試合続行
バデーニが意識を取り戻したのは事故の翌日の午後のことだった。運悪く倒木に巻き込まれた彼の怪我はたいしたことはなく、救急隊に搬送されるときも意識はあったが、やけにはっきりとした口調で自身の氏名、年齢、生年月日、血液型、服薬状況、連絡先、そして事故の状況を克明に語ったのち失神した。日頃の疲労をこの機に回復しようと身体が脳をシャットダウンしたかのような気絶であった。
呆気にとられつつ、救急隊は言われるがままの連絡先に電話をした。連絡を受けたオクジーとヨレンタは事の重大さに気を取られ救急隊の困惑の気配を感じとることはできず、慌てふためき足をもつれさせながら病院に急行したが、すやすやと穏やかな寝息をたてて眠るバデーニの姿を目にして、ヨレンタは椅子に、オクジーは床にへなへなと崩れ落ちた。
翌日、久しぶりの快眠を得てすっきりと目覚めたバデーニは看護師たちから二人の様子を聞き、若干の気まずさを抱えながらそれぞれに連絡を取った。ヨレンタからはすぐさま彼女の安堵する声が聞こえそうな勢いのある文面で返信が届いた。オクジーからは返信はなかった代わりに、一時間も経たないうちにがらりと病室のドアを彼自身が開いた。
「心配をかけたな」
目をそらしつつそう言ったバデーニの頬にいつものような血色が戻っていることを認めて、オクジーは再び床にしゃがみこんだ。
「本当に……良かった……」
「悪かったよ……」
「俺、動揺しちゃって、意識がないって救急隊の人から聞いた瞬間に頭真っ白に……」
しゃがんだまま頭を抱え込み、長く息を吐く。吐ききって、それから顔を上げたオクジーは、ようやく心の底から安心した笑みを浮かべた。
「傷は」
「外傷はほぼない。軽い脳震盪と腕の打撲だけだ。白衣を着ていて助かった」
「良かった……でいいのかわからないけど、でも本当に大事なく済んで……。ちなみに退院は? いつ頃になりそう?」
「もう明日には。念のための検査でも何でもなかったらしいから」
「そっか、本当に良かった。安心した」
壁際に置かれた来客用の椅子を手繰り寄せてベッドの脇に座る。明日退院するならいらなかったかも、とはにかみながら、オクジーが鞄から雑誌を取り出す。科学誌の別冊になっていた写真メインの特集号だった。風景と一体となったまばゆい星空から、星雲や惑星、準惑星の写真の数々。
「気が利くじゃないか」
「文字ばっかりだと目が疲れるかもと思って」
「置いていってくれ。今夜読む」
手渡された雑誌のページをゆっくりとめくっていく。バデーニの横顔に浮かぶ微笑を見つめている自分に気付いて、オクジーはさっと白いシーツへと視線を移した。間を埋めるように口を開く。
「あの、この間のこと」
視界の端で揺れていたページが止まる。意を決して顔を上げる。しかし、オクジーの目に飛び込んできたのはきょとんと疑問符を浮かべたバデーニだった。
「この間? いつの何の話だ」
「あ……いえ、今度、おすすめの店教えてもらったから行こうって話。したじゃないですか。怪我したばっかりでお酒飲むの良くないんじゃないかと思って」
「そうだったか?」
バデーニは手元に視線を落とし、記憶を辿っているようだった。しかしほどなくしてゆるゆると頭を横に振る。どうやら思い当たる会話を見つけられなかったらしい。
「すいません。頭を大怪我したばっかりなのにする話じゃなかったですね」
「大怪我って。覚えてなくて悪いな」
「いえ。いつでも行けるんで、全快して、バデーニさんの時間のあるときに行きましょう。快気祝い」
「ありがとう」
オクジーは小さく笑った。それから、大学抜けてきたんで今日はもう帰ります、と呟いて立ち上がった。
「明日迎えにくるから、時間わかったら連絡してください」
「一人で問題ない。連絡はする。きみにもヨレンタさんにも」
「そうしてください。ヨレンタさんもすごく心配していたから」
バデーニが頷く。オクジーは椅子を壁際に戻し、会釈をして帰っていった。
退院はつつがなく済み、その翌日には大学に戻ったが、学内の事故ということで巻き込まれたバデーニも様々な書類の確認を求められ研究どころではなかった。入院と雑事で遅れたぶんを取り戻そうと本業に邁進しているうちに日々はあっという間に過ぎ、かつオクジーも忙しい時期に差し掛かっているということで、二人の予定が合った日には実に事故から一か月後が経っていた。
向かい合って食事をするのなんていつぶりだろうか。そう思うとなぜだか妙に気が急いて、いい加減蛍光灯変えてくださいよという学生の泣き言を背中で聞く。寿命を騙し騙し使い続けている研究室の蛍光灯は、もう本当に限界に近いようで、独特の音を立てながらチカチカと不規則に点滅している。振り返り天井を見上げた途端、強い光が脳に刺さったように感じられて反射的に目を瞑った。点滅。オクジーが言っていた、「この間のこと」。
「……?」
「先生? どうかしましたか?」
「いや……なんでもない。今日はもう帰る。蛍光灯は管理に申請しておいてくれ」
そう言いおいてバデーニは研究室を後にした。とにもかくにも、早く待ち合わせの店に向かわなければならない。
「それではご快復に、乾杯」
「おおげさだな」
「それくらい心臓痛かったんですから」
二人でグラスを合わせる。オクジーはにこにこと穏やかに微笑み、もう一口をゆっくりとあおった。バデーニが飲みたいと言った白ワイン。
ふたりの食事は穏やかに進んだ。他愛もない近況報告から宇宙の果てに手を伸ばすような理論まで行きつ戻りつしていた会話は、ドーナツ星雲の話題を起点に、いつの間にか哲学論争へと発展していた。ドーナツの穴は「無い」のか「有る」のか。無を定義するために必要なもの。有ることを誰にも観測されず記録されていないものは無いのか。では、記録はないが誰かの内心に記憶されているものは有るのか。その存在を誰も証明できやしないのに?
空になったオクジーのグラスに、バデーニが赤ワインを注ぐ。その目はとろんと蕩けているのに、バデーニさんも飲んでくださいと言ってボトルを奪い取る。さも自分は大丈夫ですとでも言いたげに、平気な振りをしている口調で。
注がれたワインは腐葉土のような深い香りがする。バデーニの好む味。それを飲み下してから、あの雑誌、と口を開いた。オクジーが顔を上げた。わずかに紅潮して、ゆるんだ頬。
「あの? ああ、持っていったやつですか?」
「ああ。返したほうがいいか」
「いえ、いいですよ。もちろん、あの、要らなかったらもらいますけど」
「まあ、私の家に置いておけばきみも見られるしな。またくるだろう」
オクジーは目蓋にかかる重力に抗いながらゆっくりと瞬きをする。そして、ようやく理解が追い付いたとでも言うように、貸してもらえばいいですもんねと言ってへらりと笑った。
「飲ませ過ぎたか?」
「いえ、えっと、大丈夫です」
「まあ、普段はビールばかりだもんな」
「そうですね」
「ワインは体に合わなくて苦手だと言っていた」
「そうでしたっけ……?」
首を傾げるオクジーを見つめてバデーニは微笑む。プレートをゆっくりと指先でなぞり、一周。
「ああ、交際して最初の食事のときに。やけに椅子の高いカウンター席で」
オクジーの表情がぴしりと硬直した。反時計回りで、もう一周。
「あの日もきみは私に付き合って無理にワインをあおってへべれけになっていたな。私たちのメッセージは日程だとか事務的な連絡ばかりだったから、違和感に気付くのに一か月もかかってしまった」
ゆっくりとグラスを持ち上げ、最後の一口を飲み干した。オクジーの瞳は微かに揺れ動いて、しかし口は言葉を忘れたかのように固く閉じている。回答用紙を提出したあとに解答欄が一つずつずれていたことに気づいたような、間抜けな顔。バデーニの胸にいとおしさが沸き上がる。それから、別のものも。
「さて、オクジーくん」
カタン、とグラスを机に置く音が響いた。まるで裁判官の鳴らす槌のように。オクジーは酩酊の一歩手前の頭で、感情的に怒ってるときって全然だったんだな、と思った。バデーニはうつくしい微笑を崩さないまま、口を開く。
「あの事故の日の朝の口論の続きをしようじゃないか。きみが私との交際を他者に隠したがる理由、そして、私の記憶と物的証拠がないのをいいことに交際の事実そのものを無に帰そうとしたことについて、まずはきみの言い分を聞こう」
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