もしかしたらあり得たかもしれない未来について、いつまでも考えている。
郵便配達のバイクの音が聞こえる。目を開けると午前四時だった。枕元の充電器に繋がれた携帯、九十八パーセント、二十一度、晴れ、降水確率十パーセント、未読メール三件。横になったまま、あたりの音に耳をすませてもう一度目をつぶる。目を閉じると真っ暗になるのは実はただ瞼の裏側を見ているだけ、というどこで誰から聞いた言葉かも覚えていないようなことをぼんやりと思い浮かべる。薄い布団。さらさらのシーツ。朝がくるまで、もう眠れそうにない。
体温が恋しい。
インターホンが鳴ったのはもう日が落ちた後だった。慌てて立ち上がって一言二言交わし、エントランスのロックを解除した。真っ暗のままになっていた部屋の電気をつけてカーテンを閉めた。窓の外、マンションやビルや街の明かりがきらきらと散らばっている。
一、二分経ったかというころ、もう一度インターホンが鳴った。今度はドアの横のもの。がちゃりとドアを開けると赤井が立っていた。やあ、と赤井がへたくそな笑顔で言った。こんばんは、と答えた降谷は、自分だって同じだけへたくそな笑顔だろうなと思った。赤井は軽く会釈してから部屋に入り、がちゃりと鍵を閉めてから靴を脱いだ。降谷の出しておいたスリッパを履き、彼はもう一度ぎこちなく笑った。どんな顔をすればいいかわからなくて、赤井はよく笑うようになった。笑顔のようなものは沈黙とぎことなさを埋めるのに一番効率がよかった。涙腺の蛇口を自分の意思で締めておくには笑顔が一番効率がよかった。それでも、似たような傷を抱えている相手の前ではどうしたってその防御壁は緩んで、綻びが隙間から顔を見せた。赤井がしゃがみ、降谷に背を向けて靴を丁寧にそろえる。その背中、中央、肩甲骨のあいだ、そこに降谷がぐりぐりと額をすりつける。赤井はなにも言わなかった。じんわりと生身のあたたかさが伝わってきて、降谷の涙腺の蛇口がすこし緩んだ。ふう、とゆっくり息を吐き出しながら体を離す。赤井も立ち上がり、言葉もなく、二人はリビングへの数歩を歩いた。手負いの母猫のように毛を逆立てる必要のなくなったいま、ふたりはひたすらに傷だらけだった。
カーテンの閉まった部屋、電気のついていないキッチン、一度も狂ったことのない置時計、とくに物のないカウンター、ノートパソコンと充電器、静かに点滅するランプ。そのなかで、隠れるようにひっそりと生活が息づいているような、そういう部屋で降谷は日々を送っている。
「お酒、飲みますか」
「降谷くんは?」
「どうしようかな……」
降谷は棚からグラスとカップの両方を取り出し、少し迷うそぶりを見せたあとにグラスのほうをしまった。
「今日はお茶にしときます。どっちでもいいですよ。赤井は? コーヒーとかでもいいし」
「じゃあ同じもので」
「いいのに」
「せっかくだからさ」
赤井がそう言うと、降谷は安心したようにほっと息を吐いた。棚の奥から来客用のマグを取りだしてコンロの隣に並べて置く。浄水器の取り付けられた蛇口から、やかんに水が注がれていく。水の音、ほとんどしない降谷の足音、赤井がゆっくりと息をする音、ぶうん、という冷蔵庫の動く音。それらがいま、静かな部屋のなかの音のすべてだった。
いつからだったか、こうして不定期ながらもそれなりに頻繁に連絡を取るようになった。どこかに行くときもあったが、そういう日はたいてい普通の顔をしていられる。二人してへたくそな笑顔を多用するのは、いつだってどちらかの家で会うときだった。降谷の部屋に赤井がくる日もあれば、赤井の部屋に降谷がくる日もあったし、押しかけたり呼びつけたり、頻度や場所はまちまちだった。ただしいて言えば、赤井が降谷を押しかける日のほうが少し多いかもしれない。理由は簡単で、降谷のほうから赤井を呼びつけたり押しかけたりすることがあまりないから。そんな降谷がどうしているのか、つい心配になって会いに行ってしまう。というのは本音に違いないのだけれど少なからず建前としても機能していて、赤井は余裕な顔をしながら降谷に会わずにはいられない自分の感情とその理由をやり過ごし続けている。
とうの昔に、平和な日常なんてものは息絶えてしまったのだ。
正しい意味で、これは馴れ合いであり、傷の舐め合いであった。元来そういった他人への甘えは必要としない類の人間である。自分の荒れ狂う内面を冷静な理性で制御することなど造作もないことだった。そのはずだった。当分はうまくいっていたのだ。なんの問題もなかった。しかしかなしいかな、オンとオフの切り替えが十分にできすぎてしまうことが災いした。少しずつ、完璧に噛み合っていたはずの歯車がずれて体が誤作動を起こし始めた。降谷は眠れなくなった。赤井は食べ物を受け付けなくなった。それらの誤作動は常時ではなかったものの、それらが存在することすらも許しはしなかった。だから表向きはずっとなんの問題もなく、それまでと変わらない生活を続けてきた。しわ寄せが自身に降りかかるのも、似たような状況どうし、完璧な生活を守るため互いをストレスの捌け口にすることを選択するのも自然なことだった。自分だけですべてを抱え込んでいるという状況が、よろしくないのだそうだ。
かたかたかた、とやかんの蓋が音を立てる。あ、と小さい声を漏らして降谷がコンロの火を止めた。
「アッサムとレディーグレー、どっちがいい?」
「レディーグレー」
「はーい」
銀色の缶のなかから二つ、ティーバッグを取り出した。降谷がレディーグレーを好きなことは知っていても、赤井はその缶のなかにあと何個ティーバッグがあるのかを知らないし、来客用のマグを赤井以外が使うことがあるのかも知らない。彼の生活を知らない。
湯気のたつマグが二つ、テーブルの上に置かれた。赤井の正面に降谷が腰をおろし、ふう、ふう、と息をふきかけてから口をつけた。あつい、と小さくつぶやく。猫舌のくせに。
「いただきます」
「はい」
舌が焼けるようだった。
ストレスの捌け口といっても、特段なにかをするわけではない。ぽつりぽつりと会話をして、調子がよければなにかを食べて、気が向けば映画を見たり、気が向かなかったらだらだらしたりして、アルコールを飲んでいれば泊まって、朝になれば帰る。電池が切れてずれてしまった電波時計がいつの間にか正しい時間を刻んでいるように、朝になればメンテナンスは終わる。そう、メンテナンスなのだ。あるいはカウンセリング。もしくはチューニング。捌け口ではあるけれど、なにかをしてもらうわけではない。ただ少し一緒に過ごすだけだ。良く言えば自立している、悪く言えば他人に頼ることを知らない。そうならざるをえない人生だったのだから仕様がない。
「ここのところどうですか」
「たいして変わらない。調子がよければ少しなら食べられるけれど」
「今日は……」
「大丈夫だ」
その大丈夫はどっちの大丈夫なんだろう、と降谷は思った。思いはするけれど聞こうとは微塵も思わない。立ち入りすぎるべきではない。もう一度息をふいてほんの少しの紅茶で唇を濡らす。熱い。
「今朝、電子レンジが壊れて」
「今日?」
「火花がすごくて。中を見たら穴が開いてた。もう使えない」
そう言ってから、降谷は電気の消えたキッチンのほうに顔を向けた。赤井もつられてそちらを向く。真っ白の家電、きれいに使われていてそこまで年代物でもなさそうなそれは、しかし今日殉職してしまった。なにを言えばいいかわからなかった。困ったな、しかたない、次はどんなのを買うんだ? 正解がわからなかった。わからなくて、ただ、飲みやすい温度になったレディーグレーに口をつけた。
机のうえ、置時計の秒針が規則正しく、しかし目盛りからは少しずれて時を刻んでいる。
今日の早朝、降谷からの連絡があった。どちらかといえば珍しいほうだった。二つ返事で行くと言った。きっと昨日も眠れなかったのだろう。
「今日、よければ泊めてもらえないかな」
「え、あの、仕事は」
「直接行けばいいから」
目を伏せて、ありがとうございますと静かに笑った。
事の始まりは、もう思い出せない。もともと睡眠は浅いほうだったが、幅を利かせ始めた忙しさと危機感によってだんだんと生活の隅に追いやられ、気づいたときにはもうろくに眠れない体になってしまっていた。といっても、医師の言葉は「あなたの不眠症は正常の範囲内です。気負いすぎずに。すぐによくなります」で、それだけだった。正常の範囲内とはよく言ったものだ。そんなの正常じゃないって言っているようなものじゃないか、と笑った。過酷な生活に慣れすぎた体は普通のなんでもない生活をうまく送ることができないらしい。別段よくも悪くもならないまま、誰にも悟られることなく二時間足らずのぶつ切れの睡眠で降谷は人生を食いつないでいる。平和な日常の代替品としては、おあつらえ向きである。
赤井が戻している瞬間に出くわしたのは偶然だった。降谷は例のごとく二時間睡眠のあとだった。ほとんど聞こえないくらいの小ささの、苦しげに息を吐き出す音を聞きながら、降谷は個室の外で立ち尽くしていた。器用で慣れている、そういう吐き方で、それが言いようもないほどにかなしかった。いつもと同じ顔で個室から出てきた赤井の仮面は、降谷の姿を認めた途端にぽろりとはがれ落ちた。まいったな、と一度も聞いたことのないような声で言った。
「……きみは耳もいいんだな」
忘れてくれ、支障はないんだ。そう言って足早にその場を去ろうとした赤井の腕をつかんだのは、ほとんど反射だった。
「降谷くん?」
怪訝な声が降谷の耳を刺す。医師の言葉が耳の奥でよみがえる。ご自分ひとりだけで、抱え込むのはよいことではありません。打ち明けられるような相手がいらっしゃれば、その方と話をするのもよいかと思います。
気がついたときにはもう、ひたすらに傷だらけだった。
「僕は、もうずっと二時間以上続けて眠れません」
赤井が目を見張る。おそらくもう何度も何度もものを戻してきた赤井も、自分と同じように、誰にも知られずにすむようにずたぼろの体を隠してきたのだろう。
「いまさら、どう眠っていいかわからなくなってるんだそうです。みんなが日常に戻っていくなか、ばかな僕の体は、おかしい日々のなかに取り残されてる」
赤井も。言いかけて急に、そこが不用意に立ち入っていい場所なのかどうか不安になって、降谷は口を閉ざした。降谷が表に出さないでいたように、赤井も人には知られまいとしてきたのではないか。そこにずかずかと踏み込む権利がどうしてあるというのだろう。つかんでいた右手をほどく。目を伏せれば、いつも通りきれいに磨かれている自分と赤井の靴がそこにあった。
「そうか」
囁くような声に、もう一度顔をあげた。赤井はへたくそな笑顔を浮かべていた。
「そうか、きみも同じか」
噛み締めるように呟き、しかし赤井はすぐさまふいと視線を逸らす。
「赤井……?」
「いや、わるい、見ないでくれると助かる」
大きな左手で口を覆い、顔を背ける赤井は、きっと必死に涙をこぼすまいとしているのだろう。そう思った途端、降谷の目と鼻の奥のほうが熱くなった。とうの昔に、平和な日常なんてものは息絶えてしまったのだ。戻れる場所はもうなかった。悟られぬように不具合を生活の隅に押し込めて、なんでもない振りをしてやり過ごしてきたけれど。なんでもなくなんてなかった。本当はずっと苦しかった。
痛みを共有しあえる相手がほしいと、思ってしまった。不毛だとしても。なにも生み出さないとしても。
「あの、あかい、ぼくたち取引しませんか」
「取引?」
もう一度、視線が交わった。
「似たような体の誤作動を抱えてる、いまさら隠すようなこともないし、昔のことも全部知ってる。あなたは僕をストレスの捌け口にすればいいし、僕もあなたを利用することで均衡を保てるのならありがたい」
指先がわずかに震えた。それを止めたくて、ぎゅっと力を込めて拳を握る。赤井は考えを巡らすように視線を伏せ、それから、ゆっくりと口を開いた。
「正常な生活を守るために?」
「そう」
わかった、と赤井はうなずき、左手を差し出した。
「さしずめ、ビジネスパートナーというところかな?」
「どちらかといえば共犯者では?」
「たしかに。違いない」
ぎこちない笑顔を返しながら、降谷は赤井の左手を握った。ふと、そういえば利き手どうしで握手することはできないのだなと思った。
トラックが走っていく音が聞こえる。目を開けると午前三時だった。背中側、キッチンのほうに動く気配を感じ、ソファで眠っていた赤井は体を起こした。あまり物音を立てないようにしながら立ち上がりそちらの様子をうかがうと、はだしの降谷が静かにお湯を沸かせていた。ずいぶん伸びた前髪が顔にかかっていて表情は見えない。降谷くん、そう声をかけようとしたその瞬間に、ぱっと顔をあげて降谷が振り返った。
「あれ、すみません起こしちゃいました?」
「いや」
「お茶を、飲もうと思って」
電子レンジが使えないから……、と呟いた声は今にも消えてしまいそうだった。赤井が隣に歩み寄っていくと、降谷はコンロのつまみを回し、炎の着いた強さを五段階の下から二番目にまで弱めた。
「温かいものを飲まないと」
降谷があまりしないような、その強迫観念めいたその言い方に引っ掛かりを覚えた。しかし赤井はなにかを尋ねたりすることはしない。赤井は降谷の内面に触れる言葉も、そこに立ち入ることができるほどの関係も持たない。ただ、静かに降谷が自分から言葉の続きを発するのを待つ。これまでもそうしてきたように。
「眠れないときは、ホットミルクにはちみつ、ココアにカルーア、甘くて温かいものを飲めば大丈夫だって、そう言われたのに、壊れたからチンできない」
降谷のほうから連絡を寄越してくる日は本当に珍しい。よほど切羽詰まったときだけだ。今日いいですか。だめだったら大丈夫だから。言葉少なにそう言った、今朝の声がよみがえる。大丈夫だってなにが大丈夫なんだろう、と思う。そんな迷子の子供みたいな声を出すくせに。
「もうすぐ沸くさ」
ふつふつと上る空気の泡を見つめながら、大丈夫だ、と降谷の背中をさする。うん、と小さくうなずいた。
馴れ合いだ。傷の舐め合い。ギブアンドテイクの関係。じわり、と降谷の目に涙が滲んだ。今朝電子レンジの穴を見つけたときから言いようもなくかなしいのに、なにがかなしいのかもよくわからなかった。
あの日、違う言葉とともに彼の手を握っていたら、違う未来があったのだろうか。
家族はいない。親友ももういない。公安に行くと決まったときに、昔の友人は自分のほうから付き合いを切ってしまった。隣のデスクのやつがなにをしているのかもよくわからない。いつまたどこにもいない人物にならなければいけないかもわからない。そうなったらもう誰とも連絡はとれない。ある日急に壊れた電子レンジのように、もし降谷がある日急に姿を消したら、そして人知れずに死んでしまったら、いったい誰が降谷のことを覚えていてくれるというのだろう。
ずず、と鼻をすすり、まばたきで涙を奥へと押し込んだ。ゆったりとした手つきで背中をさすりながら、泣いたっていいと優しい声で言う赤井は、なにもわかっていない。
「無神経」
ぽつりとこぼすと、赤井は苦笑しながらすまないなと謝った。そう言う自分が一番無神経であることを、降谷は知っている。
ソファで再び浅い眠りについた降谷の寝顔を見つめながら、赤井は深呼吸をした。はちみつをたっぷりと溶かした紅茶を少しでもはやく飲もうと息を吹いては口をつけ、吹きかけては口をつけていた降谷だったが、いまはゆっくりと深い呼吸を繰り返している。目元に浮いた涙がほろりと落ちて、筋になった。手を伸ばしかけて、その左手が止まる。
「こんなの、筋違いだって本当はわかってるんだ」
大事そうに両手でマグを持ち、目を伏せながらつぶやいた言葉が耳の奥によみがえった。
筋違い。そんなこと、赤井にだってわかっている。逆の立場のときには降谷は優しく赤井の背をさする。不規則にたわむ背中を。それは優しさではなく対価だ。めぐりめぐって自分のもとに帰ってくるからこそ、赤井は降谷に優しくするし降谷は赤井の前で取り繕わない姿を見せる。寄りかかっているわけでも、頼っているわけでもない。利用し合っているだけだ。同じだけの傷をさらし、同じだけの優しさを受け取る。でも、と赤井は思う。なにが違うというのだろう。事実関係だけを見たら、互いに相手の負った傷を慰め支えあっているのとたいして変わらないのに、自分たちの関係はそれらとなにが違うというのだろう。降谷が、赤井に涙を見せることはない。きっとそこが最後の防衛線なのだろう。彼は涙のかわりに、ぽつりぽつりと、不安を、かなしみを、激情を、言い表せない入り組んだ感情を簡潔な言葉にする。穏やかな寝息、窓の外の平和な生活音。赤井のなかで、彼の言葉が行き場をなくして反響している。
「あなたが憎い。あなたには感謝してる」
赤井の前でだけなにも取り繕わない姿を見せる降谷が、それでも赤井にその傷に触れさせはしないのは、彼がどこまでいっても個であるからだ。
「あなたにだけはそばにいてほしい。あなたにだけは一緒にはいてほしくない」
降谷のことを気にかけ、降谷にとっての自分も同じような存在であったらいいと思う赤井が、それでも自分の個人的な部分に降谷を立ち入らせず降谷の個人的な部分に立ち入ろうとはしないのは、そういう域をとうに越えていることを理解しているからだ。
「なにも知りたくない。すべてを知りたい。あかいの口から聞きたい。自分ですべてを暴きたい。全部話して。なにも言わないで」
誰もひとの心の傷には触れられない。親友の死。家族の死。恋人の死。これまで生きてきた自身の死。似たような傷を抱えてはいても、そこに同じものはただのひとつだって存在しない。とうの昔からわかっていた。だから赤井はビジネスパートナーと言い、降谷は共犯者と自嘲した。結局突き詰めてしまえば自分でどうにかするしかないのだ。だから、これは正しい意味で馴れ合いであり、傷の舐め合いであった。最初の瞬間から。
「全部捨てて楽になりたい。このままずっと生きていきたい」
「前に向かって進んでいきたい、風化していくのがこわい」
「忘れたい。忘れてほしい。忘れないでほしい」
「あなたにずたずたに傷つけられたい」
淡々と紡がれた矛盾だらけの言葉は、降谷が生きようと足掻いて流れる涙と血、そのものだ。
「もう、これ以上、あなたを傷つけたくない」
――もしかしたらあり得たかもしれない未来について、いつまでも考えている。ゆっくりと生のままの傷を癒して、傷跡を大切に抱えて二人で生きていくようなそんな未来を。なにかが違えば、そういう未来もあり得たのだろうか。いまからでも、遅くはないのだろうか。馴れ合い。傷の舐め合い。ギブアンドテイクの関係。それでも、そこには相手への最上級の敬意があると、赤井はそう信じている。だから眠っているときの涙を赤井は拭わない。降谷の内側を無遠慮に踏み荒らすことはしない。だからそんな未来もきっとこない。永遠に、こないのだ。
相槌以外を必要としない降谷に、一度だけ言ってみたことがある。
「俺になにか、してほしいことがあったら言ってほしい。不用意になにかをしてきみに嫌な思いはさせたくない」
降谷はめずらしく、作り物の笑顔でもぎこちない笑顔でもなく、素の笑顔でけらけらと笑った。
「赤井ってけっこう、いい人ですね」
飾り気のないすっきりとした笑顔を直視できなくて目を逸らした。
「そういうところ、好きですよ」
でも、それだけだ。泣きながら眠る降谷は赤井の名を呼ばない。
「ばかだなあ。きみも、俺も」
降谷の寝顔を見つめることをやめ、赤井はゆっくりと立ち上がった。いつか赤井はこの島国から去り、降谷の消息を知る者は誰もいなくなる。他人に寄りかかることを自分に許せないのなら、人間は一人で生きていくしかない。誰もひとの心の傷には触れられない。朝がくれば、また完璧な姿で二人はこの部屋を出ていくだろう。
※コメントは最大1000文字、10回まで送信できます