話に繋がるわけかとようやく合点がいく。その文字列そのままに言ったわけではなくとも、彼がそのように受け取ったのなら。
「……それは確かに私が悪いな」
「えっ」
「すまなかった」
 バデーニがそう口にすると、オクジーが弾かれたように顔を上げた。
「なんでそんな驚いた顔なんだ」
「謝ってくれると思わなくて……」
「会話は議論ではないと教えてくれたのはオクジーくんだろう」
 つい苦笑してしまう。二人して顔を見合わせてぎこちなく微笑みあう。しかし、次の一言でバデーニの笑顔は再び固まった。
「意地悪な聞き方をした俺が悪いのに」
 穏やかだったはずの内心が一瞬で荒れ狂う。カッと顔が熱くなった。今回のことは自分に発端の非があるのだから、ちゃんと謝って、そして歩み寄ってくれるオクジーにちゃんと応えなければと思った、はずだったのに。凍ったり燃えたり、オクジーといると感情が忙しない。
「自分が悪くないときに謝るな!」
 つい責める口調になってしまったが、自分で自分を止められなかった。
「昨日のことも、理不尽にきみに当たり散らすのも、きみが謝ることか!? 違うだろう、そうやって安易に自分を下げて場を収めようとするな! 翌日に何事もなかったかのようにするところも気に食わない! 表面だけ取り繕ってどうする!?」
 オクジーは目を丸くしていたが、バデーニの言葉を飲み込むうちにじわじわと口元が緩む。それどころではないとわかっているのに、止められない。
「なんで笑う!」
「あの」
「なんだ!」
「今朝機嫌が悪かったのって、だからですか?」
 バデーニは勢いよく開きかけた口を閉じ、一度ゆっくりと瞬きをした。深呼吸ののち、再び口を開く。静かな声で、言う。
「そうだ」
 感情的になる自分を、それを制御しきれずに相手にぶつけている自分を恥じる。情けないと思う。きみの話を聞くのが楽しすぎて、きみといるだけで満ち足りて、いつの間にか心を傾けすぎてしまった。適切な距離感よりも。
「私は……」
「ストップ!」
 再びただならぬ気配を察知したオクジーは動揺して、咄嗟に声を上げた。言葉を遮られたというのに、バデーニはつい先程までとは打って変わって余所行きの冷静な顔だ。不満げな表情すら見えない。こういう顔をしている時はろくなことがないんだよなと、オクジーは自分の瞬発力に感謝した。
「バデーニさん、俺、話をしましょうって言いましたよね。自己完結しないでください」
「してない」
「ええっと、じゃあ、俺にもわかるように過程もちゃんと話してください。遮らないでちゃんと聞くから。あっほらあそこ席空きましたよ、一回座りましょう」
 なんでもいいからとにかく仕切り直そうと、あたりを見回す。大水槽を正面から眺められるように置かれたシートに運良く空席を見つけて、オクジーは足早に向かった。無意識に詰めていた息を吐き出してから、バデーニも後を追いかける。
 オクジーは立ったまま振り返り、バデーニを待っている。先に座ったって構わないのに。いつの間にか定位置となった、彼の右隣。腰を下ろすと途端に、足の裏がじんじんと痛んだ。
 上の空で返事をしてしまうのは、気が緩んでしまうからだ。とにかく謝る態度に苛立つのは、彼が自分自身を軽んじているように思えて嫌だからだ。次の日には何事もなかったようにされると腹立たしいのは、根本的な解決をしないでもやり過ごせればいいと思われているようで嫌だからだ。
 わかっている。全部、自分の一方的な感情の押し付けだと。腹立たしさや苛立ちの奥にある、本当の感情も。自分自身をもっと大切にしてほしい。お互いの間に起こったことを、なかったことにしないでほしい。自らの内面を深く掘り進んだ先、そういう思いがあるということに行き着いてしまった以上、それらは事実として受け入れなくてはならない。
 視線を落とす。弾みをつけるように、短く息を吐き出した。
「オクジーくん」
「はい」
「きみは優れたライターだ。探究心があって、着眼点もいい。知らない分野にも誰に対しても真摯で、そんなオクジーくんの言葉だから、きみ自身のようにいつも生き生きとしている。私は文学はほとんど通ってこなかったが、この人の文章が好きという感情を理解できたのはきみのおかげだ」
「あ、ありがとうございます」
 顔を上げる。照れ笑うオクジーを見つめてから、視線を前に向ける。
「どうして領域問わず媒体問わず、なんでもやるのかと聞いたことがあっただろう」
「ありましたね」
「新しい世界を知ることが好きだと」
「おかげでバデーニさんに会えました」
 確かに、天文についてはバデーニはオクジーに新しい世界の一端を見せることはできるだろう。出会ったきっかけもオクジーから大学への問合せだった。しかし科学の進展とともに世界は際限なく細分化され、研究はそれこそ星の数ほどあり、ゆえに、彼の興味関心が尽きることはない。バデーニは、そのほんの一部分しか、オクジーに手渡してやることができない。
「……私は、自分が面倒な性格をしていることを自覚している」
「はい……?」
 唐突に飛んだ話に疑問符を浮かべながらとりあえず頷くオクジーを横目で見上げながら、バデーニは続ける。
「きみもそうだが、私よりよくできた人間はそれこそこの世にごまんといる。そのうち研究者がどれほどいるかというと、まあ自ら茨の道を猛進する我々などえてして変人か狂人だろうが、それでも、私より人間がよくできた研究者もいることはいるだろう」
 自分は心を傾けすぎてしまった。だから感情に振り回されて、同時にオクジーの感情もかき乱している。これはよろしくない。自分たちの最適な距離感はきっと、これではない。
「別に、私と一緒にいる必要はない」
 オクジーは何も言わない。彼の視線を横顔で感じていたたまれなかったが、それもほんのわずかな時間だった。彼もまた、視線を前に戻して、ただじっと、目の前の大水槽を見つめている。
 振り回したいわけではない。制限したいわけでもない。押し付けじみた勝手なもので、きみの貴重な時間を、人生を、浪費したくない。そしてそう言ってしまえば、情の深いきみはそんなことないと言うだろう。だから、言わない。
 バデーニは再び口を開く。
「私の側にいなくたって構わない。いつだって自由でいてくれれば、それだけでいい。私は何より、きみの言葉が切り開いていく世界の新しい地平を、きみの言葉とともに見るのが好きなのだから」
 独り言のような声だった。しかしそれらは余すことなく、しっかりとオクジーへと届いている。心臓を直接掴まれたように胸が痛い。頭を抱えるしかなくて、はああ、と上体を膝へと倒しながら大きく息を吐き出した。
「なんてことを……」
「なに?」
「物書きにはとんでもない殺し文句ですよ、それ」
 オクジーはもう一度大きく息を吐き出し、ちらりとバデーニを見上げた。当の本人は自分の発言の破壊力を自覚していないようで、不思議そうに首をかしげていた。
「でもまあ、バデーニさんが考えていることはだいたいわかりました」
 心臓の痛みを呼吸でやり過ごしながら、なんて言ったら伝わるかなと考える。このひとは頭の回転が速くて、自分を顧みて突き詰めて考えることはできるくせに、自分だけで何でも決めてしまう。ちゃんと筋道立っているのに、相手がそれをどう思うかを勘定に入れていないので、結論が大きくずれるのだ。
「何から言おうかな……、まず、最初に言った前提は変わらないです。俺はバデーニさんとこの先も、どこかに行ったり食べたり話したりしたいです」
 うんともああとも言わず、頷きもせず、バデーニはじっと続く言葉を待っていた。まずはオクジーの言い分を全部聞こうとでもいうところだろうか。中途半端な肯定はしないところがバデーニらしいなと思う。
「それで、それは、四六時中ずっとべったり物理的に一緒にいたいという意味じゃないです。ここまでいいですか?」
 バデーニはこくりと頷いたが、その顔はまだ怪訝そうだった。親しい友人はほとんどいないと、かつて話していた。そうは言っても研究者どうしのネットワークはあるだろうとオクジーは思っていたのだが、隣の研究室の人間が何をしているのか知らないのがむしろ普通らしい。まさに蛸壺だと、蛸を食べながら交わした会話を思い出した。
 だからきっと、関係性には零か百しかないように思うのだろう。いまの自分たちだって別に零でも百でもないんだけどな、と苦笑する。きっと根本的に、バデーニには誤解していることがある。
「で、前提その二なんですけど。俺は、バデーニさんが優秀な研究者だから連絡したり誘ったりしてるわけじゃありません」
 いよいよ眉間の皺が深くなった。行き詰まって根を詰めているときと同じ顔だ。つい笑ってしまった。
「ここ、皺すごいですよ」
 オクジーが指摘すると、バデーニは右手で目元をぐりぐりとほぐす。それからふうと息を吐き、一言呟いた。
「理解に苦しむ」
 そんなにかあと思いつつ、オクジーはどこか愉快な気分だった。
「じゃあ反対に、バデーニさんは俺が便利なアシスタントみたいなものだから、こうやって一緒に行かないかって誘ってくれるんですか?」
「違う。そうじゃない」
「じゃあ、基本的に生き急いでいて、全然アポ取れないって有名なくらいいつも忙しくしてるのに、俺に時間を割いてくれるのはなんでですか」
「……時間を割く意義のある話はちゃんと受けてる」
「とりとめのない話しかしないときも結構ありますよね?」
 バデーニは答えなかった。このあたりでわかってくれたかなと思い、オクジーは言葉を切り上げる。
 昔から、広大なものを見るのは好きだ。普通に生きていたら手の届かないものも。海、空、まだ解明されていないもの。まだ、人々に見つかっていないすべて。
 出発点は確かに、真理探究に対するバデーニのひたむきさや、苛烈ともいえる情熱だったかもしれない。でも、もうとっくに、それだけではなくなっているというのに。
 視界の端ではバデーニが、小さく背中を揺らしながら、組み合わせた両手の指を慌ただしく動かしている。考え事をしているときの癖。ゆったりと穏やかな時間が流れるこの館内で、きっといま、彼の頭の中だけが目まぐるしく動いているのだろう。頭脳明晰で、自分よりも多くのことを知っていて、まだここにないものに至るための道筋もそれを見つけるための武器も持っているくせに、簡単な人間関係ひとつに、こんなに思い悩んでくれている。たったそれだけのことで、オクジーは自分がバデーニにとって特別で大切な存在だと言われているような気分になるのだった。本人にはわざわざ言わないが。
 ほどなくして、ぽつりとバデーニが口にした。
「オクジーくんにとってのメリットは、何だ?」
 今度はそっちに行ったかあと思いつつ、なんと答えようかとオクジーが考えをめぐらせていると、自ら打ち消すように、バデーニは小さく頭を振った。青のなかで、きれいな金色が揺れる。
「私ばかりがもらいすぎている……」
「そんなことないですよ」
 薄い青い瞳が、魚影を映して一瞬グレーに見える。揺れてまた、きらめく。
「そうだな……、例えば、深海ゾーンが苦手って言ったときに笑わないで、まず理由を聞いてくれたところ。光がないのは怖いって言ったときに、その場しのぎじゃない同意として頷いてくれたところ」
 オクジーの横顔は穏やかな笑みを湛えて、ゆったりと言葉を重ねる。きらきらひかる宝物を取り出して眺めて、また丁寧に箱の中にしまうように、ひとつひとつを思い返しながら。
 例えば、別れ際、いつも姿が見えなくなるまで見送ってくれるところ。切り分けた肉の大きい方を譲ってくれるところ。俺の話をじっと聞いてくれるところ。文章を好きだって言ってくれるけど、詰めきれなかった部分への突っ込みも容赦ないところ。
「全部全部、俺がバデーニさんからもらってるものです」
「最後おかしくないか?」
「真摯に向かい合ってくれているからこそだと思ってるから」
「……まさか、自覚したうえでなお手を抜いている?」
「いや、最初に激詰めされたとき以降はいつだって全力てすよ! ただ、どうしてもこれだって表現を見つけられないままタイムアップになることもあるわけで……」
 慌てて否定しながらも、じわじわと時間差で気恥ずかしさが押し寄せてくる。ただ、言われた側のバデーニはまだ咀嚼でいっぱいいっぱいになっているようだった。
 いつの間にか力をこめていた両手を意識してゆっくりと開いた。そして今度はゆるく握りなおす。
「そういうの全部、挙げようと思えばいくらでも挙げられるけど。それが理由じゃない。ただ、俺にとってはそれがバデーニさんだったっていう、ただそれだけなんだと思います。本当は」
 もう、バデーニの指も背も、忙しく動くことはしない。呼吸の速度がシンクロしていく。メトロノームが同期するように。
「必要条件と十分条件か……」
 遠い目をして、バデーニが呟いた。なるほどな。
 オクジーが挙げた例はどれも、特に深く考えずに、自分の思うままに取ったありふれた言動だった。それらも、オクジーにかかれば途端にとても素晴らしくうつくしいもののように聞こえてしまう。きみだからだ、とバデーニは思う。きみのまなざしがそうだから、きみの見る世界はうつくしく、輝きに満ちている。世界を知覚するきみこそが。
 だけど、その気持ちを表し伝える言葉をバデーニは持ち合わせていないのだった。ありふれた言葉で口にしたら、きっと瞬時に錆びて曇ってしまう。だから、成果を発表するときのように淡々と、言う。高まった感情の波が溢れてしまわないように。つとめて、普段と変わらないように。
「奇特な人だな」
 口調と裏腹にその横顔があまりにやわらかいので、オクジーは自分の首から上が熱くなるのを感じた。顔色のよくわからない、周囲の空間を青一色に染める水槽の前でよかったと心の底から思った。
 長話をしてしまった、とバデーニが呟いた。そして先程までよりも晴れやかな表情で立ち上がる。
「もう行こう」
 オクジーも頷き、後に続く。最後にもう一度ちらりと大水槽に目線をやったバデーニが、こんなに混んでいるなら解説役に海洋学者でも無理矢理連れてくればよかったと言うので、声を上げて笑ってしまった。

 水族館を出る。昼間はどんよりと曇っていたが、雲が切れてマーマレードのような橙が空を染め始めていた。
 それどころではなかったので食事のことをすっかり後回しにしていたが、バデーニもそろそろ空腹に耐えかねている頃だろうか。辺りを見回せば団体客や家族連れが帰りに向かい始めているようだったので、混雑する時間はもう過ぎたかもしれない。
 ごはんどうしますかとオクジーは口を開きかけたが、それよりも一拍早く、くるりとバデーニが振り返った。 
「さっきの話だが」
 彼はよく何を考えているかよくわからないとか、表情が変わらないとか言われるらしいが、ちゃんと見ていればわかるのに、とオクジーは思っている。意外と表情豊か。この顔は、残った疑問をすっきりさせないと気が済まないときの顔。だんだんわかるようになってきたことが嬉しい。
「きみは、私のことが好きなのか?」
 前言撤回。こんなのわかるわけない。オクジーは予想だにしない発言に硬直した。ぴたりと足が止まる。数歩ぶんの距離が開く。
「オクジーくん?」
「えっ……と、確認してもいいですか?」
「ああ」
 事も無げに頷く姿に目眩がする。ただ単にわかりにくくて、不器用なひと。一見尊大なようで全くそんなことはなく、思慮のある、やさしいひと。
 確認したいことは山ほどあると瞬間的に思ったが、そのどれも、本当に聞きたいこととは違うように思えた。慎重に口を開く。
「その問いは、俺が恋愛的な意味でバデーニさんを好きなのではと思ったところから出てきたものですか?」
「そうだ。そう言っただろう」
 バデーニは何を言っているんだとでも言いたげだったが、ぐっと息を飲み込み、しぶしぶといった様子で言葉を重ねた。
「私は特段恋愛に興味を寄せてはいないが、オクジーくんが望むなら考える余地はある」
 オクジーもさすがに口には出さなかったが、その顔には思いっきり不本意と書いてある。自分が相手を振り回したり縛り付ける気は全くないが、相手がそうしたいというなら考えなくてはならない、面倒極まりないが……とでもいうところだろうか。つい笑ってしまい、今度は隠しもせずバデーニが顔をしかめた。
「人をなんだと思ってるんだ」
「すみません」
 示し合わせたように、駐車場の方向に向かって再び歩き始める。高台から見た海はきっと夕陽を映してうつくしいだろう。
「バデーニさんのことはすきですけど」
 揃った歩調と同じテンポで口を開く。
「それはどちらかというと、ひととして、というもので……俺も、バデーニさんが自由に楽しそうにしているのが一番なので」
 制限したいわけではない。ましてや縛りたいわけでもない。ただ自由でいてほしい。関係性は固定ではない。そのときそのタイミングによって近付いたり離れたり、最適な距離というものはきっと、絶え間なく揺らぎ続けるものなのだろう。
「関係に名前をつけたい者は多いだろう」
「バデーニさんはつけたいですか?」
「いや、全く。星の命名はしてみたいが」
「ああ、それはいいな……バデーニさんなら見つけられそうだ」
 バデーニがさっと空を見上げる。きっと金星を探している。晴れている日の彼の癖。人の顔は左側のほうが表情豊かだという。自分の定位置がこのひとの左でよかったなと思う。少し目を離したその一瞬で大きく色を変える夕焼けや朝焼けのように、簡単に見逃してしまいそうな様々な表情を見ていることができるから。
 子供の頃は、ものを知れば知るほど、わからないことはなくなると思っていた。その実まったくの真逆で、知れば知るほど、際限なく知らないことが出てくる。いつまでたっても、ただひとつの答えなんてものは見つからない。そもそも最初から、そんなものはないのかもしれない。
「見つかってはじめて『在る』ことになるものもあるかもしれないけれど。でも、もう在るものなら、言葉にならないものを言葉にしないままにしておくほうが、よっぽど正確で誠実なんじゃないかとも思うんです。そうしたらいつかそのうち、このためだったんだとわかるような瞬間が訪れるかもしれない。それこそ、天啓が閃くみたいに」
「……まあ、人生は長いからな」
「はい」
 ずっとわからない。ひとりの人間のこと、自分自身のことさえも。だから、知りたいという思いがなくなることもない。
「だから、恋愛じゃなくていいです」
「そうか」
 オクジーが言い切る。文章を書き上げたときと同じように満足げな表情を見上げ、バデーニも納得したように頷いた。
「ていうかすみません、お腹すきましたよね?」
 聞こうとしていたことを思い出し、オクジーが慌てて言うと、特には、と首を振った。バデーニは特別少食というわけではないが、食べる時間やタイミングにはさほどこだわりがないらしい。
「それを言うならきみだろう」
「いや、朝結局三時間くらいだらだら何かしら食べてた……」
 ので、と言い終わる前に、オクジーは自分が口を滑らせたことに気づく。言うつもりはなかったのに!
 しかし優秀なバデーニの脳がやり過ごしてくれるわけもなく、じっとりと恨みがましい視線が向けられる。
「オクジーくん」
「……はい……」
「朝食のレストランがオープンしているのは、七時から十時だったな」
「う……はい、そうです、すみません……」
「なぜ私を呼びに来ない!!」
「いやっ、だって、一人で食べに行っちゃうかなと思って、それなら待ってるほうが確実かと」
「どうしてそうなる!? 私がどんな思いで反響する呼び鈴を二回も聞いたと思、いや、なんでもない」
「えっ!? バデーニさん、呼びにきてくれたんですか!?」
「約束してたんだから行くに決まってるだろう! 嬉しそうな顔をするな!」
 思わずがっしりとした腕を掴み、このやろうという気持ちを込めて力いっぱい揺さぶる。わわっ、と慌てた声を漏らしたが最初だけで、オクジーはにこにこと笑っていた。
「ハア……呆れてものも言えん」
「ほんとすみません」
「私ばかり勝手に突っ走ってるとか自己完結してるとか人の話を聞かないとか言うが、きみだって相当だからな。まず連絡をしろ連絡を」
 怒られているはずなのにこそばゆい。わからなくてすみませんと謝ると、そんな簡単にわかられてたまるかとなぜか得意気に返された。
「怒りがぶり返したら空腹まで思い出してしまった。食事に行くぞオクジーくん」
「あの」
「どうした」
 先を歩いていたバデーニが振り返る。
「もしもうちょっと大丈夫だったら、駐車場の反対側のほうにプラネタリウムがあるらしくて」
 ぴくりとバデーニの肩が跳ねる。そして素早くポケットからマップを取り出して目を落とし方向を確認した。
「なぜそれを早く言わない!」
 そう言うやいなや、小走りで駆け出した。普段は走りたがらないくせに、こういうときのバデーニは俊敏な動きをする。いまこの時を逃すまいという瞬発力と、決断の早さ。これだから目が離せないなと思う。
 昔から、輝くものを見るのが好きだった。世界の見え方をがらりと変えうるようなものも。星、虹、遠くにあるからこそ輝くもの。一瞬を逃したら簡単にうしなわれてしまうすべて。
「あの、ごはんはいいんですか!?」
「いい!」
 慌てて追いかけながら聞く。バデーニは大きな声で頷き、くるりと振り返った。
「ここからすぐだ、あっちだ! 行くぞ、オクジーくん!」
 そしてプラネタリウムに向かう道を指差す。ようやく満面の笑顔を浮かべたバデーニの頭上には、一番星が輝いていた。

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