坂におるね、と短いメッセージを送信し、志摩はメール画面を閉じた。
ここのところはたいして雨も降らず、梅雨が続いているんだか知らないうちにもう終わってしまっていたんだかわからないような天気だったが、やはりまだ梅雨は明けていなかったらしい。昨夜はずっと雨音がしていたし、今日は朝から曇り空で、ときおり雨もぱらついていた。今は運良く止んでいる。
志摩は前線に出る傍ら祓魔塾で詠唱を教えている、というよりも最近では祓魔塾講師の仕事のほうが忙しい。いつもへらりと笑って親しみやすいのに、よく知らないけれど実はなんかすごいらしい、というのが生徒たちの志摩に対する印象である。詠唱なんて、ちゃんと覚えてて、動きながらでも途中で息切れしなけりゃええんよー、などと適当なことを言っているのだから無理もない。もとより詠唱騎士の資格はなんとなく取得しただけで、明らかに騎士のほうに秀でている志摩を詠唱の講師に選んだのはどう考えても人選ミスであろう。といっても、詠唱か体術のどちらか、という二つの選択肢を呈示されて消去法で詠唱を選んだのは彼自身なので、どこまでも人とは変わらないものである。
手の中の携帯が少し震える。あとごふん、と短い返信が届いていた。送り主はもちろん、志摩の愛する恋人こと奥村燐だ。
現在、二人は正十字学園の学校群からは少し離れたところにある、川沿いのマンションで同棲している。表向きは学生時代からの悪友のルームシェアだが、二人は紛れもなく恋人だし、行くところまで行っているのも今に始まったことではないので、これは間違いなく同棲なのである。
坂というのは二人の帰りの時間がかぶったときのお決まりの待ち合わせ場所だ。今日のように志摩が待つこともあれば、スーパーで買い物をしながら燐のほうが志摩を待つこともある。半々くらいの割合だ。
高校卒業後すぐに騎士團勤務となった燐は任務で世界各地に飛ばされたものの、最近はだいぶ落ち着いている。長期の任務は久しくない。志摩にとってはありがたい限りで、休みの予定はあまりかぶらないけれど至って平和な毎日を過ごしている。
ほどなくして、燐がぱたぱたと走ってきた。
「わり! 待った?」
「お疲れおかえりー、そんな待ってへんよ」
「おつかれーただいま。よかったー」
うっすらと額に浮いた汗を腕で拭うと、燐はそんな自分を見つめる志摩ににっこりと笑いかけるのだ。
もう数えきれないほど一緒に歩いてきた帰り道を、ゆっくりと、いつもと同じペースで歩く。どうやら午後の一時的な土砂降りで今日のぶんの雨は最後だったようで、厚かった雲の切れ間からわずかに空がのぞいている。
「はらへったー」
「ほんまおつかれさまー、今日のごはんなに」
「うーん、なに食べたい? なんでもいい以外で」
「そうやなあ……なんやろ」
燐くんのごはんなんでもおいしいからまようー、と笑うと、燐は嬉しそうにはにかみながら冷蔵庫の中に残っていた食材と、それらから作れそうな料理を次々とあげていく。その横顔はとても穏やかで、志摩は料理の話をしているときの燐の横顔を盗み見るのがずっと前から好きだった。
「あかん、めっちゃおなかすいてきた。やばい」
「志摩もおつかれ。もうすぐテストだろ、準備とか大変なんじゃねーの」
「んー、まあ、おれは問題作るわけやないし。その場で詠唱させておしまい」
「手抜きだなあ」
「なに言うてんの、とっさに反応できんかったら意味ないやんか」
「まさか志摩の口から詠唱の話を聞くことになるとは……」
「それに関してはおれも同意」
いつか海へ任務に行ったとき、はじめて燐の前で詠唱した。その任務の帰り、バスの隣の席で、長くなった前髪を海風で揺らしながら「おまえ、詠唱できたんだな。志摩の声けっこう好きかもしんない」と遠い目をしながら呟いたことなど、もう本人は覚えてもいないのだろう。それを少しさびしいとも思うけど、しかし長く一緒にいるということは、その瞬間にはとてつもなくうれしかったりかなしかったりした諸々のことを忘れていくということなのかもしれない。きっと燐だけが覚えていて、志摩はとっくに忘れていることもある。二人とも覚えていることも、二人とも覚えていないこともある。そういういろんなものが積み重なって、今の二人がいるのだろうと、思えるようになったのも最近のことだった。
「あー、そういやおまえ朝ごはん食べなかっただろ! 毎朝おれが作ってやれるわけじゃないんだから、せめてバナナくらい食べろよ!」
「えー……、やってやわらかいバナナおいしくない……」
「おまえがちゃんと早く食わないからやわらかくなってんだよ! バナナも好きでやわらかくなってるわけじゃないんだからちゃんと食え! バナナに失礼だぞ!」
「はーい」
「あと牛乳ちょっとだけ残すのまじでヤメロ。ほんとあと一口二口なんだから飲みきれよ……」
「はーい」
もー、ほんとにわかってんのかよ、と口をとがらせるものの、その口調はどこか楽しげだ。ずいぶん所帯じみた会話だなあと思うが、それがすこしこそばゆくて、くすぐったいような気持ちになる。弟と同じ会話をしたとしてもこんな気持ちにはならないだろう。恋人だけど他人で、他人だから恋人で。そう思うと、むしょうに、ああ、志摩がすきだなあと思うのだった。虫が嫌いでかっこ悪くてめんどくさがりで、すぐ食事を抜くくせに自分のつくったごはんだけは絶対に残さないこの男が、どうあがいても燐はすきですきでたまらないのだ。
「なーににやにやしてんの」
「ひみつ」
「ええー」
「うそ。しまがすきだなーっておもっただけ」
「えっ!」
「いますげえへんな顔してる」
「もー、そうやって突然爆弾落とすのやめてや……」
「そういうかっこ悪いところもすきだよ」
「……今何位くらい?」
けらけらと笑う燐のまるい目を、すこし背筋を折ってのぞきこむ。ガラス玉のような瞳に一瞬クエスチョンマークを浮かべた燐は、すぐさまにやりと、ときどきベッドの中で見せるように、どんなものよりもきれいで挑発的に微笑んだ。
「三千番台までは上がってきたかな」
「そっかあ」
「そーだよ」
「ねー燐くん」
「んー?」
「その顔ほかの人にはせんでね、お願いだから」
「志摩がこれからもおれ一筋だったら、いーよ」
「もうずっと前から燐くん一筋ですう」
川が流れる音を聞きながら、そんな他愛もない会話をぽんぽんと続ける。ほら、やっぱり二人とも覚えていることがあった。
「そういや、トイレの電球がそろそろあかんかも」
「あー……、そういや。なんとか持ちこたえてたけど。やばそう?」
「今日か、まあ明日には確実に切れそう。買い置きあったっけ」
「どうだったけか……、まあ、買って帰ればいいんじゃね」
「ついでにコンビニのプリンも買わなあかんしね」
「なあ、ふつうのケーキとかじゃだめなの? てかむしろおれが焼けるよ」
「じゃケーキは今度、燐くんが休みのときに焼いてよ。食べたい。日曜日の昼の、なんにもないときとかに」
「別にいーけどさ」
こんなに引きずられるなら、もっとちゃんとしたもの買ったのになあと燐がこぼす。学生時代、燐が十五で、志摩が一足先に十六になったとき、当日になって志摩の誕生日であることを知った燐が急いで買ってきたのがコンビニのプリンだった。
「なあ」
「うん」
「人間の熱量って、白熱電球一個ぶんなんだって」
「あー、なんか聞いたことあるかも」
「もっとありそうだなって思ったけど」
「燐くん」
「んー」
「手つないでいい?」
「いーよ」
「白熱電球偉大やなあ」
「そーだな」
人なんて、案外なんでもないような一言で人生が変わったり、傷ついたりする。そして、救われることもある。そういうものだ。
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