別解
またきみの書いたものが読みたいなと言ったとき、その言葉を発したバデーニ本人としては、誓って含みはなかった。また書いたならぜひ読みたいという、ただ、それだけ。だから、オクジーが「もうやめてください!!」と急に声を荒げたのは完全に予想外だった。ノートパソコンが急に固まって落ちるように頭が真っ白になり、立ち尽くす。そんなバデーニを振り返ったオクジーの顔にさっと自己嫌悪がさし、そのことを認識した瞬間、バデーニの胸に去来したのは途方もない後悔だった。そんなことがあったのも、もう三年も前になる。
あの日見せた激昂の瞬発力はなんだったのかと思うほど、あれからオクジーが声を荒げたことは一度もない。バデーニは時折不思議な気分であの夜のことを思い出し、そして夢や幻ではなかったことを再確認しては自分の胸のうちにそっとしまい込んでいる。
カフェテラスの窓際の席でコーヒーを飲みながら、オクジーを待つ。退社できるはずと言っていた時間までもうすぐだが、連絡がないのでもう少し遅くなるのかもしれない。原稿の到着が遅れたことでスケジュール全体が後ろ倒しになってしまったという嘆きは事前に教えてくれていたし、幸いバデーニは予定の目処さえ立っていれば待つことが苦にならない人間である。
薄曇りの空の下、ぼんやりと街灯があたたかい光を発している。また雲が濃くなっているので、もう一雨降るかもしれない。あまり酷い雨にあわないといいが。そんなことを考えながら待ち時間用に持ってきたジャーナルを開き、文字をなぞる。
あの頃、何かの衝撃で均衡が傾けばふたりの関係性は変わっていたのかもしれないと、バデーニは時折思い返す。蓋を開ければ、ふたりの間に落ちた隕石の衝撃はその天秤を破壊するに至らなかったわけだが。
──私は帰ったほうが良さそうだな。
フリーズからの再起動を果たしたバデーニがそう言うと、オクジーはひどく傷ついた目をした。怒鳴られたのは自分のほうなのにと腹を立ててもいいくらいだったのに、なぜかその目を見て、バデーニは全てがどうでもよくなってしまったのだった。オクジーは口ごもったり言葉に詰まったりしながらも、それでも話すことをやめなかった。自分の中で考えをまとめて整理してから話す彼にしては、珍しいことだった。
その数ヵ月後、ためらいがちにオクジーが合成皮革のカバーのかかった日記帳を差し出してきた。
──よ、読みますか?
読まない、と言い切った自分の声が思いの外強かったことに自分で驚き、バデーニは慌てて補足した。
──誰かに読んでほしいときみが思っているものなら、ありがたく読ませてもらう。でも、そうでないなら、読まない。きみの内心は誰かに軽々と差し出していいものではないし、私はそれを踏み荒らさない。
そう言うとオクジーは目を丸くして、ただ一言、そうですかとだけ呟いた。今度はオクジーが処理落ちしたことがおかしくて、バデーニは肩を揺らして笑った。結果的にふたりの親交は守られ、いまでも年に数回は食事に行く仲が続いている。
カランカランと鳴った軽やかな鐘の音に、ふっと意識が浮上した。見渡すといつの間にか座席はだいぶ埋まっている。入り口の扉のほうへ体を捻ると、オクジーと目があった。嬉しそうに口角が上がり、店員と一言二言話してから歩いてくる。「すいません、お待たせしました」
「全然。きみは? 仕事は」
「きりのいいところまで終えてきたから大丈夫です」
そう言って肩がけの鞄を窓側の椅子におろす。紙の束がはみ出ていたが、濡れてはいなかったのでどうやら雨からは逃げ切ったらしい。
「それ、いいのかそんな風に持ち出して」
「ああ、これは大丈夫なやつです。もう発行されたので、持ち帰る用」
バデーニの指差したほうを見て答えながら、オクジーは恥ずかしそうに紙束を鞄から取り出した。雑に折って突っ込んできたものを、丁寧に揃えて二つ折りにし直す。
「校閲はきみの天職だろうな」
「本当に。人より先にいろんな文章が読めて、疑問がわいて調べてお伝えして、それが人の役に立つなんて、夢みたいです」
楽しくて仕方ないという表情を見ると、バデーニも安堵する。あの夜──、書きたいものがなければ書けないし、書きたいものはもう書いちゃったからもうないんです、ないものはないんですと、情けない声で言ったとき。あのときオクジーは、その大きな体をかわいそうなほどに縮こませていたから。
ふと思い立って尋ねてみる。
「オクジーくん、書きたいものはできたか?」
もう時効だから聞いても問題ないだろうとにらんで聞くと、オクジーは「いや、全然ないですねえ」とあっけらかんと言って笑った。
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