あなただけ校了・ほか - 2/10

万雷

 重い扉を押して中に入る。ステンドグラスに光がさしこんで、床に落ちた色づいた影がきらきらひかっている。礼拝の時間でもないので人はほとんどいない。真ん中を進み、前から三列目に腰をおろす。正面の十字架を見上げる。
 バデーニは詰めていた息を吐き出し、そして深呼吸した。目を閉じればいまも、鮮明に彼の笑顔を思い出せる。記憶力に優れていることは、人より遥かながい時間を生きる身には呪いのようでもある。手を合わせて祈り、彼とのことを思い出す。
「お久しぶりです」
「……ああ、君か」
 通路を挟んだ隣から声をかけられる。ラファウもまたバデーニと同じく、人の時間軸から外れたところで生きている。
「喪服、珍しいですね」
「珍しくなんかないだろう。我々はいつも見送るばかりだ」
「そう言って喪服なんか着ないじゃないですか」
「形ばかり取り繕うことに意味はない」
 本心だ。いまもそう思っている。それでも彼らを見送るときは毎回、喪服を手に取ってしまう。
「……『オクジーくん』が亡くなった」
「ああ、そういうことでしたか……」
 ラファウはバデーニを見て口を開きかけるも何も言わず、代わりに十字架を見上げた。きっと、懲りないですねとでも言いかけたのだろう。
 バデーニもラファウも、この身で生まれたとき、前世の記憶があった。父も母も「そう」だというから、やたら一生が長いこの種族とはそういうものらしい。
 見知らぬ名前からの手紙が学校に届いたのは昨日だった。念のため開いたその手紙は、彼の孫であるということ、彼が亡くなったこと、生前祖父から名前を聞いていたので知らせたほうがよいのではと思い調べて手紙を送ったことが、簡潔ながら丁寧な文章で書かれていた。ふたりの関係を詳細に聞いていないなか送った手紙なので差し支えたら申し訳ないという結びは、彼の言いそうなことだなとむしろ嬉しくなってしまった。
 彼と過ごしたのは数十年前の、ほんの数年だけだった。一緒に生きてくれないかと切実な顔で告げた彼に、バデーニは頷けなかった。頷けるはずがなかった。だって、共に生きたら自分の秘密を知られてしまう。拒絶されるかもしれない、そうでなくても、すぐ隣で時を重ねたうえで看取るなんて耐えられるわけがない。そう思って住んでいた家を飛び出した。理由があって君と一緒には生きられない、理由は言えない、君の幸福を心から祈っている。そんな一方的な手紙だけを残して、バデーニは彼の住む街を出た。返事はこなかった。それでよかった。
「今回はおいくつだったんですか」
「九十二。大往生だ」
「良かったですね……でいいのかな」
「いいよ。知らせをくれたのは彼の孫だ」
 そう言うと、ラファウは眉を下げて笑った。あなたもいつまでも不器用な人ですね。
 バデーニ自身もわかっている。大切と思える人と生きる人生には、大きなかなしみが必ず約束されているのと同時に無数の喜びもあるだろう。けれど、一度それを知ったら、きっとまた求めてしまう。自分には、オクジーと生きて処刑されたあの一回だけで十分だ。一生ぶんをもうもらったと、そう思ってしまった。「彼ら」には彼らだけの人生を自由に幸福に生きてほしい。この先も。
「試しに一回くらい一緒に生きてみればいいのに」
「私の死期が近づいたらな」
「一途というか頑固というか。バデーニさんが後生大事にしている『それ』はあなた自身の生涯じゃないでしょ」
 バデーニは答えず、ただ微笑のみを返した。本気で諭す気もなければ諭せるとも思っていないラファウは、呆れを隠そうともせず、まあ別にいいですけど、と呟いた。
「それじゃあ、またいつか」
「ああ。またいつか」
 足音もなく、ラファウは歩いていく。重い扉の閉まる音だけが教会の中に響いた。
 目を閉じて、彼の笑顔を思い出す。彼はオクジーではない。運動神経があまり良くなくて、花を育てるのが上手だった。そんな彼のことが、バデーニはすきだった。彼を思い、祈る。いまでも鮮明に思い出せる笑顔が胸を刺す。その痛みは、またその魂が祝福のうちに生まれてきてくれますようにという祈りに似ていた。
 姿かたちは違えども、笑った顔を見ると、ああすきだなあと思うのだ。もうそういう存在に出会うことはあるまいと毎回思うのに、場所も時代も時には性別も違うのに、どうしてかまた出会ってしまう。雷に打たれるように出会うこともあれば、草が芽吹き花開くように時間をかけて惹かれることもある。魂が同じとか生まれ変わりとか、確かめたことがないから本当のところは分からない。きっとこの先も分からないけれど、またそのうち、大切と思ってしまう存在に出会うのだろう。
 正午を告げる鐘が鳴った。立ち上がり、教会を後にする。室内から外に出たので明るさの差異で一瞬目が眩んだ。喪服の黒いネクタイをほどき、首もとから抜き取る。今日の午後にはもう、また教壇に立つ。

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