あなただけ校了・ほか - 8/10

同じ宇宙の塵ひとつ

 自分の荒い呼吸が耳につく。自転車を立ち漕ぎして緩やかな坂道を登っていく。オクジーは、望遠鏡を担いでいるにもかかわらず自転車を選択したことを若干後悔し始めていた。学生の頃は体力さえあればどうにでもなる自転車を好んで使っていたが、ここ数年は車を使ってばかりだった。それなのにわざわざ自転車にまたがったのは、急にあの頃のことが懐かしくなったからだった。
 高台までの道を急ぐ。かつてはあのひとと見た星空を、見るために。
 オクジーがバデーニと過ごした時間はそう長くはない。バデーニは優秀さと破天荒さで早々に学内で名を馳せており、オクジーはその頃から彼を遠くから見ていた。星が好きという共通点を見つけてからは会話も増え、連れだって観測に行ったりただ食事に出ることもそれなりにあったが、それだけだ。知り合いというには心を許していて、友人というには距離があり、恋人なんてもってのほか。しかし確かに満たされるものがあった。一度もその手の温度に触れたことなんてなかったのに。結局ふたりの関係性とはなんだったのか。
 汗がぽたりと落ちる。真冬でも身体は熱い。
 バデーニと火星の接近を見に出掛けたときのことを思い出す。ふたりで行った最後の観測だった。具体的な会話を思い出せるわけではないが、かけがえのない時間だった。夏の空気、火星とアンタレスの赤。望遠鏡を覗き込む彼の、背中の丸み。そのあと、彼は国外の研究所へと籍を移し、世界へと羽ばたいていった。
 あれはもしかすると、初恋にも似た感情だったのかもしれないとオクジーは回想する。始まる前にとっくに終わっていて、それゆえにいまもきらきらと輝くもの。相手を特別に思っていて、傷つき傷つけあいながらも一緒に生きていこうというのが愛ならば、それには遠く及ばない。自己完結した憧憬。幼かったなとかつての自分に苦笑する。
 もしあのとき、違う選択をしていたらどうだっただろうか。傷つくことを恐れずに距離を詰めようとしていたら。もっと彼をよく知ろうとしていたら。そういう選択もあるということを知覚して、よく向き合っていたら。後悔とはまた違う、「あのときこうしていたら何かが変わっただろうか」という感情。
 そうしたらもっと違ういまがあったかもしれないし、結局同じような道をたどっていたかもしれない。過去は変えられないし、未来はわからない。確かなことは、バデーニと過ごした時間が、いまのオクジーをかたちづくる一部になっているということだけだった。
 バデーニが教えてくれた穴場の観測場所には、今夜も人はいなかった。自転車を停めて鍵をかけ、背中から望遠鏡をおろす。組み立てようと地面におろして、そのまま一度空を見上げる。まだ夜の暗さに目が慣れていなくて、明るい星くらいしか認識できない。
「ゆっくり待てばいいさ。目がいいんだろう、そのうち嫌でもどれが何の星かわからないくらい見えるようになる」
 地面に置いたスマートフォンのライトで手元を照らし、慣れた手付きで三脚やレンズを組み立てながら、バデーニの声を思い出す。いまも時折人づてに名前を聞いて、その活躍を目にするたびに嬉しく思う相手。きっかけを掴めないまま離れて、そのままになってしまったけれど、彼が教えてくれた知識や、知ることそのものが人生にもたらす豊かさと喜び、それらがうしなわれることはない。この先も、きっと。
 空を見上げる。あの頃もいまも、星空は変わらずうつくしい。晴れの日も、雨の日の雲の上でも。その事実がどれほどオクジーのことを励ましてきたか。もしまたバデーニに会うことがあったら感謝を伝えたいなと思う。
 同時に、遠く手の届かない人となった彼に会う機会はもう訪れないような気もする。それでも、あり得るかもしれない未来、手の届かない場所にあるうつくしいもの、それらを思うだけで気持ちは確かに明るくなる。ここにあるものが全てではないという希望の在り方を教えてくれたのは、ほかでもないバデーニだったから、それだけで十二分なのだった。
 そしてオクジーはまた、望遠鏡を覗き込む。数多の星は、今夜も変わらず輝いている。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!