同居に際し
「……というのが事件のあらましで、犯人の自供も取れてるんですけど。どうしても物理的な辻褄だけが合わなくて……」
そう言った瞬間、バデーニの肩がぴくりと跳ねた。その瞬間、オクジーはしまったと思った。ああ、やってしまったと思わず頭を抱えるオクジーの横で、バデーニは細いきれいな指を唇に寄せ、ぶつぶつとひっきりなしに何かを呟いている。声そのものはオクジーの耳に届いているが、単語の切れ目も意味も正しく認識できないので結局それらは音でしかないのだった。
バデーニは一度こうなってしまうと、解に至るまで止まらない。真剣な表情で何かを呟きながらうろうろと歩き回るバデーニ、その後をついていきながら、オクジーは辺りを見回した。高そうな椅子、洒落た形のデスクライト、小振りに見えるがきっと部屋に運び込んだら巨大な机。椅子を新調したいというバデーニの荷物持ちとして立候補して、無理やり約束を取り付けてくっついてきたのはオクジーで、今日は仕事の話はしないようにしようと思っていたはずなのに。
ぴたりと彼の足が止まった。
「犯行日、雨は降ったか?」
「え? いえ、えっと、でも前日に」
必死に記憶を辿って答えると、バデーニが弾かれたように踵を返した。速足で通り過ぎながら飾り用のキャンドルを引っつかみ、どんな豪邸に置くんだという机にガバッと覆い被さる。そして、オクジーが制止する間もなく、ものすごい勢いで机に数式を書き始めた。キャンドルが削れ、破片が床に散らばる。
絹を裂くようなオクジーの悲鳴が店内にこだました。
「だ、だめですよバデーニさん!!」
肩を掴み揺さぶるもバデーニは全く止まらない。力強くオクジーの腕を振りほどき、その間も数式はどんどん増えていく。こういうバデーニの奇行により謎が解けた事件は過去にもあり、それに助けられてきたことは事実だが、毎回オクジーの血の気は引くばかりである。
「バデーニさんやめてくださいほんとやめて売り物なんですよそれ!? あああ聞いちゃいねえ!!」
咄嗟に、周囲に目を走らせた。しかしオクジーの優れた視力が捉えたのはこの机の作者の名前のみで、縋るように辺りを見回しても、どこにも値段は書かれていない。バデーニの横顔は輝いていて、きっと数式も、この事件の謎も終わりは近い。それは喜ばしいし、被害者にも自分たち警察にもありがたいことなのだが。
破産の二文字が脳裏をよぎり、バデーニの肩から手を離しよろよろと後ずさった。何事かとざわめいていた周囲の人混みをかき分けて、ようやく店員が駆け寄ってくる。その姿を認めてオクジーは崩れ落ち、警察手帳を示しながら悲痛な声で叫んだ。
「この机はいくらですか……? いくらなんですか!?!?!?」
「なんてこともありましたねえ。お買い上げの方がミステリー好きで助かった……本当に……」
バデーニは気まずそうに顔をそらした。結局あのときは、実際の事件の解決に貢献した世界にひとつしかない机だと購入者はむしろ喜んでくれ、オクジーは破産を免れた。値段は怖くて最後まで聞けなかった。
「……あれはさすがに悪かったと思ってる……」
気まずそうに呟いたバデーニに、オクジーは思わず笑ってしまった。あの瞬間は絶望しかなかったが、過ぎたことをいつまでも引きずるタイプではない。もう数年前のことだ。ふたりで一緒に暮らすにあたり家具専門店に訪れたから、思い出しただけで。
交際して以降、生活全般に対するバデーニの感覚はだいぶオクジーのそれに近づいてきた。毎日三食きっちり食べる必要はないが、一日一回は何かちゃんとしたものを食べること。徹夜は常にするようなものではないということ。たとえ喧嘩をしていても、おやすみとおはようと行ってらっしゃいは互いに言い合うこと。そして、手当たり次第その辺に数式を書いてはいけないということ。
もちろん、花火が弾けるようにシナプスが繋がり始めると誰にも止められないバデーニの奇才っぷりは健在である。そして結局、オクジーはバデーニのそういうところもすきなのだった。
「お願いだから家の壁とかに書き殴らないでくださいね。ホワイトボード買いますから……」
冗談めかして言うと、バデーニはオクジーを見上げて口をとがらせた。
「子どもか私は」
「子どもはあの勢いで数式書かないでしょ」
「そもそも、どうでもいいところにしか書いてない」
「バデーニさん……!」
自分とのことはどうでもいいことではないと暗に言われ、オクジーの胸があたたかいもので満ちる。じっと見つめられて頬が熱くなるのを感じる。甘えたような表情もかわいい。バデーニさん、こんなに俺に心を許してくれるようになったんだ。俺と暮らす家はどうでもよくないんだ、特別だと思ってくれてるんだ。嬉しい。嬉しい!!
喜びと愛おしさが風船のように膨らむ。そしてその風船がぱちんと弾けるようにオクジーはスッと真顔になった。
「いや、どこであってもやめてください。この間ショーケースに書いた数式消すの本当に大変だったんですよ」
「チッ、もう効かないのか」
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