ブラックボックス
あのさあ、とノヴァクが声をかける。最後にもう一度、といった声色に、ゆっくりとオクジーは振り返った。昼時の駅前。電車の時間は伝えてあるのでまあ長くはならないだろうと思い、向き直ってから返事をする。
「なんですか?」
「君、ほんとに何も知らないの? 彼のしたこと」
それが、訝しむよりは呆れたようなトーンだったので、オクジーは小さく笑った。
「自分がそこにいないときに何があったかなんて、知りようがないじゃないですか」
「はあ……、まあそうね。じゃもういいか……この度はご協力ありがとうございました」
「刑事さんもご苦労さまでした」
オクジーは会釈をして、今度こそ歩き去っていく。その後ろ姿を見つつ、ノヴァクはついため息を吐いた。
「もっと追及するかと思ってました」
後ろから声が飛んでくる。優秀で階級もノヴァクより上だが年若さ相応の軽さも残る相棒が隣に並び立った。
「どこから聞いてたんですか」
「最初から。僕が出ていったら取り調べっぽくなっちゃうなと思ったので隠れてました、あっちに」
あっけらかんと言うラファウに、ノヴァクは再びため息を吐く。その様子を見てラファウは肩を揺らして笑ったが、オクジーの消えていった雑踏に目を向けたときには、その顔からはもうあどけない笑顔は抜け落ちていた。
「正当防衛というのは本当のことなんでしょう。オクジーがその場にいなかったことも、バデーニに当時の記憶がないことも。おそらく被害者は本来バデーニに暴行しようとした加害者だったが、もみ合って突き飛ばした際の打ち所が悪く死亡」
「しかし、その暴行自体の証拠はどこにもない。遊びにきていたバデーニの友人が泥酔して転んで頭を打った事故という通報者の説明に矛盾はない」
「そういうことです」
ラファウはノヴァクを見上げてにっこりと笑った。当時事故の通報をしたのはバデーニの父親だった。父親が生きていればなあとノヴァクがぼやく。
「死人に口はありませんからね。まあ、知らなくていいこともあるんじゃないですか」
「そりゃそうだけどね。後味悪いじゃない」
「これ以上知ったところで僕たちにできることは何もないですし」
後味の良い事件なんてもののほうが少ないことをノヴァクは十分知っている。上からもこの事件、あるいは事故の捜査は終了と告げられており、これ以上深追いする理由も義理もない。
「まあじゃあ、帰りますか」
自分に言い聞かせるように呟き、頭を振った。切り替えが重要というのは自身がラファウに教えたことでもある。とうに事件を処理済ボックスにしまっていたらしいラファウは、また明後日、とひらひらと手を振った。
意図して一定の歩調を維持していたオクジーは、駅の建物に入ったところで立ち止まり、ようやく深呼吸をした。いつの間にか詰めていた息、酸素がようやく身体中を駆け巡って、指先が痺れる。ぐっと力を入れて拳を握り、ゆっくりと開く。繰り返して三回。もう呼吸は乱れない。
オクジーが自身について警察に語ったことに嘘はない。自分はその場にいなかったし、被害者とバデーニが争っているところを見たこともない。茫然自失とした様子のバデーニから、友人が事故で亡くなってしまったと電話がかかってきて、慌てて彼の生家に向かった。着いたときにはもう、全てが終わっていた。病気がちだった彼の父が大丈夫だからねとバデーニの背中を擦っていた。珍しく調子が良かったらしい。彼の父が亡くなったのは、その数ヵ月後のことだった。
どれも本当のことだ。刑事と話すなかで頭によぎった仮説は、ただのオクジーの荒唐無稽な空想にすぎない。どうして……と不安げに呟いたあの日のバデーニの様子は、どう見ても嘘をついているものではなかった。
だから、何もなかったのだ。だって、自分は何も目にしていないのだから。
腕時計に目を落とす。バデーニとの約束の時間まであと数分もない。シャッターをおろすようにオクジーは思考の波を止めて、足早に改札口へと向かった。
雑踏の向こうにバデーニの姿をみとめる。大きく手を振ると、少し恥ずかしそうに、しかしはにかみながら手を振り返してくれた。
「遅いぞ」
「ごめん、信号につかまっちゃって」
改札を通り抜けて、ホームへと向かう。ふたりの関係が幼馴染みから恋人になってからは、彼の両親の墓参りにオクジーも一緒に行っている。バデーニの両親は元々オクジーも世話になっていたし、墓参りをして、ふたりでオクジーの実家に帰るというのがお決まりのパターンになっていた。
平日のホームは人がまばらだ。念のため辺りを見回してから、オクジーはバデーニの手を握った。普段外では手は繋がないのが暗黙の了解だったので、バデーニの指がぴくりと震える。その横顔に動揺が浮かぶ。顔色に出やすいひとだなと思いながら見つめていると、バデーニが顔を上げる。目が合い、しょうがないなとでも言うように小さく微笑んだ。その笑顔を見て、胸に詰まった何かがぐっと喉元にせりあげた。細い指。宇宙と真理を掴もうと伸ばし続ける、大好きな手。
やましいことは何もない。この手は汚れてはいない。この手は汚されてはいない。きっと。
「……小さい手ですね」
せりあげたものを飲み下して、何でもないように、あるいは祈るように呟いた。そんなこと知る由もないバデーニは、君の手が大きいんだと苦笑しながら、きゅっとその手を握り返した。
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