日の出が見当たらない

 コンコン、と窓をノックされる。視線を上げると助手席の窓を覗きこみ、安室が微笑んでいた。
「すみません。少し道を尋ねても?」
 どうぞ、と赤井が返すと彼はにっこりと笑い、するりと車に体を滑りこませる。きっちりと、しかし力を入れすぎることなくドアを閉め、慣れた手つきでシートベルトを締めた。そして外行きの声ではない声で言う。ひさしぶり、と。

 どこへ行きたい? 海が見たい。あと、行ったことのないところ。わかった。
 要点だけを伝えればひとまずの会話は終わる。いつもそうだ。ぬるま湯のような心地よい沈黙の合間をたゆたって、あとは適当なところでどちらかが口を開くこともあるし、どちらもなにも言わないまま、適当などこかで停めて唇を重ねることもある。ただ海老名サービスエリアでコーヒーを飲んでそれだけで帰ることも、箱根の山中でぼんやりと星を見続けることも、名前ももう覚えていないようなどこかのありふれたホテルに雪崩れ込むことも、車の中ですべてを済ますことも。
 二人が会うのはいつだって夜だった。
 見慣れた財務省と外務省の間を常識的な速度で通り抜け、あっという間に環状線に乗った。いつも自分の車の中から見ている景色と同じなのに、ハンドルを握っていないのは変な気分だ。何回赤井の右隣に座っても慣れない。どんな場所へも案内してくれるカーナビは沈黙を守っている。赤井が安室を乗せる夜、赤井はカーナビを使わない。以前安室が不機嫌になったからだ。もうずっと前、会話が持たなくて二人して黙りこくっていた頃、カーナビの音声だけが空気を読まずに話し続けるので安室がむっとした顔で画面の明かりを落としたのだ。
「ああもううるさい! おい赤井これどうやって電源切るんだ」
「電源は切れないから現在地ボタンを長押ししてくれ。画面が消える」
 左ハンドルなものだからわざわざ体をひねらないといけない。安室が右手を伸ばしてカーナビの中央のボタンを長く押すとぷつ、とわずかな音を立てて画面は真っ暗になった。さっきまではエンジン音と合成音声しかしなかった車の中、今では二人の声と動く物音が混ざって空気が柔らかくなったようだった。画面から人差し指を離し、なんとはなしに顔を上げると当然ながらすぐそこに赤井の横顔があった。明かりに照らされて、いつもより白く見える頬。ぱちりと瞬きをして、自分に向けられるグリーンの瞳。
 ああ、きれいだな、と思った。
「どうかしたか?」
「あ、いえ、なんでも」
「そうか」
 もうすぐ着く、と言いながら赤井は小さく笑った。
 あの夜はどこに行ったんだったか、なんて思い出すまでもなく、安室は赤井とどこかへ行ったときのことのほとんどを鮮明に覚えている。話した内容、発した言葉と言われた言葉、行った場所、温度、明るさ、声。職業柄というのも多分にある、あるけれどきっとそれだけじゃない。カーナビを黙らせたあの日は横浜まで飛ばして、車の中世間から隠れて深いキスをして、息が切れたあともそのまま外には出ずに二人でぼんやりと夜景を見て、そうしてなにもすることなく、夜半を過ぎた頃に帰路についた。安室が車を降りるのはいつだって車に乗り込んだのと同じ場所だった。じゃあ、また。そうやって笑って言ったあとにドアを閉めれば、いつだって何事もなかったかのように再び日常に戻っていけた。
 不定期に繰り返される真夜中のランデブー。ささやかな逃避行。曖昧で不明瞭な関係。セックスをするたび、違うからだで生きているのだという、至極当然の事実だけを目の前に突きつけられる。
 普段いる庁舎からは見えない東京タワーが近づいてくる。煌々と光るライトアップに目を向けようとすると自然と赤井のいる左側を見ることになる。どちらを見ているのか自分でもよくわからなかった。
「東京タワー、近すぎてよく見えませんね」
 ぽつりと呟いたら赤井の横顔がわずかにゆるんだのは、わかった。
 通り過ぎた都会のランドマークはすぐに見えなくなり、二人を運ぶマスタングは芝浦ジャンクションを超え、レインボーブリッジに差し掛かった。走り出してからおそらく十分も経っていないだろう。ぼんやりと焦点をずらしながら見る外の景色はオレンジと赤、白と黄色の中間の色であふれかえっている。ぼやぼやと輪郭を失った光がきらきら光りながら後ろへと流れていく。それなのに焦点をちゃんと合わせてしまえばなんてことはない、ビルの明かりと車のライトとただの街灯である。
 目的地は基本的に着いてみるまでわからない。どこに行きたい、と赤井が聞き、それに対して安室が注文をつける。海とか山とか星が見たいとか。それに対してわかったとだけ言って赤井は車を出す。その気になれば行き先くらいいくらでも見当がつくのだが、安室はそういう野暮なことはしたくなかったし行き先はどこでも構わなかった。最初はただ、なにも考えたくなかったというそれだけだったけれど、今はそれだけじゃない。赤井がいるなら、赤井が連れて行くところならどこでもよかった。だからどこに行くんですかともどこに向かっているんですかとも聞いたことはない。じゃあ本心を口に出したことはあるのかといえば、それも、ないけれど。
 正面にはきれいな夜景。右側、シートベルトに器用に頭を寄りかからせて窓の外を見つめれば、暗い夜の東京湾が広がっている。
 疲れてるんだろう。寝てていいぞ。いえ、起きてます。寝たくない。わかった。……眠くなったら寝ていいからな。あはは、念押しですか。大丈夫ですよ。
 眠くない、じゃなくて寝たくない、とは言えるのに、せっかくあなたといるんだから、というその言葉の続きを言うことはやっぱり今日もできない。
 感情というのは、とても厄介なもので。
 どうして、好きになんてなってしまったんだろう。

 今夜赤井と会ってから、まだほんの少ししか経ってないような気もするし、気づかないうちにもう随分と長い時間が経ってしまったような気もした。黙ったり、話したり、考え込んだり、この男といると時間の感覚が曖昧になる。基本的に安室の話す量と赤井の話す量は八対二程度だが、夜こうして会うときに限ればほぼ同量だ。赤井が話すようになるのではなく、安室が話さなくなる。本当は話したいことも聞きたいことも知りたいこともたくさんある。仕事のこと、これまでどうしていたのか、なんでこうして自分を助手席に乗せてどこかへ向かうのか。自分を抱く理由。優しい指先の裏側に込められた意味があるのかどうか。でもそれ以上に聞きたいのは、もっと、プライベートなこと。
 それを聞いてじゃあどうするんだ、これからどうなるんだ。そんなことを考えてしまって、だから聞けない。そうして黙る。言葉の代わりに体温がほしくなってしまう。本当はもっと話をするべきなのだ。今に限った話ではなく、きっともっと前からそうするべきだった。そうすればなにかしら違った形の未来があったのかもしれない。でもそういったことをすべてすっ飛ばしてしまった。あまつさえ、体だけ一丁前に重ねてしまって。
 もうずっと前から、赤井のことが好きだった。
 明確な始まりがあればまだよかった。明確な始まりなんてなかった。フェードインのようにいつの間にかすきだった。フェードインで始まったくせに、すきだという感情は一向にフェードアウトしていってはくれなかった。大きくなりも小さくなりもせず、降谷零のなかにふわふわと存在している。あるからといって困ることもない。なくなって困るということも、きっとない。じゃあなぜ? 自分でもよくわからなかった。
 始まりがなければ終わりもないらしく、付き合いたいとか結ばれたいとか同じ感情を向けてほしいとか、不思議とそういった類のことを思ったことは一度もなかった。となると世間一般の恋というものとはどこか違っているらしい。自分はどうしたいのかということを考えると、強いて言うなら、赤井にはずっと悟られずにいたいのかもしれない。曖昧でもなんでも、セックスだけする仲でも、赤井と自分の間になにがしかの関係があれば、それだけでいい。今日もぼんやりとした曖昧な感情を笑顔の下にひた隠しにして、降谷零は助手席に乗り込んだ。つまり現状維持がしたいのだ。
「安室くん」
 赤井の右手が、安室の左腕をつつく。呼ばれるままに赤井のほうを向く。羽田空港の駐車場の明かりがまぶしい。
「飛行機、見えますかね」
「どうだろうな」
 一瞬触れた右手はとっくにチェンジレバーの上に戻っている。当然だ。
「タイミングよく離陸していったりしないかなあ」
「展望デッキ行くか?」
「いや、いい。……また次のときで」
 そう言いはしたけれど、次が本当にあるのかどうかなんて二人ともわからない。そのくせ、わかったなんて言う赤井の横顔から目が離せない。そうして目が合えばなにもなかったかのように自然と目線を正面に戻す。左手の人差し指がトントンとハンドルを叩く。それが口寂しいときの赤井の癖だということに、気づいたのはいつだっただろうか。吸っていいですよと安室が前を向いたまま言うと、ちらりと赤井が右を見た。そっちじゃないんだがな。どこか困ったような、寂しげなような、そんな苦笑まじりの声だった。安室はそれには答えない。結局煙草を取り出すことはせず赤井は窓を開ける。少し迷ったのち安室が開けた助手席の窓から、ぬるい夜風が吹き込んで伸びた髪をかき混ぜていく。キスはしたい。好きだから。でも、キスよりも、まっすぐ顔を見てなんでもないような他愛のない話がしたいと思った。

 風に吹かれながらぼうっと外を眺めているうちにいつの間にか寝てしまっていたらしい。柔らかい声で名前を呼ばれ、控えめに体を揺すられて目を覚ます。首が痛くて眉をしかめると赤井が笑ったのが気配でわかった。
「降りるか?」
「ん……、ここ、どこですか」
「海ほたるだ」
「ああ……」
 ぎゅうっと一度強くつぶってからゆっくりと目を開ける。右手で首をおさえつつ隣を見る。シートベルトはとっくに外しているくせに、赤井はまだそこにいた。
「飲み物買ってこようか」
「いいです。僕も降りる」
 まだどこかぼんやりした口調で言うと、赤井の左手が流れるように安室の頬をかすめ髪をひと撫でしていった。それを頭がうまく処理できず、固まりながら赤井の顔を見続けてしまう。きっととんでもなく間抜けな顔をしているだろう。のぞきこんだら赤井の瞳に口を開けた自分が映っているのが見えそうだった。
「一服してくる」
「あ……、はい」
 コーヒー買っときますか、と聞いたら少し考えたあと、じゃあ頼むと言われた。シートベルトを外して外に出る。海のにおいがする。
 なんとなく同じ方向に向かいながら歩いていたのは途中までで、赤井は喫煙スペースのほうへと足を向け、安室はまぶしく光る自動販売機に向かっていった。内ポケットにしまったいた財布を開くと感動するほどに百円玉がない。常日頃から小銭を整理するようにしている習慣の賜物だな、と苦笑した。ふと視線を上げると建物の中にはミル挽きコーヒーの自動販売機があるのが見えた。せっかくだからあっちにしようとそちらのほうに向かう。
 赤井が戻ってきたのは自動販売機が二つ目のコーヒーをせっせと淹れているときだった。カップを右手に液晶を見つめている安室に歩み寄っていくと、足音に気づいてすぐに安室が振り返る。
「いま淹れてくれてますよ」
「中の様子が見えるのか」
「ええ、リアルタイム」
 相当熱いのか、カップの上のほうを指先で持っている安室の隣に立ち、赤井も液晶画面を見上げる。
「あなたのためドリップ中、だって」
「さっきまできみのためにドリップしてたくせにな」
「はは、確かに」
「そんな熱いのか?」
「え?」
 上のほう持っているから。そう赤井が言うと合点がいったようにああ、と頷いた。結構熱いですよ。
 軽快な音楽とともに出てきたカップは確かに相当熱くて、猫舌の安室くんが飲める温度になるには時間がかかるだろうなと赤井は思った。何も言わずに、二人して自動ドアのほうに足を向ける。海風が乱す前髪を頭を振って払う。その様子を横目で見ている赤井の表情が柔らかいことに、安室は気づかないふりをしている。
 適当なところにあったベンチに腰掛けると、海の遠く向こうに街明かりが見えた。工場の明かりが疲れた目に染みるようだった。それは隣の赤井も同じらしくて、遠い目をしながらとても飲める温度じゃないコーヒーを、なんでもないように少しずつ飲んでいた。隣から目を逸らして、蓋を外して立ち上る湯気にふうふうと息を吹きかける。そのとき、びゅうと一際強い風が吹いた。
「うわ」
 慌てて膝の上に乗せていた蓋を飛ばされないように掴む。ここのところ髪を切りに行くのを横着していたから相当伸びていたらしい。今の風のせいで髪が変になっているのが感覚でわかった。
「すごい風だったな」
 そう言いながら、さっき車を降りる前にそうしたように、赤井が空いている右手で安室の髪をすく。それだけで安室は固まってしまう。かすかに頭に触れる指先も、コーヒーを持つ右手も、俯いた頬もなにもかもが熱い。
「す、みません」
「そこはありがとうじゃないか」
「……ありがとうございます」
 顔を上げたときにはもう赤井は体を前に向けてしまっていて、でもその横顔はどこか満足そうだった。
 情なんて、とっくの昔に移っているはずだった。最初はなしくずしの体の関係だったとしても。ただ問題なのはその情の種類がいつの間にか赤井と安室とで食い違ってしまっていたことで、こういうとき、赤井の指先にほんの少しでも欲が乗っていれば安室はなにがしかの進展を期待できたのに、そこにあるのは純粋ないつくしみだけなものだからいけない。結局、人としてすきなのか恋愛対象として好きなのか、自分でもその答えを曖昧にしておかざるをえないのだ。答えを出したら、変わらないといけなくなってしまうから。

 二人でゆるゆると歩いて車に戻ったあと、まだかかるから寝ていていい、と赤井が言うから、安室は大人しくまた目をつぶった。振動が気持ちよくてすぐに眠気はやってくる。ほどなくしてすうすうと寝息を立て始めた安室を起こさないように、赤井は丁寧に車を走らせた。
 アクアラインを渡りきり、海沿いを離れて館山自動車道を抜け、ホテルに着いたのは十一時半より少し前だった。先ほどと同じような優しい手つきで起こされて体をよじり、意識が浮上してきたところでぱちぱちと瞬きをしてから車を降りる。蛙の声がすごくて少し笑ってしまった。
「ホテル……いつとってくれたんですか」
「さっきの海ほたるでな」
「いつもみたいに車中泊でもよかったのに……」
「そう言うな」
 赤井のあとに続いて中に入る。どうやらコンドミニアムタイプのホテルらしい。こんな遅い時間に入れるところ、よくとれたなと思いつつ、赤井の後ろ、少し離れたところでチェックインを済ませるのを待つ。置かれているパンフレットに手を伸ばして眺めていると、無理を言ってすみません、と謝る赤井に従業員の女性がいいえお気になさらないでくださいと顔を綻ばせながら応えるのが聞こえた。手元のパンフレットに目を落とせば、「チェックイン 十時~二十三時 ご到着が遅れる場合には必ずご連絡ください」との文字。やっぱり本当はもっと前に着かないといけなかったんじゃないか、と思った。
 赤井が鍵を受け取ったのを見てエレベーターのほうへと歩き出す。こんな時間で他に使う人もいないのだろう、エレベーターはすぐにやってきて、赤井は十階のボタンを押した。
「よく怒られませんでしたね」
 さっき自分がパンフレットを見ていたことは当然わかっているからと思い、ただそれだけ言う。当然赤井もチェックインの時間のことだとわかって、優しいところで助かった、と悪いと思ってるんだか思ってないんだかよくわからないような口調で言った。
「飛ばせば間に合っただろうに」
「そうしたらきみが起きるだろう」
「……そんなことで?」
「そんな風に言われるのは心外だな」
 ピン、と間抜けな音がしてエレベーターが止まる。なんで、と問い質したい。けれどそうしたら自分のほうこそ余計なことを言ってしまいそうな気がして、それ以上なにも言わないし聞かないのをエレベーターが着いたせいにした。
 着いた部屋はオーシャンビューの和室だった。窓の外には明かりのない、暗い海が広がっている。
「風呂、先に入るか」
「あ、じゃあ、はい」
 スーツをハンガーにかけて緩めてあったネクタイをほどき、庁舎でシャワーを浴びるときのために鞄に詰められている下着を出して備え付けられていた浴衣を持つ。バスルームに引っ込む前に、あなたは、と聞くときみが寝たあとにでも入るさと返されてしまった。
 もともとそんな気はしていたけれど、今夜はこのまま眠るだろう。それがここにくるまでの間も寝てしまう自分に対する赤井の優しさだということはわかっている。わかっているだけに喉の下のあたりが塞がったように苦しかった。最後に体を重ねたのはいつだっただろう。もう随分前だったように思う。なにがいけなかったのだろうか。名前をねだったのがいけなかったのだろうか。赤井の頭を抱え込むようにしがみついて、低い声で呼ばれた本当の名前にぽとりと涙を落としたのを、やはり赤井は気づいていたのだろうか。赤井はとっくにわかっているのだろう。あんなに敏い男が自分の気持ちひとつ気づかないはずがなかったのだ。自分が赤井を好きなことくらい本当はとっくにわかっていて、だから抱こうとしない。ずっと悟られずにいたいなんて、そんなことができるはずがなかった。でも、と思う。でも気づいていながら今まで通りに振る舞う赤井も赤井だ。だったら、さっさと言葉で口に出して終わりにすればいいし、やたらに優しくなんかしなければいいのに。
 シャワーを終えて出ると、すでに布団が二枚敷かれていた。驚いてベランダで煙草を吸っている赤井の背中を見つめる。ガラスの向こうに立つ赤井は肩越しに振り返り、口だけ動かしておやすみと言った。
 泣きそうだった。

 波の音がする。目を覚まして最初にそう思った。
 隣で眠る赤井を起こさないようにそろりと布団から抜け出し、ゆっくりとベランダに出る。外は真っ暗で、その向こうから波の音が響いている。おそらく三時過ぎというところだろうか。四時近かったらもっと明るいだろうなとそう見当をつける。時計なりスマートフォンなりで時間を確認してもよかったが、なんとなくそういう現実味のあるものを見たくはなかった。赤井と自分、世界に二人しかいないような、そんなあまやかな空気をまだ味わっていたかった。
「安室くん」
 名前を呼ばれて振り返ると、赤井が窓を開けたところだった。
「あ……おはようございます」
「まだ夜中だがな」
「起こさないように布団から抜け出してきたのに」
「なに、お互い長くは眠れないほうだろう」
「そっか。それもそうですね」
 並んでぼんやりと海を見つめる。波が寄せては引いていく。浴衣一枚では寒くて、わずかに体が震える。少し迷ったような素振りを見せながらも赤井は安室の左手を引き、されるがまま安室はすっぽりと腕のなかに収まった。回した腕でぎゅうと体を引き寄せる。久しぶりに触れた体温は熱いのに、暖まった先から海風で冷えていってしまう。潮のにおいがつんと鼻をつく。これだけ近いと波の音ってけっこうな音量なんだな、とどうでもいいようなことが思い浮かんだ。
「海、」
「ん?」
「近くまで行きますか?」
「……寝なくていいのか?」
「たぶんもう眠れないし。あなたもそうでしょう」
 抱き合ったままで言うとそれもそうだなと赤井が頷いた。すぐそこに赤井がいるのに全く何もないままがんばって眠ろうとするより、歩いて波打ち際まで行くほうがいいような気がした。するりと体を離す。赤井もそれを引き止めはしなかった。
 こんな時間だとけっこう涼しいですね。そうだな。楽な着替えあればよかった。同感だよ。
 ゆったりと響く波の音を聞きながらのんびりと着替えて部屋の外に出て、エレベーターで一階まで降り、フロントに置かれている近辺の地図を二人で見上げた。このあたりの道は網目状になっているらしく、適当に歩いても海岸に出られそうだった。
 真っ暗な道を歩く。特に会話もなく。うねった道を進み、曲がり角に差し掛かるたび斜め左に折れる。適当に歩いているのにだんだんと波の音は近くなる。三、四回十字路を越えると正面からザァッという音が聞こえるようになった。ゆるやかな坂をのぼって開けた先は、窓の外から見ていた海だった。空を見上げたらわずかに明るくなっていて、グラデーションのなか星がちらほらと光っている。
 コンクリートの下り坂は砂浜まで続いていて、そのまま下りられるようになっているらしかった。そちらに足を踏み出そうとした瞬間、コンクリートが穴になっているところにつまずきぐらりと安室の体が傾いた。
「うわっ、」
「大丈夫か」
「ありがとうございます……全然見てなかった」
 とっさに支えてくれた赤井に素直に礼を言う。そのまま身を引くかと思いきや、赤井は立ち止まって動こうとしない。
「赤井?」
 安室を見つめる瞳が揺れている。なにか言いたげにしているのがわかったから彼が口を開くのを待ったけれど、結局何も言わないまま赤井はすっと体を離してしまった。
「いや、なんでもない」
 なんにもなかったらそんな顔しないだろう、ちゃんと言えよ。そう思うのに口に出せない。赤井を好きだと思うようになってから、まるで自分が自分でないようだ。言いたいことも言えない。聞きたいことも聞けない。自分らしくない。臆病で、優柔不断。自分でも好きじゃないような自分を、赤井が好きになるわけない。
「……せっかくだし降りませんか」
 ごまかすように目を伏せて、今度は転んだりつまずいたりしないように足元をよく見つつ、砂浜に降りた。心もとない足元なんてまったく気にせずに波のすぐ近くまでまっすぐ歩いていく。濡れて固くなった足元を見下ろしたあと、振り返ると赤井も安室のもとに向かって歩いてくるところだった。
 すぐ後ろから聞こえる波音。波打ち際ギリギリに立っていたはずだったのにいまや波は遠くなっていて、でもまたすぐに安室が立っている場所も波に飲まれてしまうだろう。わずかに明かりの見る左奥とは反対に右方向は真っ暗だったからか、赤井がそちらに向かって歩きだした。安室もそのあとをついていく。
「砂遊びとかしたことありますか」
「妹に付き合わされたことなら。なかなか難しいな、あれは」
 後ろを歩いているわけだから当然、顔は見えないけれど、昔を懐かしむような優しい表情をしているのだろうなということは声の調子からわかった。わかってしまった。急にまた胸の奥がつかえるように苦しくなる。大きく育ってしまった気持ちに押し出されるように、涙がひとつ、ぽとりと落ちる。
「随分年離れてるんでしたっけ」
「保護者に間違われたこともある」
「あはは、お父さんとか言われるんですか」
「そんな笑うな、幼心になかなか堪えるんだぞ」
「弟さんもいるんですよね」
「ああ」
 はじめて赤井の口から聞く赤井の家族の話。この人はこうやって育ってきたんだなと思う。こうやって育ってきて、そうして今の赤井秀一になってきたのだと。
 それを思ったらもうだめだった。大きくなりも小さくなりもせずふわふわ存在しているだけだったはずの感情が、どんどん大きくなって、安室の首をしめる。泣いていることを気づかれないように言葉を返し、相槌を打ち、背中を見つめる。気づかなくていい、顔が見えなくてもいい、赤井の話をもっと聞いていたい。
 ずっと前から、赤井のことが好きだ。好きだった。明確な理由も、きっかけもないけれどいつの間にか好きになってしまった。報われることなんてないとわかっていたから、別に赤井がどう思おうとどうだってよかった。赤井を好きになってしまったことを赤井がずっと知らなくても、振り向いてくれなくても、終わりがなくても、曖昧でもなんでも、ただ、何かしらの繋がりさえあればーー
 そんなの、嘘だ。
「あかい」
 振り返った赤井の、グリーンの瞳が見開かれる。現状維持がしたい、なんて嘘だ。体だけの関係でもいいなんて嘘だ。伝えるつもりなんてない、そんなの物分かりのいい言い訳だ。本当はずっと言いたかった。本当は心だって、過去だって今だってその先だってほしかった。唇が震えて、涙腺がばかになったみたいに涙が出てくる。頬を伝って顎から落ちて、濡れた砂に吸い込まれていく。
「好きです」
 いつの間にこんなになってしまったんだろう。いつの間に、一人で抱えきれないほど好きになってしまったんだろう。
「好き、好きなんです」
「あ……」
 一度開きかけた口を閉じ、赤井の唇が別の言葉を形作る。あの夜のように。
「……零くん」
 好き。赤井が、すき。すき。
「あなたが好きです。好きで、すきでたまらなくて、苦しい。すき、なんです」
 しょっぱい涙と震える声で苦しい気持ちを吐き出し続ける降谷を、赤井は揺れる瞳で、しかし逸らすことなく見つめ続けている。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。知り合う場所が違えば、ここまで歩んできた人生が違えば、どこか足りない心の隙間を埋めようとして縺れあったりなんかしなければ、こうはならなかったのだろうか。好きにはならなかったのだろうか。あるいは、赤井も自分を好きになってくれたのだろうか。
 でも、そんなことを考えたって無駄なのだ。ここまでこうして生きてきたから、赤井のことを好きになった。それを降谷は誇りに思っている。否定など絶対にしない。相手に対して抱いた情の種類が食い違ってしまっていたことくらいとっくの昔にわかっていた。いつしか降谷が赤井を好きになっていたように、赤井の降谷に対する感情もいつしか変化していった。それが、降谷のものとは違っていた。たった、それだけのことだった。
「すきです」
「うん」
「いつからかわからないけど、ずっとすきだった」
「うん」
「すき」
「……うん」
 溢れる涙を拭うこともせずに積もり積もったものを吐き出し続ける降谷。涙を拭ってやることも抱き寄せることもせず、けれど一瞬たりとも目を逸らさずに、降谷の言葉を受け止め続ける赤井。
 空が白んでいる。夜明けが近い。
「零くん」
「……はい」
「すまない」
 わかってた、と思った。赤井ならそう言うだろうことくらい。感情というのはとても厄介なもので、きっと、そんな赤井だからこそすきになったのだろう。指で涙を拭う。赤井の顔がちゃんと、ぼやけずに見えるように。
「でも、ありがとう」
 そう言ったときの彼の表情に、降谷は自分の恋が報われ、そしてその瞬間に終わったことを知った。ずっと好きだった。過去には因縁も確執もすれ違いもあって、フェードインで始まって、彼自身のことを知ったり好きだと思うより先に体を知る、なんて。笑ってしまうくらい世間一般の恋とはどこか違っていたけれど、確かに恋だった。

 久しぶりにたくさん泣いたから疲れました、と降谷が言ったので、二人は砂浜から道路のほうに引き上げ、どこか腰かけられるところを探して少し歩いた。歩いた先にはまた砂浜に降りる坂があり、そこに銀の柵とむき出しのコンクリートの謎の直方体が二つ見えたので、赤井は海を正面にその直方体に腰かけた。ごつごつしてはいるが高さはちょうどよく、そこそこ大きいので安定感もあって座るにはちょうどよい。隣にあるもうひとつの直方体に座るかと思いきや、降谷は赤井の背中側に回り、余った部分にぐいっと腰を下ろした。
「もうちょっと浅く座ってください、座れない」
「あ、ああ」
「このコンクリ、なんなんですかね。柵?」
「車が浜に降りられないようにするためじゃないか」
「あー、なるほど」
 他愛もない会話をしつつ、降谷が体重を赤井の背中にかけてくる。背中合わせの降谷にほとんど全力で寄りかかられて、触れあった背中が暖かい。
 もう空には夜の余韻はほとんどなく、だいぶ明るい。もう少しで日も昇るだろう。
「日の出、見えますかね」
 いつものトーンの降谷の声が背中から聞こえる。先ほど隣を歩いているときの横顔はどう見ても泣きはらしたあとだったのだが、どこかすっきりとしていて晴れやかだった。そうだな、と頷き赤井は水平線の奥を見つめる。そこではたと地図が思い浮かび、違う、と言った。
「違う……ってなにが?」
「内房だから海は西側だ。気づかなかった」
「えっ?」
 驚いた声に肩越しに振り返れば、降谷が目を丸くしていた。
「日の出、あっちからだってわかってなかったんですか?」
 降谷の正面、なだらかな丘とその奥に見える建物のほうを指差す。方角のことなんて考えていなかった、と赤井が素直にもう一度言うと降谷はぶふっと吹き出し、けらけらと笑い始めた。
「自分でここまで運転してきたのに……考えるまでもなくすぐわかることじゃありません? 頭動いてなさすぎですよ」
 なぜそこまで……と思わなくもないが、降谷の言うとおりなので返す言葉もない。降谷はまだ肩を揺すって笑い続けていていて、しょうがないなあと言いながら少し横にずれた。察して赤井も座る位置をずらす。背中合わせのまま、赤井は左手に、降谷は右手に東を望んでいる。
「これたぶん日の出見えませんね」
「もうだいぶ明るいしな」
「はー、ほんと二人してなにやってんだか」
「……きみが言うか」
「連れてきたのはあなたでしょ」
 ラリーのようにさっぱりと言葉を返す姿を、久しぶりに見たなと思った。二人でいるときはあまり話したりしなかったし、何かを言いたそうにしていながら言わないことも多かったように思っていたから。
「よくしゃべるほうがきみらしいな」
「はあ?」
 ムッとしたのが一瞬で伝わってくる。感情と表情がくるくる変わる降谷を近くで見るのなんて、本当にいつぶりだろう。彼らしい彼の姿を、と思いつつ、赤井は降谷の言葉の続きを待つ。
「あなたねえ、さっき一世一代の告白をしてきた相手をばかにしてるんですか? 本当に失礼なやつだな! 言いたいことがあっても言えなかったり聞きたいことがあっても聞けなかったり、自分らしさを見失ったりとか、片思いってそういうものですよ」
 おかげで今久しぶりにすごく自由です、と伸びをしつつ降谷は笑った。丘の稜線の隙間から、もうとっくに昇っていた太陽の端がのぞく。
「あ、見えた」
 すっくと立ち上がり、赤井の前に立つ降谷の髪が日の光を受けてきらきらと光る。どう見たって泣きはらしたあとの顔だし目の端は赤いのに、どこまでも晴れやかに、降谷はにっこりと笑った。
「スターリング捜査官を振って僕を振って、あなた、本当に人を見る目ありませんね」
 でもまあ、見る目ないのは僕も同じか。さ、帰りましょう。おなかすきました。近くにお寿司屋さんありましたね、あそこでごはん食べて帰りましょう。
 完璧に吹っ切れてこのあとの予定を話す降谷がまぶしい。いとおしくて、家族、あるいは自分の一部であるかのように大切で。いつしか大きく育った感情は、赤井にとっては恋ではなかったけれど。すでにホテルへの帰りに向かって歩き始めた降谷の背中を見つめながら、少しだけ惜しいことをしたかなと思った。
「……振られたのは俺のほうかな」
 立ち上がりそう呟いた声が聞こえたのか、降谷は振り返り、いたずらが成功した子供のように嬉しそうに笑う。
「もう遅いからな! 寿司、赤井がおごってくださいね!」

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