昼間は生徒たちの相手に明け暮れていたので、日が落ちてから日課のトレーニングをしようと宿舎の外に出た。“個性”の特性上夏のほうが調子が良いとはいえ、これだけ暑いと気も滅入る。それでも、夜になり風が吹けばいくらかましだなと思いつつ走りに出ようとしたら、ジャージ姿の出久に出くわした。
「あ、かっちゃん。ぐるっと山を回るといい感じの距離と起伏だよ」
いつも通り呑気な顔と声。導入も前置きも何もない、自分たちのいつもの会話の質量。出久の右手の細長い袋だけが、異質だった。
「なんだ、それ」
見ればわかるが、つい聞いてしまう。そんなことは付き合いの長いこいつも当然わかっている。付き合いが長すぎるので、祖父母ともに健在なことも互いに知っている。それゆえに違和感がある、それ。
「ああ……さすがに家から持ってくるのは面倒だったから、現地調達。うちなら焙烙もあるんだけど、割れ物だし重いし置いてきちゃった」
そして、根本的に自分と違う幼馴染は事も無げに言うのだ。死柄木と歴代のみなさんの迎え火をしようと思って、と。
出久があまりにも「別に付き合ってくれなくていいよ」「走りに行かなくていいの」と繰り返すので、三回目でそこそこの強さで尻を蹴り上げたところ、ようやく諦めたらしかった。出久のあとに続いて宿舎の裏側にある水場に回る。バケツか何かないかと目で探したが、出久は迷いない足取りで少し離れたところまで行き、室外機の陰に置いてあるじょうろを取り上げた。水を入れるどぽどぽという音が、うるさい蝉の声に混じる。見下ろす後頭部は、昔とさほど変わらない。
「かっちゃんはさ、遡れば僕たちの林間合宿の時からだけど、色々あったじゃん」
誰と、を明言しないまま、静かな声で出久が言う。
「だからさ、無理とかじゃなくて、……」
言葉が途切れる。その先を継ぐ、適切な言葉を探しているようだった。言わんとすることはなんとなくわかるが、やっぱズレてんだよな俺とこいつは、と改めて思った。
「先生はいいのかよ、夜中に火遊びして」
「火遊びって」
出久が呆れたように笑う。顔が見えなくても手を取るようにわかると思ってしまう自分に、呆れる。
きゅっと蛇口を捻る音が響いた。座ったままの出久が顔を上げて、目が合う。じゃあ、と先生の声色で言って、ビニール袋に入ったままの長い麻がらを差し出した。
「焚き火って得意?」
「余裕だわ」
立ったまま受け取り、ビニールから麻がらを取り出す。購入の目印のテープは近場のスーパーのものだった。夕食を終えて生徒たちを部屋に戻してから買いに行ったのだろう。
「つーか牛とか馬は?」
「いやもうなくて……なんとかこれだけ」
「まあ全員勝手に飛んできそうだしいいのか……いいのか?」
「言っとくけどいつもはちゃんと用意してるよ……!」
麻がらは五本入っていたが太さがまちまちだったので、四本を脇に抱え、一番太いものを目分量で五等分に折る。出久の隣にしゃがんで、それから残りの四本も同様に。まず太いものを井の字の形に組んで、その上に適当に重ねたり立て掛ける。
「なるほど、こうやって組むのか」
「むしろいつもどうやってたんだよ」
「いや、この形を目指してはいるんだけどさ、重ねた側からすぐ崩れちゃって。逆ジェンガのタイムアタックみたいに……」
容易に想像がついて吹き出してしまった。土台の骨組みを作んだよ、と言うと、出久は呑気になるほどねえと頷いていた。
くだらない話をしているうちに、すぐに円錐のような形に組み上がる。火をつけやすいよう微調整を加え、点火していいか聞こうと隣を見ると、ライターを握りしめる間抜けな顔とかち合った。
「え、つけてくれるの?」
そりゃあそうか、と思った。おそらくもう何年も彼らのためにひとりで迎え火を焚いていた出久は、当たり前にライターやらマッチやらを使っていただろう。今夜偶然出くわさなかったら、当たり前に同じように。毎年そうしていることを、自分はこの先もずっと知らないまま。
「……どっちでもいい。いつも通りのやり方でも」
本当にどちらでも良くて、出久の好きにすればいいと思ったが、本人は首を振って嬉しそうに笑った。
「かっちゃんの点火、見たい!」
「じゃあつけンぞ」
右手の上で細かい火花が爆ぜる。点火用に飛び出させておいた細い麻がらに火が移る。土台部分の奥にも火をつけようとするが、風が強くてなかなかつかない。
「やっぱライター貸して」
「はい」
下から覗き込むようにして数ヵ所から火をつけていくと、ようやくひとかたまりの炎になった。
「すごい、ビッグファイヤーだ」
「これでかよ」
「いやほんと、毎年大変だったんだから」
「逆ジェンガだもんな」
会話の合間に、ぱちぱちと爆ぜる音がする。それほど大きな炎ではないが、それでも熱が肌を刺す。
「これで来年はドタバタしないですむよ」
出久が静かな声で言った。もう何年も。こうやってひとりで、火と立ち上る煙を見つめてきたのだろう。おそらくこれまで誰にも言わずに、この先も言うつもりもないまま。隠すとかそんなつもりすらなく、そもそも、誰かに話すという選択肢を初めから持たないままで。
秘密ですらなかったもの。偶然とはいえそれを知ってしまったことは、出久にとっては、良いことだったのだろうか。
名前を呼ばれる。火を見つめたままの横顔が、橙に照らされている。
「付き合ってくれてありがとね」
視線を正面の火に戻し、相槌だけを返す。出久が笑ったのが、気配でわかった。
「歴代のみなさんはさ、お墓とかわからないし、そもそもない人もいるかもしれないし……てん……死柄木も、僕のところは嫌だろうけど、でもスピナーのところとかには帰りたいだろうから」
言い換えた名前。出久にしかわからない、出久しか知らないその姿。出久だけは知っていることは、奴の救いになっただろうか。答えはない。自分も出久も知ることはない。本人にしかわからないことなのだから。
「……麗日もやってんのか」
「どうかな、話したことないから……」
「どうせなら経由地にしてもらえば」
「はは、そうだね。直行便があるならそれはそれで」
「そもそももうこんな夜だけどな」
「それはまあ、みなさんそのへんのご理解はあると思うから……」
「適当かよ」
互いに笑って、会話が途切れる。普段は誰にでも大抵饒舌なくせに、ふたりで話していると、しばしばこういう間がある。息継ぎをするみたいに、自然な沈黙。燃える麻がらの縁が橙に光って揺らめく。幼い頃は一緒に花火をしたこともあったが、二十年も経てば変わるもんだなと思った。煙が立ち上る。すぐそこの火に目が眩んで、星なんて見えるわけもない。
「覚えてる? 小さいときにこうやって花火したよね」
「……同じこと考えてんのがヤダ」
「なんていうかさ、かっちゃん、丸くなったよね」
「ハ? 喧嘩売っとんのか」
「さっき、普通にやっぱりライターも使ってたじゃん」
「効率重視だろ。変わっとらんわ」
「そうかなあ」
しゃがんだまま重心を移すと、ざり、と土を踏む音がたった。火はほとんどなくなり、麻がらは燃えて黒くなったが、まだ残り火が燻って揺らめいている。
「僕が死んだら、かっちゃんちに呼んでもらおうかな」
先ほどの軽口の延長で、同じ声色で、出久が言うので。自分でも引くくらい、地を這うような低い声が出た。
「は?」
「え、違うよ順当にいけば六十年くらいあとの話だけどさ」
うち、従兄弟とかそんなにいないし。かっちゃんち、親戚の子とか多いって言ってたじゃん。自分の子供はたぶんできないしさあ。そんなことをさらりと言う。心底呆れ返って、腹からため息が出た。
「テメー紛らわしい言い方してんじゃねェぞ」
「反射で怒んないでよ」
「前科持ちが言うな」
「かっちゃんち、って言ったじゃん」
人間結局、根っこの部分は変わらないのだろうが、それでも積み重ねで変わっていくものもある。教師という、ある意味天職を得て、受け持ちの生徒という放り出せないものができて、出久にはずいぶんと重石が増えたのだろう。それでも、こいつはいざという時に、きっと考えるより先に動いて、動けてしまう。相互不理解を突き付けられるばかりの腐れ縁なのに、それでも、自分は明確に言葉にできる理由はないまま、今も、出久をひとりにさせたくないと思っている。
やっぱりかっちゃん、丸くなったよ。ちゃんと会話のキャッチボールできてるもん、僕たち。左隣で言う。出久は、と口にしてから、その先の言葉を探す。変わったもの、変わらないもの。それを秤にかけられるほどに相手をよく知っていると断言することは、自分にはとてもできなかった。
「……どうなんだろうな」
正直な気持ちだった。人生の大半をすぐ近くで過ごしたが、全く違う生活を送っていることを差し引いても、今が一番、隣にいるやつのことがわからなかった。心の奥底ではヒーローに未練があるのか、あるいは真逆で、出し切ってそれはそれで晴々とした気持ちなのか、どのくらいのグラデーションなのか。そんなのすべて、本人にしかわからない。違う人間なのだから。
出久は何も言わなかった。会話が途切れて、そのまま、消えゆく火を見つめる。火が消えきったら、水をかけて何事もなかったかのように軽口を叩きながらここを後にする。きっと来年は、例年どおりひとりで、いつもより少し大きな迎え火を焚くのだろう。自分はきっと、夏が来るたびに今夜のことを思い出す。
ぱちぱち、最後の爆ぜる音がする。穏やかに微笑んでいるのが気配でわかる。その横顔を、見ないままでいる。
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