墓場のとっておき
バデーニの所属する研究室には、大量の傘が置かれている。さすがにこれはという急な土砂降りに買わざるをえなかった傘、帰りは小雨になっていたのでそのまま置き去られた傘。ビニール傘から柄物、デザインも男性向けから女性向けまで。バデーニをはじめ研究に年中心血を注ぎすぎている者たちが無頓着に増やした多種多様な傘が、傘立てに無造作に突っ込まれている。
一年のうち大半が雨であり、ちょっとやそっとの雨なら気にせず歩く国であっても、さすがに傘をささなければならない日はある。雨脚という意味でも、その後の予定という意味でも。そんな日にうっかり傘を忘れた者たちは、救いを求めて決まって彼らの研究室を訪れる。バデーニたちは「傘の墓場」と散々な呼び方をしているが、むしろその大量の傘は互助会としての機能を果たしていた。
コンコンコンとせっかちにノックしたあと、勢いよく扉を開けたのは、ひとつ下のフロアに居を構える研究室に在籍する女性だった。互助会の恩恵をおおいに受けている一人である彼女が早口で言う。
「このあと企業の人と会うのすっかり忘れてた! 傘貸して!」
どうぞー、と間の抜けた声がそこかしこから飛んだ。ありがとう! とハキハキとお礼を言って、ビニール傘を引っ付かんで嵐のように去っていく。またきたのかと思いつつ、バデーニが目を向けたときにはもうそこには閉まりかけの扉しかなかった。
集中が切れたついでに資料の地層の奥に埋もれたスマートフォンを引っ張り出すと、オクジーから「墓場の傘を借りに行ってもいいですか」と律儀にメッセージが届いていた。好きなのを持っていけと返すと、すかさず感謝する熊のスタンプが届く。そんなにひどい雨なのかと思い窓の外に目を向けると、まあ突破できないこともないと思う程度には強い雨だった。天気予報では小雨程度と言っていたはずだが、窓ガラスの雨粒で街灯が滲んでいる。
液晶の数字の羅列を睨んでいるうちに、先刻の短気な音とは打って変わって、控えめなノックの音が響いた。早かったなと思い再び振り向くと、おずおずと開かれた扉からそっと中を覗き込むオクジーと、もう一人、薄手のワンピースを着た女子学生。目が合うと、不安げだったオクジーの表情が一瞬で明るくなる。その隣で、引き続き申し訳なさそうな顔の彼女が、しかしはっきりとした口調で言った。
「すみません、傘を借りに伺いました」
相変わらず誰も振り向くことも出迎えることもなく、どうぞー、墓場から持っていってー、とそこかしこから声が飛ぶ。
「は、墓場?」
「そこの傘立てのこと」
傘立てを指差しつつオクジーがさりげなくバデーニの近くに移動したので、声を落として尋ねる。
「彼女は?」
「同級生です。最後の授業が一緒の。本人は走って帰るつもりだったみたいなんですけど、友達たちが止めてたのが聞こえたので。俺も持ってなかったんで、ここのを借りられたらと思って、すいません」
「それは全く構わないが」
確かに、あのワンピースでこの雨の中を強行突破するのは危ないだろう。どうしたものかと傘立ての前でうろうろしている女子学生と目が合う。
「あの、これ、どれならお借りしていいですか?」
「どれでも構いませんよ」
バデーニが答えになっていない答えを返す。その会話が聞こえたのか、奥から同僚が出てきた。彼女も傘利用常習者である。
「このあと帰るだけ? なんか堅い約束とかある?」
にこにこと話しかけられて、ようやく女子学生の緊張ぎみの顔が和らいだ。
「何もないです、友達と会うだけです」
「じゃあビニール傘よりかわいいやつ持っていきなよ! これとかどう? こっちもけっこういいやつ」
そう言ってどんどん傘を抜き出していく。同僚はもはやこれを自宅の傘立てくらいに思っているのかもしれない。
ほどなくして彼女はパステルカラーの傘に決めたらしい。なんとなくオクジーも彼女と同じタイミングで帰るのだと思っていたが、傘を選ぶこともせず、全く帰る気配がない。バデーニは疑問符を浮かべながらオクジーを見た。オクジーはよくわかっていない様子でバデーニを見返す。そんなふたりの様子に、彼女は一瞬なんともいえない顔をしたが、パッと表情を切り替え、朗らかな笑顔で言った。
「オクジーありがとう! 超助かった! みなさんも本当にありがとうございます、明日返しにきます!」
その言葉に、はーい、いつでもいいよー、とものぐさたちの返事が輪唱のように戻ってくる。そして彼女は研究室を出て行った。同僚は首をかしげつつバデーニとオクジーを見たが、あまり興味はないらしくそのまま自席に戻っていく。傘立ての前にふたり取り残される。バデーニの不思議そうな顔を見つめて数拍後、ようやくオクジーが慌てて口を開いた。
「俺は案内だけなんで」
「帰るのかと」
「? 帰りますけど……」
「好きなの持っていっていいぞ」
「あ、大丈夫です」
どちらかといえば機転の早いオクジーだが、今日は微妙に会話とテンポが噛み合わない。珍しい。じわじわとおもしろくなってしまい、バデーニは小さく笑ってしまった。
「どうしたんですか?」
オクジーはこの期に及んでただ穏和な表情に疑問符を浮かべている。雨が弱まるまでデータ整理を進めて行こうと思っていたが、なんだか気が抜けてしまった。
「いや、そうだな、私も今日はもう帰ろう。ちょっと待っててくれ」
そう言って編集中のデータを保存し、パソコンの電源を落とす。先に帰ると研究室の奥に声を掛けると、おつかれー、という声たちとひらひらと振る手だけが見えた。
バデーニも今日は傘を持ってきていない。鞄に手早く荷物を放り込み、傘立てを物色する。置き傘のなかにも暗黙の序列が存在している。この時間ならもういいだろうと思い、学会にも行けると重宝がられている最上級の傘を引き抜いてオクジーに渡した。自分用には、なんとなくいつも選びがちな無地の紺の傘を取る。
「帰るぞ」
「あっ、はい、お邪魔しました」
持たされた傘とバデーニの顔をしきりに見比べていたオクジーは、慌ててバデーニのあとをついていく。
建物を出ると、傘なしではなかなか厳しい雨脚となっていた。風も強く、顔にまとわりつく髪がうっとうしい。
「やっぱり借りてよかった、ありがとうございました」
オクジーが笑う。それから、あっ、と口を開いた。
「墓場のこと、あんまり関係ない人に広まるのもあれかなと思ったんで、さっきの彼女にしか言ってないです。みんなには、知り合いから借りられるとだけ」
別に隠し立てしているものでもないし、研究棟に出入りする学生の間ではすでにそれなりに有名な話だ。しかしバデーニとて、誰彼構わず訪ねられるのは正直面倒くさい。配慮をありがたく受け取り、素直に礼を言った。
「きみはよく人助けをしているよな。今日の傘とか、忘れ物とか」
「そんな多くないと思うけど……」
バデーニの交遊関係は海溝のように狭く深い。オクジーもどちらかといえば似たようなタイプだが、その外側には広い浅瀬もしっかりある。バデーニはオクジーから彼の広い交遊関係が垣間見える話を聞くのが好きだった。
「……きみに傘を貸してくれる人間はたくさんいるんだろうな」
それこそ、きっと、彼が助けた人と同じくらい。ちらりと見上げるが、傘で表情はよく見えない。雨音に溶けて、バデーニの声はオクジーには聞こえていないようだった。
オクジーの思慮深いところも、てらいなく人に手を差し伸べられるところも、彼の美徳だと思うし、好ましく思ってもいる。そういうところは変わらないでほしいし、自由に世界を広げていってほしい。ずっと、そういう姿を見ていたい。どれも本当だ、とバデーニは思う。本当のこと、だけれど。
「オクジーくん」
明確に呼び掛ける。傘越しに目があった。
「きみに傘を持っていくのは、この先も私がいい」
その言葉に、オクジーの目が丸くなった。ふたりの歩みが止まり、雨が足元に跳ねる。まっすぐな視線が気まずくて、バデーニは傘を握る自分の左手を見つめながら言葉を重ねた。
「もちろん、いつ何時でも持っていけるとは限らないし、そのためにきみに不便を強いたいわけでもない。別に人から借りるななんて微塵も思わない。そのとき一番合理的に相手から借りればいい。だからこれはそもそも破綻した発言だが……」
そこまで言って、再び顔を上げる。オクジーは、頬を緩めて心底嬉しそうにはにかんでいた。
「……しまりのない顔だな」
そう、バデーニが柔らかい声で言うので、オクジーは自分の顔がカッと熱くなるのを感じた。きっとおもいっきり赤くなっているに違いない。冷たい風が吹き付けていてよかった。
「なんか、すごいこと言ってもらったなと思って……」
「繰り返しだが私に義理立てする必要はないし、してほしいわけでもないが、ヘルプ要請は遠慮なくしてくれ」
どちらからともなく再び歩き出す。相手に何かをしてあげたいというシンプルな気持ちがバデーニさんから出力されるとこうなるんだなあと、口には出さなかったが、オクジーは胸のなかで噛み締めた。
横断歩道の向こうに駅が見えてきた。バデーニさん、と今度はオクジーが呼び止める。
「バデーニさんが傘が必要になったときは、ちゃんと俺が持っていくから、きっとちゃんと呼んでくださいね」
「うん。わかった」
バデーニが微笑みとともに頷くと、オクジーも嬉しそうに大きく頷いた。たまには傘の必要な雨も悪くないと思う。歩きながら隣を見た。大きめの傘にすっぽりと覆われて、オクジーの肩はほとんど濡れずにすんでいる。それがなんだかとても嬉しくて、バデーニは緩む口元を隠すように傘を頭に引き寄せた。駅はもうすぐそこだった。
※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます