虹の入江で会いましょう
ひとり、またひとりと列が進んでいく。聞こえてくる声はどれも弾んでいて、列をあとにする顔はどれも晴れやかだ。満面の笑みだったり、緊張ぎみに紅潮していたり、なんでもないような顔をしている割に口もとが嬉しそうに緩んでいたり。バデーニはそんな人々の顔を見渡した。次の方、とスタッフの呼び込みの声がまた少し近くなる。
書店に平置きされた本のなかに彼の名前を見つけたときには、本当に心がおどった。雑誌の巻末の小さなコラム、寄稿したエッセイ、ウェブの短期連載など、彼の書いた文章をまとめた本。はじめて寄稿枠をもらえると決まったときには、ふたりして喜んだ。奮発して高いワインを開けて、ふたりでべろべろに酔った。翌朝、食器やグラスを出しっぱなしの机を見て、夢じゃなかったんだなと感慨深そうに呟いていた。
彼の文章には、ふたりで経験した出来事が直接的に書かれていることもあれば、彼が見聞きした内容、ふたりで話した内容から抽出されたようなことが書かれていることもあった。そんなこともあったなと懐かしんだり、こんなこといつ考えていたのだろうと思ったり、読むたびに彼のことを考えていた。
順番が近づいていく。身体をちぢこませるようにして丁寧にサインをして、ひとりひとりに丁寧に語りかける姿が見える位置まで進んだ。息災そうで何よりだな、と思った。
彼がSNSで控えめに告知をするたびに、追いかけるようにしてそれらを読んだ。本になります、という短い文章と、おそらく編集部が作ってくれたのであろう告知画像を見たときは本当に嬉しかった。小規模ながらサイン会をやると知ったときは万難排して向かおうと思ったし、編集部もまた彼の書く言葉を愛して大切にしているからこそこうした場を設けるのだろうなと思い、それもまた嬉しかった。
次の方、と呼ばれる。にこにこと笑っていたオクジーの目が一瞬見開かれ、それから、柔らかく微笑む。
「いつもありがとうございます」
数年ぶりに直接会ったオクジーの笑顔は変わらない。あの頃と、同じような笑顔。
いつも読んでいます、これからも応援しています。それだけをちゃんと笑顔で言おうと、何度も心のなかで繰り返していたのに、いざ彼を目の前にすると、言うべき言葉は胸の奥で行き場をうしなってしまったようだった。バデーニはごくりと無理やり唾を飲み込み、発売日に購入してあった本を差し出す。そして、気づいたときには、用意していた言葉と全く違うことを声に出していた。
「……本のタイトル、どの連載のものとも違いますが、どうしてこれを?」
オクジーは手を止めて、バデーニの顔を見た。ふたりの視線が交わる。しかしそれは一瞬のことで、オクジーは受け取った本をいつくしむような手付きで撫でてからゆっくりと表紙を開いた。
「あとからあれは間違っていたとわかったことにもきっと意味はあるし、そのときはそうしようと思ってした選択なら、それを肯定したいと思ったからです」
バデーニはその言葉を聞いて、無意識のうちに詰めていた息をゆっくりと吐き出した。「虹の入江で会いましょう」というタイトルを見たときから、思うところを聞いてみたかった。
かつて、月にも地名があると教えたときの好奇心できらきらと輝くようなまなざし。月の地形に対する命名の仕方を与えた北イタリアのイエズス会の司祭であり学者のリッチョーリは天動説を支持していたが、彼の命名法はいまもなお生きていること。その説明を聞いたうえで夜空を見上げた、真剣な横顔。それらがフラッシュバックする。
目の前ではオクジーが座って、丁寧に文字を書いている。自分はその姿を立ったまま見ている。もし、ふたりの関係性に違う名前を与えていたら、いまも自分はその隣に同じように座っていただろうか。もし、所属先が海外の研究所に変わるときに、一緒にこないかと誘っていたら。母国に戻ってきたときに連絡をしていたら。編集部宛ではなく彼個人のアドレスに感想を送っていたら。そうしたら、なにかが変わっただろうか。
あり得たかもしれない未来が、白昼夢のように脳裏をよぎる。けれどそれだけだ。物書きとしてゆっくりと、しかし順調に走り始めたオクジーを引き剥がして異国に連れていくなんて考えもしなかった。ファンがいるのだと会社にアピールして彼を応援したかったし、編集部宛のファンレターやメッセージもちゃんとオクジー本人に届いている様子が見てとれたので、そのほうが一石二鳥だと思った。この数年、彼のほうからも特に連絡はなかったし、別にそれでよかった。
「素敵なタイトルだと思います」
そう言って、バデーニは微笑んだ。人の関係性は潮の満ち引きのようなものであり、それといった理由なく親密になることもあれば、円満な関係であっても、なんとなく疎遠になることもある。人生は選択の連続であり、ひとつひとつの選択がいまを違う場所へと運んでいく。
あのときこうしていたらどうなっていただろうと、過去を振り返ることはきっとこの先もあるだろう。それでも、似たような状況になったら、自分はまた同じような選択をするだろう。オクジーもきっと同じなのかもしれない。だから、こういうタイトルをつけたのだろうなと思った。
「これからも応援しています」
「ありがとうございます。これからも読んでやってください」
「もちろん。楽しみにしています」
本の向きを逆にしてオクジーが差し出す。受け取って見ると、「バデーニさん、いつもありがとう」と書かれていた。
目を合わせ、微笑みあう。スタッフがそろそろ、と控えめに声をかける。ふたりに会釈をしてから列を抜けた。次の方、と呼び込む声を背中で聞く。一度本をぎゅっと胸に抱いてから丁寧に鞄にしまい、バデーニは書店を後にした。
※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます