あなただけ校了・ほか - 6/10

あなただけ校了

「見えるか? カシオペヤ座とカペラの中間、あのあたりが放射点だ」
「あのへんですね」
 すぐ隣で、オクジーが空を指差す。その横顔を盗み見てから空へと視線を戻した。ざざん、ざざんと、大きな波音があたりを満たしている。どうせなら海に行きたいと言ったのはオクジーだった。ただ流星群を見るなら視界の開けた山のほうが良いに決まっているが、朝、ひとりで山から帰る寂しさは途方もないのではと、そんな気がしたから。
 海のほうが、なんとなく、明るい気持ちで帰れる気がしませんか?
 オクジーの言葉にバデーニは何とも言えない顔をしたが、結局はおとなしく頷いた。そんな様子を見てオクジーはほっとしたように微笑み、そのことがバデーニの胸をまたちくりと突き刺した。
 持参しておいたレジャーシートにごろりと寝転がる。砂の熱さがじんわりと背中に伝わる。オクジーの背中を見上げるが、暗さも相まってよく見えない。しかしすぐさま視線に気づいたらしく、オクジーが肩越しに振り返った。笑ったことだけが、気配からわかった。
「このまま雲が出ないといいんだが」
 誤魔化すように呟く。オクジーもゆっくりと隣に身体を横たえた。近い距離。はじめてこの距離になったときは心臓がひどく跳ねたものだが、そこから随分と遠いところまできた。感傷というよりも、ただの事実。
「今日見えなくても、明日も見られることは見られるんですよね?」
 それでも、不用意に発せられた言葉に、思わず気道が絞まったように息苦しくなる。目が合う。オクジーの顔色が一瞬にして変わり、すみません、と小さく呟き目を逸らす。
「……すみません」
 もう一度呟く。波の音だけが耳につく。
「そういうつもりじゃなかった……」
「不用意なこと言うな」
「ごめんなさい」
「それとも明日もいるのか?」
 意趣返しのつもりで言うと、オクジーは困ったように微笑んで、しかしそれだけで何も言わなかった。その顔がよく見知ったものだったので、バデーニは自分の軽卒な言動を激しく後悔した。
 ゆっくりとオクジーが手を伸ばして、バデーニの頬に触れようとする。しかしその感覚が訪れることはない。ただ風が通り過ぎるだけ。当然だ。幽霊に、実体はないのだから。

 こんなことならもう会えないほうが良かったと、そう何回も思った。オクジーの不在はいつだってそこにあるけれど、そういう生活がいつの間にか日常になっていることも悲しいかな事実ではあったので。鮮烈な感情の鮮度を保ったまま生きることは難しい。時間とは、あるいは人とはそういうものである。
 最初は、自分の頭がおかしくなったのかと思った。幻覚を疑い脳ドックに駆け込んだが異常はなかった。それなのにやはり、オクジーはバデーニの目の前に立っていた。目が合えば微笑み返してくれて、言葉をかければ問いを返してくれる。幽霊ってやつです、と冗談めかして言った声がひどく懐かしくて、つい笑ってしまって、笑いすぎて涙が止まらなくなってしまって、オクジーはすぐ側に駆け寄ってきてくれたけれどあの高い体温は感じられなくて、ああ、それでも、幽霊でも幻覚でもいいからまた側にいてほしいと思ってしまったのだった。
 幽霊との生活は順調だった。実体がないことを除けばそれはふたりの生活そのものであり、不在との共存にチューニングされたバデーニひとりの生活であることに変わりもなかった。穏やかで、些細なよろこびがある日々。それゆえにバデーニの理性はこんなものが長く続くはずがないと常に言っていて、だからオクジーがそろそろ時間みたいですと言ったときにも、至極冷静にそうかと答えることができた。
 明日は遅くなりそうです、と帰りの時間を告げるような言い方だった。きみはこんなときにもそういういつもの言い方をするんだな、と思った。

 ぼんやりと空を見上げながら話をする。他愛もない話。日常の延長線上にあるような。時折尾を引く流れ星が見えて、オクジーが歓声を上げる。その声を目を閉じて聞く。目よりも耳に焼き付けることができればいいのにと思う。針を落とせばいつでも再生できるレコードみたいに。
「バデーニさん」
 何気ない声の調子が、かえってどこか改まったように聞こえて、バデーニはゆっくりと目を開けた。身体を起こして向かい合う。空の縁は白んできていて、見える星の数はもうほとんど残されていなかった。
「緊張した声。一緒に住もうって言ってくれた時と同じだな」
「……あの家、引っ越していいんですよ」
「なぜ?」
 努めて柔らかくそう問う。この期に及んで喧嘩などしたくないし、オクジーならそう言うだろうことは何度も考えたことがあったから、動揺はなかった。
 オクジーは頭を振って、それから口を開いた。言葉を選び取りながらゆっくりと話す、その様子を見るのがバデーニはすきだった。昔から。
「引っ越してもいいし、引っ越さなくてもいいです。どちらでも。模様替えをしても、しなくても。ちゃんとご飯を食べて、寝て、バデーニさんが元気でいてくれれば、なんでもいいです」
 善処する、といつものように言いかけて、バデーニも言葉を差し替えた。
「できるだけ、そうする」
 その言葉を聞いてオクジーは安心したように笑った。鳥の声が聞こえる。夜明けが近い。
「天界がどうなってるか、人は死んだらどこに行くのか、先に行って確かめてますね」
「うん、うん……あとでゆっくり聞かせてくれ」
「俺、言葉にまとめるの時間かかるから、ゆっくりきてくださいね」
「わかった」
「バデーニさん」
 目の奥が熱くて、それを意思の力だけで無理矢理押し込める。海を見つめる。いなくなる瞬間を見なくてすむように。引いては寄せる波が、ぼやけている。すぐ隣から声がする。
「ありがとう。あなたに会えてよかった」
 喉が震える。絞り出すように、私も、きみに出会えてよかった、と答えた。
 波の音。鳥の声。いつの間にかそれだけが、規則正しく響いている。
 膝を抱える腕にぎゅっと力を込めてから、眼鏡を外して手の甲で目元を拭う。風が乱した前髪をかきあげると、海風と砂で絡まって痛かった。
「途中でもいいから聞かせてっていつも言ってたのに」
 勢いよく立ち上がる。呟いた自分の声があまり悲壮でなかったことに安堵しながら、バデーニはレジャーシートをバサバサと振り畳み始めた。

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