あなただけ校了・ほか - 7/10

グラスでも花瓶でも

 きみの家に花瓶あるか?
 仕事から帰る道すがら、突然バデーニからメッセージが届いた。立ち止まり首を傾げつつ、オクジーはでかいコップならありますと返事を打つ。いつだったかビールのおまけについてきたグラスはそれなりに重みがあり、かつ背丈も高いので、まあ花瓶として使えないこともないだろう。
 そこまで考えてから、どのくらいの量ですか、と重ねて送る。バデーニ本人が買ってくるものではないだろうから(もしそのつもりなら彼は事前に花瓶の有無を確認しているはずだ)、おそらく貰い物。祝われるようなタイミングでもないから大きな花束というわけでもなかろうが、念のため。
 しばらくはスマートフォンの通知を気にしていたが、返事はない。花瓶を買いに行ったほうがいいだろうかとも考えたが、まあ必要なら明日の帰りにでも買いに行けばいいだろう。今日はうちにくるのだろうか。そう思うだけで、少し足取りは軽くなる。

 インターフォンが鳴り、玄関へと急ぐ。ドアスコープを確認してからドアを開けると、げっそりとくたびれた顔のバデーニが立っていた。
「お疲れさまです」
「急に悪い。みやげだ」
 そう言って左手を掲げる。バデーニが持っていたのは、オクジーの予想を裏切り、横長の大きな紙袋だった。紙袋を手渡し、バデーニは勝手知ったる足取りでするりと身を滑り込ませ靴を脱ぐ。
「うちには花瓶ないから助かった」
「縦長の紙袋なかったんですか? 花束が入るような……、ああ、お花ってそういうことか」
 すぐ隣で紙袋を覗きこんだオクジーが感嘆の声をあげた。袋のなかにあったのは花束ではなく、パーティー会場の机に置くようなアレンジメントだった。寒色系の花を基調としつつ赤い薔薇がアクセントとなっている。上からではよく見えないが、オアシスに切り花をさしているようだった。
「すごい、きれいですね。どうしたんですかこれ」
「シンポジウムのあとの懇親会で並べてたやつ。今年持ち回りの主催だったから、職員で持って帰らされた」
「ああ……それはお疲れさまでしたね」
 並び立ってリビングに入りつつ労いの声をかける。バデーニは花瓶ないから要らないと言ったのに……とぼやいており、オクジーはそっちに対するお疲れさまじゃなかったんだけどな、と苦笑した。
「懇親会、立食でしょう? 食べられました? なんか食べます?」
「全然。でも疲れ果てて食欲ないから大丈夫」
 脱いだジャケットを折り畳んで鞄の上に置き、いつの間にか定位置になった窓側の椅子にバデーニが腰かける。一度沸かしてあったケトルに再び火をかけつつ、その間にアレンジメントを取り出そうと袋に手を差し込む。バデーニが立ち上がり、両手の塞がっているオクジーの代わりに袋を押さえてくれた。
「ありがとうございます。おお、ほんと立派だな……」
「花瓶出すか?」
「やるんでいいですよ。疲れたでしょう、座ってて」
 湯気が立ち上がる。棚からインスタントのインカコーヒーの瓶とマグカップ二つを取り出す。小さいスプーンで粉をすくって入れ、お湯を注いでゆっくりかき混ぜる。カフェインの入っていないインカコーヒーは時間を気にせず飲めるので、バデーニと知り合ってからは一層重宝している。
「とりあえずどうぞ」
「ありがとう」
 ふうふうと息を吹き掛ける横顔は、玄関で見たときよりもどこか穏やかになっていた。そのことに安堵しつつ、グラスに氷を入れ水を注ぐ。オアシスから抜いた花の茎の端をキッチンばさみでぱちん、ぱちんと切り落としていく。リズミカルなその音に心が凪いでいくのを感じながら、バデーニはじっとオクジーの背中を見つめていた。
 おお、と感動したような声をあげて、オクジーが振り返る。薔薇を持ちながら、にこにこと微笑んでいる。
「見て、薔薇の茎すごく太い! 高い薔薇だ……」
「そうなのか?」
「やっぱり茎が太いほうが持ちがいいから」
 ふうん、と頷き、マグカップを置いて再びオクジーの隣に歩み寄る。アレンジメントを持って帰る道中はあまり思わなかったが、いざこうしてありふれたグラスに活けられた姿を見ると、なるほど立派な花だったのだなと思った。むしろ、花が豪華なあまり全体的にはアンバランスに見える。オクジーも同じようなことを思ったらしく、首をひねりながら呟く。
「なんか……高貴な生まれの子が俗世に身をやつしているような感じですね……?」
 その言葉に、バデーニは思わず吹き出した。これを見て連想するのが貴種流離譚とは。
「やっぱり花瓶買ってきます、さすがに」
 不格好な花瓶代理に対して笑ったと思ったのか、オクジーが気恥ずかしそうに言った。違うのに、と思いながらじっとその顔を見つめる。不思議そうな顔。
「バデーニさん?」
 花が変わったわけではない。先生も持って帰ってくださいと無理矢理持たされたときには面倒だなとしか思わなかったのに、オクジーのはしゃいだ顔を見た今はもらってきて良かったと思う。活けるのがグラスでも花瓶でも、花は変わらない。
「花瓶、一緒に買いに行く」
 そうではなくて、それよりも。オクジーの視点が、感性が、バデーニにも花をきれいだと感じさせるのだろう。
「それまでもうちょっと、灰かぶりでいてもらおう」
 バデーニの言葉に、オクジーが肩を揺らして嬉しそうに笑う。気が緩んだのか、ぐう、と小さく不満げにお腹が鳴る。
「やっぱり空腹だったことを思い出した」
「なんかチンしましょうか」
 オクジーがどこか安心したように返した。冷蔵庫のほうへ身体をひねろうとするのを、肩に手をかけて引き留める。
「その前に」
 そう言って額を寄せると、空気の流れに乗って薔薇のいい香りがした。

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