その姿が視界に飛び込んできたとき、突然流星が目の前に現れたみたいだった。
思い返せば、最初に潔を潔として認識したときもそうだったように思う。暗い室内から急に真夏の青空の下に引っ張り出されたときみたいに、ちかちか光って、眩しくて、目を奪われて。地上から眺めるきれいな流れ星というよりも、大気圏に突っ込んでまばゆく燃えるまさに火の球のような。とりわけ明るい火球のなかには、閃光のように夜空を照らすものもあるという。まさにそういう出会いだった。
夜半に始まった自主練は、いつのまにか汗が滴りそうなほどになっていた。明日に控える試合のことを考えればそろそろいい時間だ。どちらともなく人工芝に寝転がった二人の、不規則な呼吸の音だけが広々とした室内にこだましている。天井が遠い。もう終わろう、そう言うべきだとわかってはいる。わかってはいても、久しぶりの潔との一対一を終わらせるのが惜しくて、蜂楽の口はなかなか動かない。
メトロノームの速度が揃うように、荒い呼吸がだんだんと整っていく。先に声を出したのは潔だった。
「子どもの頃からさ、夕方になって、もう暗くなるから帰らないとって言われるの、すげえやだったな」
視線を向ける。目が合って、潔がいつもの人懐っこい笑顔で笑った。上体を起こした潔につられるように、蜂楽ものそのそと起き上がる。潔はそのままクールダウンのストレッチに移行するらしかった。以前見たときよりも丁寧な動作で体を伸ばしている。寝る前にも凛を突撃してはヨガを見よう見まねでやっていたらしいし、早速できる範囲で取り入れるところが勤勉な潔らしいなと思った。
「練習しててもさ、下校時間がくればみんな自然ともう帰るってなって。自分はなんとなくまだやり足りなくても、なんも考えずに帰ってたな、あの頃は」
「……俺はむしろ、ボールが見えにくくなってようやく、暗くなってるって気づくほうだったな」
潔のストレッチを真似ながら、ちらりと隣に視線を向ける。潔は特段なにも思わなかったようで、そんだけ普段から集中できるのすげー、と息を長く吐き出しながら言うのみだった。
ゆっくりと息を吐きながら、体を倒す。伸びている筋肉に意識的に意識を向けてみると、いつもよりも筋繊維の一本一本が伸びているような気がする。息を吐く、吐ききって吸って、また吐ききる。単純だけど長い呼吸を繰り返していると、不思議と心も落ち着いていくようだった。潔は、馬狼のウォーミングアップのルーティーンがめちゃくちゃ長いだとか、凪は目覚ましではぴくりとも起きないが一度意識が戻ると覚醒は意外と早いだとか、千切がすぐに物をなくすだとか、呼吸の合間に取り留めのない話を次々としてくれる。それに相槌を返しながら、思うのは他者に対していつも一線を引いていた自分のことだった。
そんな風に頭の半分で考えながら返事をしていたからかもしれない。潔は変なところで言葉を切って、ごめん、と呟いた。
「ごめん、って、なにが?」
「や、もう眠いかなって。なんか引き留めたみたいになって、ごめん」
予想の斜め上の言葉に、三回瞬きをする。そのあとじわじわとおかしくなって、思わず笑うみたいに息が漏れた。潔は不思議そうに首をかしげている。
「変なこと言った?」
「違う違う、潔は優しいなって。別に眠いわけじゃないよ、ってか話半分みたいな返事になってたなら俺のほうこそごめん」
「そういうわけじゃないけどさ、なんか心ここにあらずって感じだったから」
「ありゃ、そう見えましたか」
相変わらず潔はよく人を見てるな、と思う。それは自分に限ったことではないことは、十分にわかっているが。
「なんかさー、潔はいろんな人のことよく見てるなー、ちゃんと人と関わっててすごいなー、と思って」
「いや、プレー中はともかく、今のなんてただの日々の話じゃん。別にたいしたことしてないけど……」
「それがすごいんだよ」
潔は相変わらず、よくわからないというあいまいな顔をしていた。それがすごいんだよ、ともう一度心のなかで呟く。真っ正面からなんのおそれもなくぶつかっていけることが。相手の懐に向かって飛び込んでいけることが。もちろん、これまで過ごしてきた人間関係によるところが大きいとわかっているが、潔が何とはなしにやっているそれが、ひどく難しいことに思えた。少なくとも、ここにくるまでの自分には。
「蜂楽のほうがみんなと打ち解けるの早かったと思うけどなあ……」
そんなことを知るよしもない潔が小さく呟く。そう言う潔のことを、とても好ましいと思う。
「さっきの、運の話あったでしょ」
唐突な話題展開にも、疑問や引っ掛かりを覚えることなく頷いてくれた。そのことにあたたかな満足感を覚えつつ、言葉を続ける。
「心構えがなかったら、運は掴めないって。俺、ここに来られたこと、『運が良かった』って思ってたんだ。三百人もいて、ランダムに割り振られて、そのなかで最初に潔に出会えたことも」
でもさ、と一度言葉を切る。潔の目をまっすぐ見ようとしたけれど、その瞳があまりに静かで、照れくさくてすぐに少し左にずらした。
「でもさ。俺がここに来るって決めなかったらそもそも何もなかったんだよね。おんなじように、潔がここに来ることを選ばなくっても」
ひとりではさびしかったことも、いつからかかいぶつを生み出したことも、いつのまにかそれにとらわれていたことも。そのことにようやく自分自身で気づいたあの瞬間は、もうかいぶつなんかいらない、そんなもの作らなきゃよかったと嵐のような激しさで思ったが、不思議と今は穏やかな気持ちだった。回り道でも不要でも、きっと意味はあったんだと、そうやって考えてもいいんだと、そう思えたから。
言われてみればほんと不思議だよなあ、と潔がのんびりとした声色で言う。
「うちの母親がさ、よく『ご縁』って言うんだけどさ。召集の手紙がきたときも、これも何かのご縁ねえって。ご縁ってなんだよと思ってたけど、それに気づけるかどうかってことなのかもな」
そこに運があるか。どこに運が向いてくるか。いつ運がきてもいいような心構えができるか。うたうような調子で潔が言う。
「まあ、うちの母親はラスイチのお菓子買ってきたともすぐご縁があったとかって言うからあんまあてになんねえけど」
「あはは、潔のママいいねえ」
「でも、運命とかご縁とか、あんま信じてなかったけど、今日あの話聞いてちょっと信じた」
ようは、運をただの運で終わらせるか、こうなるべくしてなったって状況に持っていけるか、ってことなんだよな。
そんなふうに、自分が考えていたのと同じようなことを違う言葉で潔が言うので、蜂楽はじんわりと染み渡るように感動を覚えた。あのとき、最初に潔を潔と認識したとき。怖くても勇気を出してよかったとあらためて思った。人と向き合うことから無意識に逃げていたと、そうして自分自身を不自由にしていたのだと、ほかでもないいま、気がつくことができてよかったと思った。
目の前にいるのは、隣にいるのは、流星でも火の玉でも、ましてやかいぶつでもない、ただのひとりの生身の人間だった。
その姿が視界に飛び込んできたとき、突然流星が目の前に現れたみたいだと思った。もう誰もいなくたっていい、そうして全部振り払って振り切って、一度はすべてを手放したその先で、それでももう一度自分の前に現れてくれた潔。流星みたいに、光が尾を引くように、トップスピードで走り込んできたその軌跡がまばゆく見えて、目を奪われて。
それも本当のこと、だけど。
だけど、直後の絞り出すような溢れ出すようなその叫び声を聞いたときに、最初から潔は潔だと、彼そのもの以外のなにものでもないのだと、ようやく本当の意味で理解したのだと思う。最初からかいぶつはどこにもいない。最初から俺はひとりだった。でも、だから、そんな潔に会えてよかったと、心の底から思った。
得難い存在だ。なによりも。でも、それはあくまで現時点の話で、俺はもしかしたらこの先、もっと得難い存在に出会うことだってあるのかもしれない。かいぶつを探して、ともだちを探して、一緒に笑いあえる、わかりあえる相手を探して。それは思い描いた形どおりにはかなわなかったけれど、今はそれでよかったと思える。
「……俺、やっぱりここに来られてよかった。世界は思ってるより全然広いって、わかったから」
今度こそ、まっすぐ潔の目を見て言う。世界は広くていろんな人がいて、きっとこれからたくさんの人に出会うのだろう。いつか母が言っていた言葉を思い出す。たくさん練習してうまくなって、廻が強くなれば、きっといつか出会えるよ。その言葉は嘘じゃなかった。
「明日、楽しみだな」
蜂楽が言った「世界」という単語を、潔は世界選抜チームのことだと思ったらしい。違うんだけどなあ、と思ったが、別にそれでもよかった。うん、と大きく頷くと、潔は遠足が待ちきれない子どもみたいに笑った。
「こないだの試合のあと、なんだか夢みたいだなって思ったことがあったんだけどさ」
「夢?」
「起きたら全部なくなっちゃいそーだなーって、でも、夢じゃなくてよかったね」
「こんだけキツい思いして夢だったらたまんねえよ」
「キツいだけ?」
「お前なあ~」
二人でひとしきり笑ったあと、そろそろ帰ろっか、と蜂楽が言う。さっきまでの口の重さが嘘みたいに、軽やかに。潔もそうだなと言って、ひとつ大きく伸びをしてから立ち上がった。
「明日」
がんばろう、と言いかけて、違うなと思い直す。
「ん?」
「んーん。明日、いい試合にしようね、潔」
「ああ、そうだな」
もしかしたら、最初に出会ったのが潔だった、ただそれだけのことなのかもしれない。それなら、タイミングが違ったらどうだったんだろうか。この極限状態のなかだったから、こんなにも得難いと思える存在になったのだろうか。それとも、もっと前でも後でも、やっぱり自分はその鮮烈さに惹かれるのだろうか。潔のほうはどうなんだろうか。そんなもの全部、考えても仕方のないことだ。現実はひとつしかないし、答え合わせの日はこない。潔は自分とは違う存在なのだから、一生かけてもわかる日がくることはない。
それは、なんて自由なことなのだろう。世界は広くて、複雑で、混沌としていて、ままならなくて、だからこそおもしろい。人はひとりで、ひとり以外のなにものでもなくて、かいぶつなんてものは最初からいなくて、それをさびしいと思ったこともあったけど。
ひとりで立つ舞台だからこそ、どこまでも走っていける。その隣に、同じようにひとりで走るもうひとりの誰かがいること、その楽しさとよろこびを、もう蜂楽は知ったから。たとえいつかまた、ひとりに戻ったとしても。きっと自分は、まっすぐに走り続けられる。
(それでも、きっと潔だけが俺の特別なんだってあのとき思ってたことも、本当なんだよ)
潔は扉に向かって歩き出している。数歩先の背中を見つめて、心のなかだけで呟く。自分がかいぶつという額縁を通して潔を見ていた間も、潔はただの自分を見てくれていたのだとわかった瞬間、天秤が傾くような音がした気がした。失恋をしたことはないけれど、きっとこういうかんじなんだろうな、と論理とか関係ないところで思った。
かなわないなあ、と思う。人としてすごくかっこいいしそんなところが好きだなあと思う。彼は、蜂楽がそんなことを考えているなんて思いもしないだろう。いつか、昔を振り返ってあのときは、なんて話をする日もきたりするのだろうか。それか、そんなタイミングは一生回ってこないのかも。不確定な未来を思うと、なんだかとても愉快な気持ちになる。疲れすらもどこか清々しく、体が前よりもずっと軽くなったような気がした。
「蜂楽、どうした?」
振り返って潔が名前を呼ぶ。
「ううん、なんでもない」
弾むような大きな歩幅で、その距離を一足飛びに縮める。隣に並び、蜂楽は一歩を踏み出した。
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