冷たい夜風にすこし身を縮める。しばらくぶらぶらと歩いていたいような気持ちで、わざと遠回りして駅に向かいもうすぐ十数分経つ。低いところに見えるオリオン座、もう冬がすぐそこまで来ているらしい。
ポケットの中で携帯電話が震えた。着信。桃井さん、から。
「もしもし」
『テツくん!こんばんは』
どうかしたんですかと聞くと、どうなったか気になっちゃって、と桃井さんは笑った。
『テツくんのことだから、大ちゃんに聞いたんでしょう?』
「ああ、はい。青峰くんにも同じこと話してたんですね」
『あはは、バレちゃった』
「青峰くんはわかりやすいですからね」
僕が返すと桃井さんは確かにね、とくすくす笑った。彼女の持つ受話器の外側からぱらりと紙がめくれる音がする。
『今ね、昔の日記読み直してたの。高校の頃のやつ』
なるほど、と声には出さずに頷いた。今のはその音か。けれどそれにしては大きすぎるような気がする。彼女はわざとらしく音をたててページをめくるようなひとだっただろうか。
「青峰くんも言ってました」
『昨日は中学の頃の読んでたの。……私たちみんな、こどもだったね』
「そう、ですね、本当に」
得たものを、繋ぎ止めておきたかったものを、求めていたものを、失ったものを、はっきりと意識する術を知らずにいた。両手の間をすり抜けて零れたものを嘆くくらいしか、そこから逃げ出すしか、あの頃の自分にはできなかった。こどもだった、確かに。それでもこどもの自分には精一杯だった。今なら苦笑いしながら振り返ることができる。幼い、世間知らずの自分。
「しょっぱいです」
『テツくんはいいほうだよ、大ちゃんと赤司くんなんて黒歴史大量生産しちゃったんだから』
「それもそうだ」
くつくつ笑っていると、桃井さんもつられて噴き出す。それからくだらない昔話で少し盛り上がった。懐かしさが落ち着いたのち、日記ってすごいねと彼女が言った。書いたときのこととか、今さっきのことみたいに思い出せるの。
『卒業式の前の日のこと、覚えてる?』
懐かしむような声のトーン。どちらの卒業式かなんて、言われなくてもわかった。
「忘れるはずありませんよ」
その日は一日だけ随分と寒くて、まるで冬が戻ってきたみたいだった。誠凛と桐皇はたまたま卒業式が同じ日で、両方ともその前日は休みだった。桃井さんは春仕度ですっかりしまっていたのを慌てて出してきたみたいな冬物のコートを着て、待ち合わせ場所の公園に立っていた。明らかにいつもと違う緊張した面持ち。不安と期待が半分ずつ綯い混ぜになった眼差し。テツくん、そう名前を呼んだ声は震えていたけど、深く深呼吸した後に彼女が紡いだ声と言葉にはしっかりと芯があった。
好きなの。わたし、ほんとうに、テツくんのことが好きなの。
なんとなくわかっていた。昨晩メールで明日ってなにか予定あるのと訊かれたときから。いや、そのとき初めて思い至ったなんてものではなくて、きっと、心の奥底ではずっとこの瞬間が来ないように来ないようにと先伸ばししていたのかもしれなかった。
ありがとうございます、でも、ごめんなさい。
そう答えた。彼女を傷付けたくなくて、でもはぐらかさず、相手を傷付けず、それでいて誤魔化さない、そんな言葉を知らなかった。ベッドのなかでぐるぐるぐるぐる、延々と考えながら、それでもやはりこの言葉以外には見つけられなかった。
彼女は数秒間俯いて、それから、理由を訊いてもいい、とか細い声で言った。なんて言ったのか、正確には覚えていない。桃井さんの気持ちを否定するわけではないんです。でも、本当に桃井さんが好きなのは僕ではないんじゃないですか。多分そんなようなことを言った。酷い話だと思う。間違っても自分を好いてくれた女の子に言う言葉じゃない。でも、桃井さんに本当に必要なのは僕じゃなくて青峰くんだと、心の底からそう思っていたからこその選択だった。いや、それだけじゃない、あのころ、そして今でも、僕の心の片隅には必ず青峰くんがいて、もし僕と桃井さんが付き合って、それでいつか別れたとしたら、この釣り合った三角形はきっと転覆してしまうのだろうと。それが怖かったからだ。僕にとっては桃井さんも青峰くんも、ふたりとも同じくらい大切だった。安っぽい三角関係に落とし込みたくはなかった。
桃井さんはしばらく黙って、ぽつりとそんな気がしてたと呟いた。
ねえ、それじゃあ、ひとつだけわがまま聞いてくれない?
これからも今までみたいに私と話して。気まずいからって避けたりしないで。私、テツくんのことは好きだけど、それより前にテツくんも幼馴染みみたいに思ってるの。だから、お願い。
淡々と言葉を連ねる彼女に、僕は頷くことしかできなかった。別れ際、彼女がぶるっと震えた。そこまで寒く感じたわけではなかったのになんとなく首に巻いてきたマフラーを外す。気付いた彼女がそれを押し止める。
「テツくん、もういっこわがまま言ってもいい?」
「なんですか」
「名前で言って」
思わず彼女の目を見た。薄い膜の張った、きれいな瞳だった。
「さつきさん」
「うん」
「寒いですから、これ、持っていってください」
もう一度、マフラーを差し出す。強めの風が吹いた。ブランコの少し錆びた金具が擦れる音がした。
「大丈夫だよ、おかまいなく」
風がさらった長い髪を、左手で押さえてにっこり笑う。はっとするほどきれいなその笑顔を見て、僕は一瞬だけ、五分前にごめんなさいと言ったことを死ぬほど後悔した。
『あの日の日記ね、ページがかぴかぴなの』
「かぴかぴ…?」
よっぽど不思議そうな声を出したのだろう、桃井さんはぷっと笑った。
『3月9日、ついにきっぱりとテツくんにフラれてしまいました。この一文書くのに一時間かかったんだよ。どうしても泣いちゃって。ばかみたいにぼろぼろぼろぼろ涙出てきて全然止まんなくて、それでティッシュ取ろうと思ったら机の上の紅茶引っくり返しちゃってさ。慌ててコップ戻して洗面所にタオル取りに階段駆け下りて、すぐ戻って机と日記帳拭いて急いで一ページずつドライヤーで乾かして。間抜けでしょ、失恋した夜に泣きながら日記にドライヤーかけてるの。冷静に自分の姿考えたら、涙なんか引っ込んじゃった』
そう言って笑う桃井さんが、このことを振り返ってそんなこともあったねと笑えるようになるまでにどれくらいかかったのだろうか。今更ながらやっぱり自分は相当罪深いことをしたのではないかと気が咎める。そしてそんな僕の考えを見透かしたように、謝ったりなんかしないでねと電話の向こうから声がした。
『あのときも、テツくんがああ言うってなんとなくわかってたし。それでも私が言いたかったんだから……けじめみたいなものかな。それにね、感謝してるの』
「感謝……ですか?」
『うん。気まずかっただろうけど、あのあとも普通にしててくれて本当に嬉しかった。告白したあとも今まで通り、なんて虫が良すぎたかなってあとで思ったけどね』
でも本心だったから、と小さく呟いたのが聞こえた。虫が良すぎるなんて思わない。他の誰かだったらそうではないのだろうけど、このひとは例外だと胸を張れる。
「僕の方こそ」
『え?』
「かなり酷い言い方だったと思うんですけど、それからも桃井さんが変わらず声をかけてくれたの嬉しかったです。幼馴染みみたいって言ってくれたことも」
こんなこと言っても今更ですか、といたずらに訊いてみる。ざーんねん、もう時効だよと返す桃井さんは今も昔も本当にかわいいひとだ。
「なんか、ちょっと恥ずかしいですね」
改まった会話は確かに、言葉にしなければ伝わらないことがあるとは言ってもかなりこそばゆい。長電話の予感に少し前に入った公園で、ベンチにもたれかかって夜空を見た。
『焼けぼっくいに火がついちゃう?』
「え……それはさすがにまずいんじゃないですか」
『冗談だよ、それに相手がテツくんだったら許してくれそうだし。むしろさつきばっかりずるいとかって言うかもよ?』
「ちょっと想像ついちゃったんで止めてください……」
いつも、影の薄い自分を探し出してくれたふたり。思い出されるのは中学時代の帰り道、高校時代の休日だ。僕の食べかけのアイスを強奪する青峰くんと、ずるい!と悔しがる桃井さん。自分のことを気に掛けてくれるのは嬉しい、けれど正直その理由は今になってもよくわからなかった。
「まあ冗談はさておき、結婚するんですから他人にそんなこと言っちゃだめですよ」
『……』
「桃井さん?」
それまでの饒舌とはうって変わって、急に黙りこむ。なにかおかしなことを言っただろうか。桃井さんは言葉を探しているらしい。微かに聞こえる息づかいにじっと耳を澄ませて続く言葉を待つ。
『テツくんにとってはさ、やっぱり私は他人なの……?』
長く感じる十数秒後、躊躇いがちに桃井さんが発した思いもよらない言葉。頭がついていかなくて、どういう意味ですかと返すのが精一杯だった。
『あのね、変なこと言うと思うかもしれないけど、もう私にとってはテツくんは身内みたいなものなの。好きとか嫌いとか、もうとっくに越えちゃってるの。多分大ちゃんもおんなじ。さっきは気になったから電話したって言ったけどね、本当は大ちゃんからメールきたからだよ』
考えが追い付かない。なんだか足元がふわふわしていて、するすると頭に入ってきた言葉がそのままどこかに消えそうになっていく、のを必死に引き留めているような。メール。メール? メールって誰が。青峰くんが?
「あの、なんて」
『もう来ないかもって。テツくんなんて言ったの?』
何拍かおいて、帰り際の一言を思い出す。まあ、またいつでも来いよと少し照れ臭そうに言った青峰くんに向かって、靴を履きながら言ったこと。それじゃあまたそのうち。確かに自分はもう行かないつもりだったけど、感付いていたのだろうか。繊細なくせに鈍感だと思っていたけれど意外と彼はそうでもなかったらしい。
「いやあの、だって新婚さんのところに男友達が頻繁に遊びに行っちゃだめじゃないですか」
しどろもどろになってどことなく言い訳めいた。だってそうでしょう。本当は一番、自分で自分を説得している。
『テツくん』
桃井さんははあっと溜め息を吐く。
『他の人だったらわかんないよ、でも大ちゃんが、テツくんがくること気にすると思う?』
「あの、桃井さんと青峰くんがどうこうじゃなくて」
僕はなんで、こんなに必死になって行かない、行けない理由を探しているんだろう。もうあんまり会えないだろうなと、その寂しさはちっぽけなもので、だって嬉しさに比べたら本当に些細なもので。みんなそうやって、だんだん友人から離れていくんじゃないのか。友達より、大切な人たちが増えていくんじゃないのか。自分のことを気に掛けてくれるのは嬉しい、けれどやっぱり、その理由はよくわからない。今も。なんで、考え直せと説得されているんだろう。なにか間違っているだろうか。なんなんだこの展開。
『意地っ張り』
「えっ?」
『だから身内みたいなものって言ったのに!』
もし面と向かっていたとしたら、ぷうっと膨れたのが見てとれただろう。ほんと頑固なところは昔っから変わらないねとぼやく。僕ははあ、と返すしかない。曰く意地っ張りな僕はこのままでは考えを変えないとわかったらしく、桃井さんは方向性を転換することに決めたようだった。
『ネタバレしてもいい?』
「え? あ、はい」
突然の質問に疑問符を飛ばしながら頷く。ネタバレって何のことだろうか。結婚指輪を買いに行ったときにね。そう切り出した口調はとても柔らかかった。
『二人でいろいろ見に行ったの。ほら、どれもきれいだから目移りしちゃって……でも、駅近くのデパートで「ひかり」っていう名前の見つけたとき、これにしようって、一瞬だった』
「……ぴったりじゃないですか」
憧れた、追いつきたかった、自分一人ではとても敵わなくて、それでも諦めきれなかったひと。その名のとおり、僕にとっては大きな光。
『ほんとにね。でも、だからじゃないの。披露宴のときまで内緒にしておこうと思ってたんだけど、ダイヤモンドカットで光があたるときらきらするところと影になるところがあって、商品説明読んだ大ちゃんが、テツみたいだ、って』
並んで指輪を見るふたりの後ろ姿を思い浮かべた。風が揺らした木々のざわめきが遠く聞こえる。なんて、書いてあったんですか。声が震える。
『影はいつも、あなたの人生の側にある、って』
――こんなに、たいせつに思っているのなんて、自分だけだと思っていた。
真夏の日射しのような青峰くんと、春の日だまりのような桃井さん。ふたりとも僕には眩しい。同じ言葉に込めた思いの量は僕のほうばっかり多いと思っていた。だって同じなはずがない。僕なんかにはもったいないと、そう思って。
寂しくないと言えば、そんなのもちろんうそだ。一番仲の良かったひとの結婚、その相手もやっぱり自分の大事なひとだったらなおさら、寂しくないはずがない。嬉しいのは本当。けれどそれと同じだけ、抱える気持ちのもう半分は寂しさ。気づかないうちに自分で自分の気持ちを圧し殺して、いや、そんな浅ましさを見たくなくて気づかないふりをしていたのかもしれない。
でも、もし。
僕と青峰くんと桃井さんの間の感情の天秤が、今までも本当は釣り合っていたのだとしたら。これからも釣り合っていくのだとしたら。僕は、僕も同じようにたいせつに思われているのだと、思っても、いいんですか?
『テツくん、だから、他人だなんて悲しいこと言わないで。またみんなでごはん食べたりしようよ。むっくんのつくったケーキ食べながら赤司くんのタイトル戦見たり、ミドリンの手術成功のお祝いしたり、きーちゃんが出てるドラマ見たりしようよ。もうこないなんて言わないで。私たち、家族みたいなものなんでしょう?』
言葉が見つからない。鼻の奥の痛みとこぼれそうになる涙を抑えるのに必死で、電話なのに、こくこくと頷くことしかできない。
「また、遊びに行ってもいいですか」
泣き笑いみたいなゆるんだ声がでた。うん、だめなわけないじゃない、そう力強く頷いた桃井さんも同じような声だった。そういえば言っていなかったと思い至り、結婚おめでとうございます、しあわせになってくださいねとお祝いの言葉を伝える。するとうっかり泣き出した桃井さんに、こちらもうっかりもらい泣きしてしまったことは、青峰くんには秘密にしておこう。
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