ふと窓の外を見たらビルの合間から月が見えて、あ、と隣に座っている手嶋が声をもらした。
「どうした?」
「あ、いや、今日の月なんかでかいなって思って」
「そうか?」
ちらりと助手席側の窓に目をやるが、いまはちょうどビルに遮られて見えなかった。視線を正面に戻してハンドルをゆっくりと左に回す。寒咲さんって。わずかに笑いを含んだ声に名前を呼ばれる。ハンドル回すとき、すごく丁寧ですよね。
手嶋は助手席が好きらしい。いや、聞いたわけではないが、練習のサポートとして車を出すとき、助手席に座るのはたいてい手嶋だ。卒業して免許を取ったのが十八の夏。部活に車を出すようになって二年目。最初こそ誰がどこに乗る、みたいな会話があったものの、いつの間にかなんとなく定位置が決まっている。手嶋純太は助手席。いつの間にか、この横顔を見慣れている。
「あ、ほんとだ」
「え?」
「月。満月かな」
「あー、そういや今日、中秋の名月だったかも」
「へえ」
先ほど左折したから、いまは月が正面に見える。なるほど手嶋の言った通り、いつもよりも大きいような気がした。まわりの雲が照らされて夜空のなかにぼんやりと浮かび上がっている。明るい夜だ。
「あ、でも今日満月ではないらしいっす」
へえ、と小さくつぶやいた。手元のスマートフォンをのぞきこむ手嶋の顔が明るいライトに照らされている。話題にのぼったからと調べてみたのだろう。こいつのこういうところ、すげえマメだよなあ。そんなことを考えながらゆるゆるとブレーキを踏む。急に止まらないように、滑らかに速度がゼロになるように。運転しているとき、たまに、こうしてブレーキを完璧に踏むことだけを考える。うまくいくとそれなりに達成感がある。その、些細なことだけど確かに味わえる満足感のようなものが、けっこう好きだったりするのだ。
踏切手前で完璧に速度をゼロにして、カンカンカンカンと鳴る遮断機とその赤いライトをぼんやりと見つめる。寒咲さん。今度は、すこしはしゃいだような、でもそれを表には出し切らないような声。そんな声で名前を呼ばれる。
「ん」
「満月は明日ですって。そんで、スーパームーンっていうらしいですよ。ほら」
手嶋がスマートフォンのこうこうと光る画面を差し出す。電車はまだこない。助手席のほうにわずかに身を乗り出してのぞいた画面に並ぶ文字列を読んで、ふと何の気なしに顔をあげたら手嶋と目があった。手嶋はちょっとびっくりした表情を見せて、それからごまかすようにちょっと笑った。
手嶋はかわいい後輩だと思う。先輩というのは簡単な生き物なので慕ってくれる後輩はすぐにかわいくなってしまうし、かまいたくもなってしまう。それは現役時代は言わずもがなで、だから、まっすぐで単純でけっこう涙腺が弱い田所がすごくかわいかった。手嶋は、田所がかわいがってるっていうのもあるけど、でもそれだけじゃない。部活にいた時期がかぶっていないと、やっぱりある程度のよそよそしさとか壁のようなものがある。OBの位置づけなんてそういうもので、でもそれらをするっとすり抜けてくる、いうなれば手嶋はそういうかんじだ。うねった髪の印象もたぶんにあるが、なんとなく、猫に似てると思う。
「手嶋ってさあ」
「はい?」
「犬じゃなくて猫だよなあ」
「どうせ髪のせいでしょう」
「いや、まあそれもあるかもしんねーけどさ。誰かに尽くすタイプじゃないだろ」
「はは、まあそうですね」
目を細めて笑い声をあげると、きれいな顔がいつもよりもすこしだけ子どもっぽくなる気がした。
電車が通り過ぎて、何回かおまけのように警報音が鳴り、すーっと遮断機が開く。チェンジレバーを動かしてサイドブレーキを戻し、のろのろと発進した。九月下旬の夜六時はもう真っ暗で、夜遅くだと錯覚しそうになる。ついこの間までは、同じ午後六時でもまだ明るかったし、蝉の声がしていた。ときおり、遠くの花火の音も。
「そういう寒咲さんもどちらかというと猫系ですよね」
「へえ、なんで」
「なんかこう、自由人っぽいところとか」
「おお、よくわかってるじゃねーか」
「じゃなきゃオレなんか送ってやろうと思わないでしょ」
そう言ってくすりと笑って、それから、あっしまったとでもいうように口をつぐむ。手嶋はかわいい。だから、ついかまってやりたくなってしまうのだ。練習後で疲れてるだろうに、予定が確定したらその日の帰りに店に寄って今後の練習予定だとかを伝えにくる、そういうまじめなところとか、話題にでたことをささっとスマートフォンで検索する、まめなところとか。なんでもできそうなくせしてたぶんすごく不器用だ。それで、不器用なくせに、あまりにいろんなことをうまくやってしまうから、不器用を器用に隠せてしまう。そうなんかな、と一度思ってからはもうそんな気しかしなくて、よくよく見ているうちに単なる思いつきはほぼ確信に変わった。そうとわかるとますますかわいい。いまさら、べつに敬語が崩れたって気にしないのに。
「寒咲さん」
窓、あけていいですか。いいぞーと返すと、ほどなくして夜の空気が車の中に流れ込んできた。夏が完全に消え去るまであとすこしもない。手嶋は流れていく景色をぼんやりと眺めていて、髪が風にゆらゆらと揺れている。なんとなく、その髪が揺れているところをもっと見ていたくなって、運転席の窓をあけた。
「もう夜は秋だなァ」
「そうですね」
そうぽつりと答えた声はかわいい後輩のものではなくて、そういう手嶋の声を聞いたのはもしかしたらはじめてかもしれなかった。シートベルトをきちんとしめて、両手はお行儀よく膝の上に置かれている。たぶん、手嶋は不器用だ。生きるのが不器用だ。
「あの、いやだったらいいんですけど、」
「どした」
「あの……、もう走れないってわかったとき、なにを思った、んですか」
「んー、そうだなあ」
流れてくる風が気持ちいい。自動車学校に通いはじめたころはこの高さから見る風景が見慣れなくて、すごく変な感じがしていたのに、いまではこっちほうがよっぽど見慣れてしまった。自転車の高さは覚えている。でも、風を切る感覚はもうおぼろげで、とても遠い。
「まあ、いろいろあるけどさ、なんで、とかはやっぱり思ったかな。トレーニングもストレッチもちゃんとやってるつもりだったし」
そうですよね、と真剣な目をした手嶋が小さくうなずいた。いまとなってはなつかしい。もうずいぶん、いや、ずいぶんどころか遥か遠い昔のできごとのような気がする。
「日常生活に支障があるときはまだよかった。痛かったけどな。でも、そういう痛みがなくなってからのほうが、精神的にはキツかったかなあ……。なに、手嶋怪我とかしてんの」
「あっ、いや、そうじゃないです、ちゃんと元気ですから、大丈夫」
です、と付け加えるものだから、思わずふふっと笑い声がもれた。
この世の終わりみたいな気分だった。でも他人に塞ぎこんだ自分を見せるわけにもいかないから、人の前ではから元気を出して、部屋の扉を閉めて一人になってから反動でどっと疲れが押しよせてくるような、そんな日々だった。そうはいってもずっと悲劇の主人公ぶっているのもいやだったから、自分と、交換のきかない膝と、向き合うしかなかった。いろんなことを考えて、整理して、これで最後と決めてすこしだけ泣いた。あの日もこんな、風が気持ちいい夜だったと思う。
「いろいろ考えたけど、まあ、それなりに折り合いはつけたつもりだよ。ちゃんと怪我とか病気とか、そういうのまったくなく産んでくれた母さんに申し訳ないっていうのは、今でも思うけど」
あと、それでもやっぱり自転車が好きなんだなって。
そう続けてちらりと横を見ると、手嶋は真剣で、でもどこかほっとしたような顔をしていた。
運転席と助手席は、他愛もない話も、それなりに深刻な話も、大事な話もしやすい。向かい合うより隣に座ったほうが親密な関係になれると、以前なにかで聞いたことがある。たしか同じ方向を向いているからだったか。それから、すぐに横顔を見られるというのもいいところだと思う。一瞬だけだけれど。すぐに正面に視線を戻さないといけないし、でも声は変わらずにずっとすぐ近くで聞こえている。手嶋の定位置が助手席でよかったなと思った。もし後ろの席が定位置だったら、きっと手嶋とこんな話をすることはなかっただろう。
「オレ、後輩がこわいんです」
なんとなく会話が途切れたまま、時速四十キロを維持して直線道路を走っていると、ぽつりと、エンジン音にまぎれそうなくらいの声の小ささで手嶋が言った。なにも言わずに、続く言葉を待つ。
「小野田はかわいいし、鳴子は単純だけどかっこいいやつだと思うし、今泉はあいつがいてくれて総北は安心だなって思うし……、でも、なんか、あいつらのまっすぐな目が、ときどき、すげえこわくて」
窓が両方ともあいていてよかった。通り過ぎる対向車の音が大きくなっては小さくなっていくのとか、ときおり風が強く吹いてごうと鳴るのとか。そういうノイズが声と迷いを消してくれるから、だから手嶋はこういうことをオレに言ってくれるのかなあ、とぼんやり思った。時速四十キロ。スピードメーターはぴったりを指している。
「一年のときはよかったです。青八木と二人で、田所さんについていけばよかったから……、がむしゃらに練習して、それで強くなれるって信じてた」
オレにとっての田所さんみたいな、オレはあいつらにとってのそういう先輩になれてるのか、全然自信がありません。どう思われてるのかわからなくて、すげえこわい。こわいんです。
手嶋はぽつり、ぽつりと、雨傘の先から水滴がしたたり落ちるような、そういうゆっくりさで言葉を継いだ。後輩がこわい、という気持ちはよくわかる。身に覚えがある。けれど、それはたぶんみんな――自分や、手嶋や、たぶん田所や巻島も、そういう類の人間はみんな思ってきた感覚なんじゃないかと思う。けれど、手嶋はべつになにか答えがほしいわけじゃないんだろうなというのはわかったから、ただ一言、
「わかるよ」
とだけ返した。
一つしか年が違わないのに、なぜ先輩というのはあんなに完璧に見えるのだろう。後輩ができてはじめて、そんなもんじゃないとわかる。でも、自分にとっての先輩がそうであったように、自分もそうなりたいと思ってしまう。それで、精一杯完璧な先輩を演じてしまう。手嶋はたぶん、それができるんだろうな、と思った。幸か不幸か。けれどまあ、いまこうして、一時的なものであったとしても心中を吐き出してくれるのだから、それはよかったと思う。明るい夜のなかを今にも走り出そうとしている手嶋をなんとなく呼び止めて、乗ってく、と聞いてよかった。
「やっぱり、先輩の先輩ってすごい大人ってかんじします」
「三つしか変わらねえよ」
「十七とはたちって全然ちがいますよ」
「合法的に酒が飲めて煙草が吸えるくらいで、それ以外は延長線上ってかんじだぜ」
「そういうもんなんですかね」
「そういうもんなんだよ」
ふうん、と言って、手嶋はさっきよりも晴れやかな横顔でななめ左上の月を見上げた。月光にぼんやり照らされて、いつもより肌が白っぽいな、と思った。
「あの、寒咲さん」
手嶋はかわいい。助手席が定位置で、まじめでまめで、器用なほどに不器用で、くだけた会話をするくせに、ちゃんと敬語を気にする、かわいい後輩。OBでもかわいがりたくなるような、わかりやすい後輩の声もいいけど、後輩のものじゃない声もわるくない。なんだか愉快な気分だった。今日はじめて聞いたくせに、ずいぶんと気に入ってしまったらしい。おろす前から、また送ってやりたいなと考えるくらいには。
「下の名前、そういえばなんていうんですか」
「あれ、妹から聞いてない? 通司だよ」
「えっと、」
「あー、道を通るの通るに、司」
そう返すと、もたれかかっていた背を起こしてすこしだけ前に体を傾けた。どうしたのかと様子をうかがっていると、手嶋は右手の人差し指をダッシュボードにのばし、何文字か字を書いて満足げにうなずく。それからまたもとの位置に体をもどし、外を見つめながらなにか呟いたようだったけれど、残念ながら声は聞こえなかった。
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