夏のまぼろし

 バスを降りると海のにおいがした。
 ふわ、とあくびをすると流れ込んでくる。海のにおい。塩の、夏のにおい。夏の代名詞のような白い雲が海の向こうに見える。
「早くこい。置いてくぞ」
 先頭を歩く主将の声が聞こえる。

 あれだ、竜の巣だ、と青峰が雲を指差して言うと、黒子は少し目をぱちくりさせてからふっと笑った。
「君も見ましたか」
「ラピュタは見なきゃだろ」
 ここのところ数週間にわたって金曜日に放送しているとあるスタジオのアニメーション映画は青峰のお気に入りだった。昨日の映画もご多分に漏れず、彼はテレビに張りついていたのだという。
 あれは積乱雲っていうんですよ、と黒子がまっすぐ指差す。へえ、と青峰は相槌を打ち、ぴんと伸ばされた彼の腕や指先や横顔や風に吹かれる髪のやわらかさを盗み見た。
テツ、と呼び掛けて止まる。
「青峰くん?」
「あ、や、わり、なんでもない」
 不思議そうに自分を見上げる黒子から視線を外した。
 早くこい、と先頭の赤司が呼ぶ声がする。今日の練習試合の相手は海沿いの学校で、さっき降りたバス停から少し歩かなければいけないらしい。
 ゆるゆると歩き始めるとまた風が吹いた。空気はもう夏で、かといって暑すぎず日射しは厳しすぎず、黒子はこの季節が一番好きだった。過ごしやすいし、空の青がきれいだし、こうして見る海もきらきらと光を反射してすごくきれいだ。
「夏のにおいだ」
 車道側を歩く黒子が、青峰ごしに海を見てそう言った。青峰くんって海とか空とか似合いますよねと笑う。
 その声を聞いた瞬間、ああ、触りたいなと思った。テツに触りたい。それからどうしたいとかなんでそうしたいとかそんなことは関係なく、いま、テツのやわらかそうな髪先に、細い手首に、白い首筋に、まるい頬に触りたかった。そんなことを思うのははじめてだった。はじめてというか、これまでは触りたいと思うよりも先にもう手を伸ばしていた。
「青峰くん、ぼくは怒ってるんですよ」
「へ、」
 怒っているといいながらも声のトーンはさっきまでとまるで変わらない。うかがうようにテツ、と顔を覗きこんだら、黒子はわざと少し頬を膨らませてみせた。
「あんなに、落書きしないでって言ったじゃないですか、教科書」
「え…あ、わり、つい」
「ついって、そんなこと言って青峰くんはぼくが貸した教科書全部にバスケしたいとかつまんないとか書くつもりですか」
「や、なんか」
 授業中に一応のポーズとしてシャープペンシルを持って教科書を眺めてみる。教師の声は耳を素通りしていくけれど、これテツのなんだなと思ったらなにか痕跡を残したくなってしまったのだ。というのは後付けで、無意識のうちにページのすみにシャープペンシルを走らせていたというのが本当のところだった。
「あー、悪かったって。てかさ、そんな濃くなかったろ?消していーよ」
 対抗車線を走り抜ける軽トラックを目で追いながら口を開くと、黒子は不満げな視線でこちらを見ていた。
「青峰くんってわからずやですね」
「は?」
「いえ、こっちの話です」
 とにかく、別にいいですよ、あれ見てふって笑っちゃうこともあるので。
 黒子が青峰を見上げて笑う。

 心臓が止まったような気がした。

 思わず足を止めた彼を振り返って、黒子はこてんと首をかしげる。青峰くん、と呼ぶ声に引き戻されて、大股の二歩ぶんで隣に追いついた。
 左手で黒子の右手を取る。驚いた黒子がこちらを見ていることはわかっていたけど、わざと前と右手に広がる海を見ながら彼の右手を上に放った。反動をつけて上下に揺れる青峰の左手と、黒子の右手が、規則正しくぱちん、ぱちんと音を立てる。
「青峰くん」
 カーブをおれた頃、ふいに呼ばれて目線を落とすと黒子が青峰の手を握った。どきん、と跳ねた心臓に気づかないふりをして握られた手を見つめる。
 数秒間、じっと青峰を見た黒子がゆっくりと手を離すと、青峰の手のひらに青い石が転がっていた。目を見張る青峰に黒子がにやりと笑いかける。
「びっくりしましたか?」
「え、テツこれ、いつ、」
「手品です。飛行石、のつもりでした」
「すげえ! なにこれ!! え、俺、すげえびびったんだけど!!」
 目をきらきらさせてしきりに歓声をあげる大きなこどもに黒子は嬉しそうに微笑んだ。
「あげます、それ」
 お守りがわりにどうぞ、なんて言われたら大事にしまうしかない。黒子は財布を取り出した青峰をどこか照れ臭そうに見つめていた。

 おくれないでついてこいよと先頭の若松が言うのが聞こえる。最後尾をゆるゆると歩く青峰のとなりを桜井が少し多い歩数で歩いていた。
「もうすっかり夏の海ですね」
「あー、そーだな」
 二人の前を歩く一年生たちは初めての出張練習試合に浮わついているらしく、しきりになにかを言い交わしている。もうすっかりやわらかさをなくした日射しは少し汗ばむくらいだ。
「あー、アイス食いてえ」
「帰りに自販機あるといいですね」
「小銭ねーなー」
 いくらあったっけ、と気まぐれでポケットから財布を取り出す。小銭を数える指の動きがふいに止まり、やっぱいいや、と呟いて青峰は財布をかばんの奥底に沈めた。
「青峰さん?」
「やめた。若松におごらせる」
「あ?! 誰がおめーにおごるか!」
「わっ、聞いてたんですか? スイマセン!」
 謝りたおす桜井の声を遠くに聞き流して、青峰は海を見た。
 なあ、テツ、今でも海にくるとあのときのことを思い出すよ。海風も、テツのぴんって伸びた指も、 テツの笑った顔も声も、みんな。
 あれから少しずつ、教科書の落書きに返事をくれるようになったよな。小さなメモをはさんで。あのメモ、いまだに全部とってあるんだ。小さな箱にいれて、ずっと捨てられないまま持ってるんだ。
 おかしいだろ。
 そういうんじゃないんだよ、だけど、いつも最初に思い出すのはテツのことだ。
 テツは覚えてんのかな。どんくらい、俺とのどうしようもないこと覚えてんのかな。俺だけなのかな。テツはもう、そんなことありましたっけって言うのかな。それでいいよ。それでもいいよ。
 あのときテツがくれた飛行石、今でもちゃんと持ってる。テツがくれたんだから本物なんだろ。本物だったら、消してくれよ。このあいまいで自分にもよくわかんないテツへの思い、消してくれよ。

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