二度め・ほか - 2/5

一生もの

 ちょっと待っててください、と言い置いてオクジーは玄関先に出て行った。取り寄せた本がそろそろ届くかもしれない、途中で宅配がきたらすまないと律儀に事前に話していたので、きっとそれだろう。ありがとうございましたと配達員を見送る声を聞きながら、バデーニは椅子に腰かけたまま壁際の本棚を眺める。分野や作者ごとに整理された、彼らしい本棚だなと思う。その目が、ある一点でふと止まった。
 擦りきれた背表紙だ。日焼けして色褪せてもいる。オクジーは丁寧にものを扱うし、わざわざ直射日光が当たらない場所を選んで本棚を置いている。吸い寄せられるように立ち上がり、本棚に向かう。近くでよく見るといくつかの場所に数冊、似たように背表紙が傷んだ本があった。
「ようやく届きました! ……バデーニさん?」
 くるりと振り返ると、両手で封筒を持ったオクジーが立っていた。弾んでいた声が、不思議そうに跳ねる。その声色が気まずく感じられてバデーニは小さく頭を振った。
「不躾に見てすまない」
「いや、別に全然。何か気になるものありました?」
 封筒をテーブルに置き、オクジーがバデーニの隣に立つ。そして視線の先を追い、ああ、と柔らかい声で呟いた。
「もしかしてこれ?」
 無骨な指がそっと文庫本を引き出す。棚から取り出されると、スピンの端の糸がだいぶほつれているのもわかった。
「背表紙が擦れているのに気づいて。これと、あと何冊か」
「さすが、よく見てますね」
 読んだことはないが、バデーニでもタイトルだけは知っている小説だった。発行されたのはもう十年以上前だろうか。もしかすると二十年近く経っているのかもしれない。
「すごく好きな小説で。昔から何度も読んでたから、もうしおりの紐もけっこうほどけてきちゃってて」
 ぱらぱらとページをめくりながら、簡単にあらすじを説明する。その声はまるで懐かしい友人の話をするようで、バデーニはじっとその横顔を見つめながら聞いた。
「こどもの頃は気にせず窓際に置いていたから日焼けもしちゃってるんですけど。でも、ずっとこの本で読んできたから、買い直すのも違うなと」
 長年大切にしてきたことが、その口ぶりと手つきからひしひしと伝わる。バデーニは本棚のなかの他の本に視線を移した。彼をかたちづくる本棚、そのなかでも根幹となる数冊。ひときわ輝く一等星のようにそれらが眩しく見える。オクジーがそっとその手の本を定位置に戻した。
「……本が違う場所に連れて行ってくれるというのは、私も経験がある。懐かしいな」
「どんな本読んでいたんですか?」
「昔はそれなりに小説も。今はあまり読まないが」
 そう呟き、ダイニングテーブルへと戻る。
「君の本たちは幸せだな」
 呟きがテーブルの上に落ちた。オクジーが嬉しそうに微笑む。文字を愛し、文字に愛されている男。
「バデーニさんの本棚も気になります」
「いくつかあるけれど、あんなに擦りきれるほど読み返せていないよ」
 「読み返して」ではなく「読み返せて」と言ったのがオクジーの耳に残る。目が合った。目が合ったようで、バデーニの瞳は、オクジーではなくもっと遠くを見ているようだった。
「……専門書やら資料やらが場所を取って、こどもの頃読んだ本はあらかた売ってしまった。それでも手元に残しているものもあるが、あれらは、そうだな……」
 続く言葉を探して声が中途半端に途切れる。単におもしろかっただけの本は、物理的制約に負けてそのうち手放してしまった。もし手放したら本だけではない何かも忘れてうしなってしまいそうなものだけが、今もバデーニの本棚の一角に鎮座している。悲しい? そんなものではない。辛い? 苦しい? そんな一言で単純に言えるものではない。思い返すたびに重くのし掛かってくるもの。いつも意識の中心にいるわけではないけれど、ずっと刺さったまま、きっと生涯抜けない棘。
「……痛いものばかりだな」
「痛い……」
 オクジーは息を詰めた。自嘲気味に言うバデーニをじっと見つめる。痛いという言葉とは裏腹の表情。きっと先ほど表紙を撫でていた自分も似たような表情をしていた。
 物語は時に寄り添ってくれる友人であり、時に知恵を授けてくれる先人であり、時に鋭く切っ先を向けてくる刃でもある。優しくなぐさめもするし、嵐のような激しさで切りつけもする。知識、好奇心、他者への共感。幼少期のバデーニはそれらを物語を介して身につけてきた。しばしば、生傷のような痛みを伴いつつ。
 それほどの実感とともに読んでくれる読者がいるということは、作家と物語にとって、どれほど幸福なことなのだろう。
「……その物語たちもきっと幸せですよ」
 思わず呟きが漏れた。遠くを見つめていた視線が今この場へと戻ってくる。目が合う。
 タイトルを聞いてみたい気持ちを飲み込んで、オクジーは飲みかけの紅茶に口をつけた。その様子をじっと見つめて、バデーニは小さく微笑む。明確な意図をもって時に踏み込み、時に踏み込まないオクジーの誠実さを、実に好ましく思っている。あえて口にすることはしないが。代わりに、苦笑しつつ言葉を返す。
「長年本棚の肥やしにしたまま読み返さない持ち主だぞ」
「物理的な傷がつくほど読み返すだけが全てじゃないでしょう」
 オクジーはにこりと笑って言った。ただ単に、自分とは向き合い方が違うだけなんだろうなと思う。他人と比べるようなものでもない。彼なりの、心の傾け方。しかし当の本人はぴんとこないようで、不思議そうに首をかしげていた。

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