二度め・ほか - 3/5

二度め

 オクジーとは一度だけキスをしたことがある。流星群を見ようと、高台へと車を出してくれた夜。目が慣れて星が見えるようになってからはふたりして無言でぼうっと空を見ていた。息づかいだけが隣にあって、あたたかな春の闇にそのまま溶けていきそうな夜だった。
 それはあまりに一瞬のことだったので、何度思い返しても、いまだに現実味がない。ふと触れた指先がぴくりと震えて、顔を隣に向けたらばちりと目があって、顔が近づくとか思う間もなく視界が暗くなって、そして再び見たその瞳があまりに真剣だったので、言葉という言葉がバデーニのからだから抜け落ちて、ただ息を詰めることしかできなかった。何も言えなかった。風が吹いて、唇がひんやりと冷たいなと思った。そうしてようやく、ああ、キスされたのかと、わかった。
 何を言えばいいのかも何を言いたいのかわからず、バデーニがただ固まっているうちに、オクジーは真剣な顔を引っ込めて、そしてよく見知った穏やかな微笑みとともに、帰りましょうかと言った。訳がわからなくて、とにかく頷いてしまった。帰りの車の中で彼は、行きと同じように時折話したり黙ったり、寝てていいですよと柔らかい声で言ったり、とにかく、全然様子が変わらなかった。だから余計に混乱してしまって、寝たふりすらできず、オクジーは困ったような横顔をその大きな手で掴んだコーヒーカップで隠していた。そして、何事もなかったかのように家の前に車を停めて、バデーニを下ろしたあと、おやすみなさい、と小さく笑った。
 それだけ。走り去る車を見送っても、もうバデーニの指にも唇にも、何の感触も残っていない。
 その数ヵ月後、たまたまテレビから流れていたドラマで、不意打ちでキスされた女性が「よくわからなかったからもう一回」とかわいらしく言っているシーンを見た。ああ、そう言えばよかったのかと、つい思ってしまった。

 それからも、ふたりの交流は変わらずに続いた。あまりにも何も変わらないためにバデーニはあの夜のことは自分の見た夢なのではないかと思ったが、それでも時折、瞬間的にオクジーの見せる困った顔が、現実だったのだと否応なく告げていた。
 自分たちはなんなのだろう、と思う。たまたま出会って、なぜか意気投合して、親しくなって、出掛けるときには声をかけようかなと思うし、誘われることもある。美味しいものを食べれば彼も食べたことがあるだろうかと思う。好きそうなものを見ると教えてやりたいと思う。友人というには近く、かといって恋人などではない。留学の見送りに空港まで行くのは、友人の範疇なのだろうか。けれど、留学を知ったのは行き先が確定してからだった。準備していることなど全く知らなかった。そんなの、友人とすら言えないのではないだろうか。
「きてくれてありがとうございました」
 人々のざわめきに紛れて、四方八方からアナウンスが飛び交う。そんななかでも、バデーニの耳はオクジーの声をクリアに拾う。わざわざ空港までついてきたのに、道中、会話らしい会話はなかった。呆れるほどいつもと同じ。ただ、オクジーだけが引く大きなスーツケースが、ふたりで博物館に行くのとは訳が違うのだと、ふたりの間で無言で主張していた。
 どれだけ考えたって、時間は一定の速度で進む。足を止めて、向かい合う。
「気を付けて」
「はい。お世話になりました」
「では、また。……いってらっしゃい」
 つとめて、笑顔で言った。バデーニは握手のひとつでもしたほうがいいのかと一瞬考えたが、そんなこと一度もしたことがないのに変だなと思い直し、結局その手が上に上がることはなかった。
「いってきます」
 オクジーが微笑む。そして、ぐっと勢いをつけて、スーツケースを転がす。止まっていたそれは、慣性の法則に従ってスムーズに動き始めた。すこし猫背になった背中が、ゆっくりと歩いて遠ざかっていく。
 呆気なかったな、と思う。あっさりとしたお別れ。案外そんなものなのかもしれない。友人なのかなんなのか、よくわからない関係など。
「……あのとき、もし何か言っていれば、何か変わったのかな」
 背中を見送りながら、そう声に出して呟いてみた。気の迷いだった。ひとりごとは音声になると途端に間抜けで、大切な何かが手のなかに確かにあったのに、それをみすみす逃した自分そのもののようだった。
 雑踏に大きな背中が紛れていく。
 ああ、スーツケースは無事預けられたみたいだ。保安検査場はもう少し奥にある。時間には余裕があるから慌てずに行けるだろう。見失ったら帰ろう。そう思いながら目で追っていたら、突然、身一つになったオクジーがくるりと振り返った。これだけ人がいるのに、まるでスナイパーの射線が通るように、ばちんと目があう。オクジーがずんずんと走ってくる。声が届いてしまったのかと思ったが、この距離でそんなことあるはずがない。訳がわからなくて、一瞬理解が遅れる、そして訳のわからないまま、とにかく彼に背を向けて走り出す。人の流れに逆行するから上手く進めない。息が切れて足がもつれそうになる。自分の呼吸と乱れた足音がやけに耳について、そこに、もうひとつの規則正しく俊敏な足音が加わる。
「待って!!」
 つかまれた手首が、発火しそうに、熱い。
 バデーニの肺は必死に酸素を取り込もうとあえぐが、手首、喉、顔、何もかも熱くて、全くそれどころではなかった。ない息をなんとか吐き出していくうちに、呼吸の速度が次第に一定になっていく。オクジーの顔を見られない。
「……手、」
 ようやく息が落ち着いたころ、視線を落として、バデーニは小さく呟いた。オクジーは慌てふためいてパッと手を離して、すみませんと反射で口にして、それから押し黙った。
 掴まれていた部分を、自分の左手で握る。向かい合うふたりの爪先。顔を上げると、オクジーはあの日のような真剣な目をしていた。
「あの」
 目が逸らせない。そう思って、いや違うな、とバデーニは内心で打ち消した。逸らせないのではなく、逸らしたくないんだ。
 オクジーの口が中途半端に開いて、言葉を探してさまよって、閉じて、覚悟を決めたようにまた開く。
「あの……、もし、あのとき、俺が何か言っていたら、二度目はありましたか」
 何の二度目とは言わなかったが、すぐにわかった。今度はバデーニの口が言うべき言葉を求めてわななく。そんなの、と思う。そんなの。
「……わ……」
「わ?」
「……わからない、そんなの……」
 視線を下げると、彼の指がぴくりと震えたのが見えた。オクジーが長くゆっくりと息を吐く。再び見上げた彼は閉じていた目を開けて、そして、そうですか、と何かを諦めたように微笑んだ。あの夜、帰りましょうかと言ったときと同じように。
 わからないじゃないか、そんなの。友人というには近く、かといって恋人などではない。キスされても嫌じゃなかった。でも、じゃあもう一回キスがしたいかどうかなんてわからない。わかるはずがない。そもそも、きみは、大切なことはなにひとつ話そうとしなかったくせに。
 震える指をぎゅっと握りこむ。からからの喉に無理やり唾を飲み込んで、口を開く。
「だから!」
 声を上げた。なかば睨むように見つめた先、オクジーは、きょとんと間抜けな顔でバデーニを見つめている。毒気を抜くような表情に負けないように拳を握る。
「っ、わ、わからないから、もう一回……」
 尻すぼみになりながらも、なんとか声に出して言った。自分はちゃんと言ってやったぞという達成感に満ち溢れているバデーニとは対照的に、オクジーは目を見開いていた。
 あまりにオクジーが固まっているので居たたまれなくなり、何か言ったらどうだと促すと、ようやくオクジーの口から声が漏れる。あの。
「それは、あの、まだ、やり直しがきくってこと?」
「そうだ」
「また俺と一緒に出掛けてくれますか」
「ああ」
「帰国のときは連絡してもいいですか」
「むしろこの流れでしなかったら怒る」
「……もう一度キスしてみても」
「公衆の面前だぞ正気か!?」
「いや、そうじゃなくて、ていうかそこなんですね……」
 じわじわとオクジーの顔が緩む。笑みが戻っていく。それを見届けて、ようやくバデーニは握りしめた手の力を緩めた。
 だって、そもそもきみは、大切なことはなにひとつ話そうとしなかった。私もきみに話さなかった。ふたりして、踏み込むことをおそれて。
 すこし緊張した面持ちで、オクジーが名前を呼ぶ。なに、と答える。
「連絡してもいいですか。その、くだらないことばかりかもしれないけれど」
 それでもまだ軌道修正はできる。手を伸ばせば届く距離にいるのだから。それがたとえ、物理的には海と数時間を隔てた場所であったとしても。
「ああ、もちろん。私も連絡するよ」
 そう言ってから、できるだけ、と付け加えた。オクジーが嬉しそうに頷く。今なら握手だってしてみたかった。
 意識から遠退いていたアナウンスが耳に飛び込んでくる。保安検査場の締切時間間近を告げる声。慌ててオクジーが腕時計に目をやった。
「ほら、もう行かないと」
「じゃあまず、着いたら連絡しますね」
 素直に頷きを返す。オクジーはようやくすっきりとした顔になって、一度来た道を振り返った。そしてにっこりと笑って言う。
「いってきます!」
「いってらっしゃい。気をつけて」
 小走りで走っていく背中を見送る。角を曲がる直前、オクジーが勢いよく振り返って大きく手を振った。彼にも見えるように、まっすぐに手を上げて振り返す。今度こそ姿が見えなくなる。清々しい気持ちで、バデーニは出発フロアを後にした。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!